本物の味 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
藤村は鏡の前で蝶ネクタイをいじった。三十八歳になっても、こういう装飾品には慣れない。何度直しても、どこかしっくりこなくて、鏡に映る自分の顔つきがどこか他人のように見える。結局、少し左に傾いたまま諦め、厨房に戻ると、白いシェフ帽を軽く頭に乗せた。
ガラス張りの入口越しに見える店前は、すでに人だかりだ。レストラン「ネオ・ハチノス」。開店から二年で「昆虫専門のミシュラン三つ星」を獲得し、今では東京でも指折りの人気店になっている。ソーシャルメディアで「#エコグルメ」のハッシュタグと共に投稿される料理写真は、すでに数百万件を超えていた。
「予約の確認を」
藤村の声は低く、疲れが滲んでいた。昨夜は仕込みで三時間しか眠れていない。
「本日も満席です。キャンセル待ちは……」若いマネージャーの山田がタブレットをスクロールしながら申し訳なさそうに言う。「37組です」
嬉しい報告のはずだが、藤村はただ軽くうなずくだけだった。山田は入社したての頃、キャンセル待ちの報告に興奮気味だったが、最近では藤村の反応が薄いことを察して、淡々と事実だけを伝えるようになっていた。
厨房ではスタッフ十二人が忙しなく動き回っていた。皆、料理学校の首席や有名ホテルの出身だ。まるで時計の歯車のように、無駄な動きは一つもない。
テーブルには色とりどりの料理が並び始めていた。バッタのカリカリサラダ、蜂の子のリゾット、蚕のさなぎのテリーヌ――。食材は奇抜でも、技法は正統派フレンチだ。スタッフたちの表情は真剣で、冗談ひとつも飛ばない。かつての厨房の賑やかさはどこへやら。
藤村はアイランドキッチンの端に立ち、料理の仕上がりを一つ一つ確認しながら、懐かしい記憶に浸った。
あの炭素税が導入されたのは、もう五年前か。牛肉1kgに対して5000円の税金がかかるようになり、鶏肉にさえ1000円以上の上乗せがあった。当時、「虫なんて食えるか」とニュース番組のコメンテーターが鼻で笑っていた。藤村自身も半信半疑だった。
しかし今では、コオロギパウダーのパスタや蟻のアミューズが、一部の富裕層にとって「意識の高さ」の証になっている。SNSでは「#エシカルプロテイン」というタグが流行り、セレブたちが昆虫料理を食べる姿を自慢気に投稿していた。
面白いものだ、と藤村は思う。かつての「贅沢」の定義が、完全に覆されたのだから。
「本日のスペシャリテは、蟻の女王のコンフィです」
ソムリエの声がホールに響く。フランス語と日本語が混ざった紹介の言葉に、客席から小さな拍手が起こった。
最初の客は、黒いスーツの実業家と、金のアクセサリーをぶら下げた女性だった。男はメガネの奥の目をキラキラさせながら、スマホで料理の写真を撮っている。投資家だろうか、それともただの料理マニアか。
藤村は深く息をついて、サービス用のメニューに目を走らせた。どんな食材でも、最高の一皿に仕上げる。それが彼の流儀だった。大学を出てすぐにパリへ渡り、十年間修行して帰国した実力は本物だ。
「シェフ」
アシスタントの高木が近づき、小声で囁く。耳飾りが揺れる。「517号室の方がお会いしたいと」
517。藤村は無意識に眉間をシワ寄せた。あの部屋番号は、政府の役人が使うために用意されたものだった。営業許可の検査かと思ったが、先週済んだばかりのはずだ。
「……わかった」
タオルで手を拭き、スタッフにまかせて専用エレベーターに乗り込む。ボタンを押す指先が微かに震えていた。エレベーターの鏡に映る自分の顔は、少し青ざめて見える。
5階。ドアが開くと、窓のない簡素な部屋の中央に、黒いスーツの男が一人座っていた。三十代前半だろうか。切れ長の目と、薄い唇。立ち上がる気配はない。
「藤村シェフ、素晴らしい料理でした」
感情の読めない声だった。わざとそう訓練しているのかもしれない。
「恐縮です」
藤村は正面の椅子に座った。座面が少し沈む。
「今日は提案があって伺いました」
男はタブレットを取り出し、無造作に画面をスワイプした。長い指が画面の上を滑る。
「『ミート・ゼロ運動』の次のステップです」
藤村は黙って画面を見た。透明な培養液の中で何かが脈打っている映像。人工筋肉。いや、それだけではない。
「これは……蝿か?」
「元は、そうです」男の声は淡々としていた。時折、左目が痙攣するのが気になる。「蝿のDNAをベースにしていますが、味も食感も、A5和牛と遜色ありません。技術的には完成済み。ただ、問題は"誰が広めるか"なんです」
藤村は言葉を飲み込んだ。胸の奥に、小さく鈍い痛みが広がる。培養肉自体は新しい技術ではない。だが、昆虫のDNAから牛肉風の培養肉を作る?それは初めて聞いた。
「私は……昆虫そのものの、命の味を扱っているつもりです」言葉が喉から絞り出される。「これは、ただのコピーだ。虫ですらない」
「なるほど」
男は頷いたが、特に驚いた様子はなかった。予想通りの答えだと言わんばかりの表情だ。
「では、参考までにお知らせしておきます。あなたのレストランの隣のビル、政府が買収しました。来月から、本物の牛肉を使ったレストランをオープンします。価格は庶民向け。もちろん、炭素税は免除対象として扱う予定です」
藤村の背筋が凍るのを感じた。椅子の背に手を置き、しばらく口を閉ざしていた。レストランの真横で、合法的に"本物の牛肉"を出すというのか。しかも補助金付きで。自分たちの積み上げてきたものが、ただの演出として見なされる日が来るのか。
部屋の空気が重くなる。天井のライトが微かに瞬いた。
「政府が……牛肉レストラン?」
「正確には、『新世代タンパク質文化促進事業』ですね」男は薄く笑った。「選択ですよ、シェフ。本物の虫か、偽物の牛肉か。消費者が求めるのは、どちらだと思います?」
男は名刺だけをテーブルに置いて、立ち上がった。高い背丈に、無駄のない動き。
「それでは、ご検討を」
扉が閉まり、静寂が戻った。藤村はしばらく動けなかった。指先がじっとりと濡れている。いつの間に、こんなに汗をかいたのだろう。喉が乾いたが、水も置かれていなかった。
やがて、名刺を拾い上げる。「文科省・培養肉開発責任者」。そう印刷されていた。
「本物か、偽物か……」
呟いた言葉は、誰に向けたものでもなかった。
厨房に戻ると、ちょうどドアが開き、新しい客が入ってきた。笑顔の若いカップル。女性の方は、すでにスマホを取り出し、店内を撮影している。
彼らは、何を食べに来ているのだろう。本物の味か、それとも話題の味か。それとも、自分が何を食べているかという「物語」か。
藤村は手袋をはめ直し、鍋の火を強めた。
外は夜だった。高層ビルの光が、蟻の巣のように東京の街を照らしていた。空には星がない。もう何年も、星を見ていない気がした。
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