矢の重さ 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
「この会議は、人類の未来を賭けた戦いです。まずは——レジャーから排出量を削減しましょう」
2038年、スイス・ジュネーブで開かれたCOP46の舞台に、疲れた表情のスーツ姿の代表団が次々と立ち上がった。この日までで会議は17日目を数えていた。まだ合意の兆しはない。
いつものように自動車産業、航空業界、肉牛生産者がやり玉に挙がるかと思いきや、会場が静まり返ったのは、その次の演説だった。
「次に取り上げるのは……日本のソフトダーツ産業です」
どよめきが走った。議場の通訳ブースでは、男が慌てて資料をめくる音が聞こえた。
「我々イギリスは、古くからハードダーツを愛してきました。鋼鉄の矢と、麻の的。麻は分解性に優れた炭素固定素材です。それだけで十分でした。電気も、ネット接続も、不要です」
英国代表は眉一つ動かさずに言った。マイクの調子が悪いのか、彼の声はたびたび途切れた。
「対して、日本のソフトダーツはどうでしょう。得点はセンサー、的はプラスチック、対戦はオンライン、スコアの演出にLED、果てはテーマソングまで再生される。一投ごとに0.014グラムのCO₂が発生している。年間延べ16億投。合計……」
「2240トンの排出量です」
ドイツ代表が冷たく補足した。「これは小規模島嶼国一国の食料輸入全体の排出量に匹敵します」
日本の代表席では、ソフトダーツ業界を統括する某連盟の理事・村田が顔をひきつらせていた。国をまたいで遊ばれるダーツという娯楽が、まさかこんな形で気候正義に晒されるとは思いもしなかったのだ。
「いや、しかし! ソフトダーツは……人々の心をつなぎ、希望を届けているんです」
「希望はカーボンを吸収してくれますか?」
反論は一蹴された。
「我々は、21世紀前半から続く特に日本の"電化された娯楽"は気候危機を加速させていると考えます。単に効果音と光で満足感を得るためだけに、なぜ電力を浪費するのでしょうか」
議場には、無機質な緊張が漂った。まさか先進国同士でこんな形の"対立"が起きるとは。どちらも気候目標には賛同している。しかし、削減の方法論となると、文化の違いが鮮明に浮かび上がる。
翌週、日本の報道番組では"矢の重さ"について連日取り上げられていた。
「ハードダーツに戻せば、CO₂排出量は年間80%削減できるという試算も出ています」
「でも、あの盛り上がり、あの音楽、光の演出があるからこそ、初心者が楽しく投げられるって声も多いんです」
「そもそも、ダーツなんてマイナー競技を槍玉に挙げるとは何事だ」
「他にもっと削減できることがあるだろう」
SNSでは怒りの声があふれた。だが、COP46で何が起きているかを詳しく読んでいる人は少なかった。実は、ソフトダーツだけでなく、ボウリング場のオートスコアリングシステムやビリヤードの電気式採点装置、カラオケボックスの"一人用防音ルーム"など、日本で発展した電化娯楽全般が標的になっていたのだ。
業界最大手のダーツ機器メーカー・ダーツアローイノベーションズ社(通称DAI)が打ち出した新戦略は——"カーボン・オフセット・プレイ"だった。
ソフトダーツのスロー1回につき、1円が植林活動に寄付される仕組み。環境意識の高いユーザー向けには、再生プラの矢や、非照明モードの"サイレント投法"も開発された。記者会見では、ぎこちない笑顔でCEOが「娯楽と責任の両立」と何度も強調した。
村田はDAIの元開発部長だった。今では理事の肩書きを持つが、かつては彼自身がソフトダーツ革命を主導した一人だった。1990年代のデジタル化の波を受け、従来のハードダーツを「もっと盛り上がる」ものに変えたのは彼のチームだ。
「今さら後戻りはできない」と彼は考えていた。日本のダーツバーの88%がソフトダーツを導入している。国内のプレイヤー人口は推定1200万人。業界全体の年商は350億円に及ぶ。
しかし国際的なプレッシャーは強まるばかりだった。
ネットは冷酷だった。
「一万回投げてやっと一本の苗木て。こっちは肘壊すわ」
「そもそも植林地に行くトラックのCO₂はどうすんの?」
「倫理的ペイント使って的を手塗りするとか、今すぐできる対策あるよね」
一部のマニアたちは、自作の"手動ソフトダーツ"を作り始めた。矢を刺すと、カウントダウン用の数字が木製のパタパタ表示で切り替わる仕組み。照明もないし音も鳴らない。ネットでは「MANUARTS」というハッシュタグとともに、手作りの的や再利用可能なダーツの作り方が拡散していた。
「電気使わなくても、意外と面白いんだよね」
「結局、矢を投げる感覚そのものを楽しむんだ」
そんな声が増え始め、村田は焦りを覚えた。
COP46から3ヶ月後のある土曜日、東京・下町の商店街の裏路地に、ちょっと変わったダーツバーがオープンした。
看板には、一文字変えた古めかしいひらがなで「やのや」と書かれている。
店内には、古びた木製のダーツボードがぽつんと一枚。壁には「音と光のないダーツバー」と手書きの張り紙。マスターは無口な老人で、矢はすべて自作。羽根は古新聞、軸は竹、先端だけが鋼でできていた。
「採点は、目で見て、自分で数えるのが一番正確だよ」
そう言って笑うその顔には、深いしわがあった。
じわじわとその店に、若者が集まり始める。最初は好奇心で訪れる程度だったが、やがて常連ができ始めた。彼らはハードダーツの感触を知らなかった世代だ。だが、矢を投げるたび、手に伝わる重さと空気の揺れが、妙に心地よい。画面も音もないのに、気づけば夢中になっていた。
「人間って、こんな静かでも、ちゃんと楽しめるんだな」
誰かがぽつりと呟いた。
それを聞いて、マスターは小さく笑った。「ダーツの矢が軽くなっても、人間の心まで軽くなっちゃ、いかんからな」
その日の夜、店の入口のドアが開いた。村田だった。彼はしばらく店内を見回してから、カウンターに座った。
「ひとつ、ください」
マスターは黙って竹の矢を三本、彼に渡した。村田はそれを受け取り、ボードに向かう。重さに驚いた表情を見せる。目をつぶり、ゆっくりと呼吸を整えてから、最初の一投。
矢は的の端に刺さった。わずかな音だけが響く。誰も点数を言わない。
次の一投。今度は中心に近い位置に刺さった。村田の口元が緩んだ。
最後の一投。矢は真ん中、ブルの一段外に刺さった。
「久しぶりだね、こういうの」と村田はつぶやいた。「懐かしい」
「あんた、昔からダーツやってたの?」とカウンターで飲んでいた若者が聞いた。
「ああ、学生の頃はハードダーツしかなかったからね」と村田。「でも、時代が変わるとともに、ダーツも変わったんだ。僕たちは"進化"だと思ってた」
マスターがグラスを拭きながら言った。「進化って言葉は難しいね。前に進むことだけが進化じゃない。時には原点に戻ることも、進化かもしれないよ」
店内に沈黙が流れた。
誰かが電気を消す音がした。薄暗い店内で、村田は竹の矢を手に取り、もう一度投げた。暗がりの中で的に当たる音だけが響く。
「重いな」と彼はつぶやいた。声には不思議な安堵感があった。
外では、環境対応型LED街灯が午後9時を過ぎて自動で明るさを落としていた。暗がりの中、「やのや」の手書き看板だけが、うっすらと浮かび上がっていた。
その夜、帰宅した村田は会社のノートPCを開き、メールを打ち始めた。宛先は、DAIの開発チーム全員だった。
「新プロジェクトの提案:ハイブリッドダーツ構想について」
件名を入力したところで、村田は手を止めた。窓の外を見ると、次第に暗くなる都市の夜景が見えた。省電力政策により、かつてのような明るさはなくなっていた。
しかし、彼の心は妙に晴れやかだった。
「重さを取り戻す」と、彼は小さく呟いて、タイピングを再開した。
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