序章 二つの依存、二つの解放 【タバCO₂ダイエット】
タバコと化石燃料 私たちが手放せないもの
朝の通勤電車、新橋駅で乗り込んできた中年男性が、慌てたように電子タバコを鞄にしまい込んだ。隣の席では、若い女性がスマートフォンで「カーボンフットプリント計算アプリ」を操作している。昨日の移動や食事で排出したCO₂を確認しているようだ。
一見すると無関係な二つの光景。しかし、よく観察してみると、どちらも同じことをしている。「何かをやめよう」「何かを変えよう」としているのだ。
電子タバコの男性は、おそらく禁煙への移行期間中だろう。紙巻きタバコから電子タバコへ、そしていつかは完全禁煙へ。一歩ずつ、確実に変化している。
スマートフォンの女性は、自分の環境負荷を「見える化」することで、より環境に優しい生活を目指している。今日の外食は地産地消のお店にしよう、明日の移動は電車にしよう。彼女も一歩ずつ、確実に変化している。
なぜ人間は、体に悪いと分かっていてもタバコを吸い続けるのだろう。なぜ企業は、環境に悪いと分かっていても化石燃料に依存し続けるのだろう。
答えは簡単だ。どちらも「今すぐの快適さ」を提供してくれるからだ。タバコを吸った瞬間、ニコチンが脳に働きかけてストレスを和らげてくれる。化石燃料を使った瞬間、エネルギーが生まれて快適な生活を支えてくれる。この「即効性」が、依存を生み出す根本的な構造なのだ。
一方で、害は「遅効性」だ。タバコを吸った瞬間に肺がんになるわけではない。化石燃料を使った瞬間に気候変動が起こるわけでもない。問題は何年も、時には何十年も経ってから表面化する。
この「快適さの即効性」と「害の遅効性」のギャップが、私たちを縛り続けている。
個人の禁煙と企業の脱炭素:驚くほど似ている挑戦
佐藤さん(45歳)は、20年間、1日1箱のタバコを吸い続けてきた。「健康に悪いのは分かっている。でも、仕事のストレスでつい手が伸びてしまう。禁煙なんて考えたこともない」。これが3年前の佐藤さんの正直な気持ちだった。
一方、従業員100名の製造業を営む田中社長(52歳)も、似たような状況にあった。「地球温暖化は深刻な問題だと思う。でも、うちのような小さな会社が何をしても変わらない。脱炭素なんて大企業の話でしょう」。これが同じく3年前の田中社長の認識だった。
佐藤さんと田中社長に共通するのは、問題の存在は薄々感じているものの、「自分事」として捉えていない点だ。この段階を、心理学では「前熟考期」と呼ぶ。
しかし、その後の展開も驚くほど似ている。
佐藤さんに転機が訪れたのは、同い年の同僚が心筋梗塞で倒れた日だった。「明日は我が身かも...」。初めて禁煙を真剣に考え始めた。
田中社長に転機が訪れたのは、最大の取引先から「来年度からサプライチェーン全体での脱炭素対応が必要」と通告された日だった。「対応しないとビジネスが成り立たないかも...」。初めて脱炭素を真剣に考え始めた。
どちらも「もう無視できない」という状況に直面し、「熟考期」に移行した。そして「やってみよう」と決意し(準備期)、実際に始めてみると予想以上に苦労し(実行期)、最終的には「もう元には戻れない」新しい自分や組織に生まれ変わった(維持期)。
現在、佐藤さんは禁煙3年目を迎え、田中社長の会社は地域の脱炭素優良企業として表彰を受けている。二人とも「あの時変われて本当によかった」と振り返る。
この変化のプロセスは、決して偶然ではない。人や組織が変わるときには、一定のパターンがある。そのパターンを理解することで、変化を確実に、そして効率的に進めることができる。
副流煙と炭素排出:出した人より周りが迷惑な話
興味深いことに、タバコの煙もCO₂も、「出した人より、周りの人の方が被害を受ける」という共通点がある。
喫煙者は「自分の体だから、自分の責任」と思いがちだ。しかし、副流煙による受動喫煙の害は、むしろ周囲の人の方が深刻だ。世界保健機関(WHO)によると、受動喫煙による死者は年間約60万人に上る。特に子どもや妊婦、既に病気を抱えている人への影響は甚大だ。
喫煙者自身は、ニコチンによる「快感」を得られる。しかし、周囲の人は害だけを一方的に押し付けられる。これは明らかに不公平だ。
大量にCO₂を排出する企業や富裕層は、そのエネルギーによる「利便性」を享受している。しかし、気候変動の被害を最も受けるのは、途上国の貧しい人々や将来世代だ。
CO₂を出した人たちは、そのエネルギーによる「快適さ」を得られる。しかし、被害を受ける人たちは、害だけを一方的に押し付けられる。これも明らかに不公平だ。
この不公平に社会が気づいた時、大きな変化が始まった。
受動喫煙の害が科学的に証明されると、社会は「個人の自由」よりも「公衆衛生」を優先するようになった。飲食店の全面禁煙、公共施設での禁煙、職場の分煙強化。今では、人前でタバコを吸うこと自体が「マナー違反」と見なされる。
気候変動の害が科学的に証明されると、社会は「企業の自由」よりも「地球環境」を優先するようになり始めている。カーボンプライシング、RE100、ESG投資。これから数年で、環境配慮なしの経営は「時代遅れ」と見なされるようになるだろう。
本書の読み方:あなたの現在地を見つけながら進む旅
この本は、単なる「禁煙のすすめ」でも「脱炭素のすすめ」でもない。むしろ、「変化のプロセス」を理解し、「今の自分にとって最適なアプローチ」を見つけるためのガイドブックだ。
心理学者プロチャスカとディクレメンテが発見した「変化のステージモデル(TTM)」では、人は5つの段階を経て確実に変わることができる。
前熟考期:「問題ない」と思っている段階
熟考期:「変わった方がいいかも」と迷っている段階
準備期:「よし、やってみよう」と決めた段階
実行期:「実際にやってみて」いる段階
維持期:「新しい習慣が定着」した段階
この本では、禁煙と脱炭素のそれぞれの段階を詳しく描いていく。あなたは読みながら、「今の自分はどの段階にいるのか」を確認できるだろう。
さらに、この本では変化を三つのレベルで捉えている。
個人・企業レベル:あなた自身や、あなたの会社の変化
社会レベル:制度や文化、世論の変化
相互作用レベル:個人・企業と社会がお互いに影響し合う変化
一人の変化は、家族や職場に影響を与える。企業の変化は、業界や地域に影響を与える。そして社会の変化は、個人や企業の行動を後押しする。この相互作用を理解することで、あなたの変化をより効果的に、より持続可能にできるだろう。
各章の最後には「読後のあなた」として、その章を読むことで得られる具体的な能力を明記している。この本は、読み物であると同時に、実践的なワークブックでもある。
読み終えた時、あなたは単に「禁煙と脱炭素が似ている」ということを知識として理解するだけでなく、「変革の仕掛け人」として具体的に行動できるようになっているはずだ。
冒頭の電車の光景に戻ろう。電子タバコをしまい込んだ男性も、カーボンフットプリントアプリを見ていた女性も、きっと今も変化への道のりを歩んでいる。時には挫折し、時には再挑戦しながら、確実に前に進んでいるだろう。
そして、この本を読んでいるあなたも、きっと何かを変えようとしている。その「何か」が禁煙なのか、脱炭素なのか、それとも全く別のことなのかはわからない。
でも、一つだけ確実に言えることがある。変化は決して一人で成し遂げるものではない。家族や同僚、友人や取引先、そして社会全体の支えがあってこそ、持続可能な変化が実現する。
この本が、あなたの変化の旅路における「心強い道連れ」となることを願っている。そして、あなたの変化が、周囲の人々の変化のきっかけとなることを。
一人の小さな決断が、やがて大きな社会変革の波となる。その波の最初の一滴が、今日のあなたから始まるのかもしれない。
【読後のあなた】 自分と会社の「変化のステージ」が分かり、次の一歩が見える
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