養殖の正義 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
「真鯛は左、養殖は右に分けてね」
和泉は黙って魚を分類し続けた。今日も寿司店「こはく」の朝は早い。2036年、東京の下町に唯一残った江戸前寿司の老舗だ。
「和泉くん、明日のカーボンオークションの準備は?」
店主の矢部が声をかけてきた。彼の父の代から続く店を守るため、矢部は毎月の排出権競りに参加していた。伝統食文化保護枠という特別カテゴリーだ。
「全部整いました。でも、今月は相場が高そうです」
和泉は明後日の大学の気候政策の講義のことを考えていた。彼は寿司職人見習いでありながら、環境倫理学を専攻する大学生だった。
翌日、オークションの会場でも和泉は矢部の隣で黙々と端末を操作していた。スクリーンに数字が飛び交う。
「天然魚介類輸入権、一キロあたり4.2クレジットから」
この十年で、天然魚の価格は三倍になった。持続可能な漁業認証を受けた漁場からの水揚げしか認められなくなり、そこにカーボンプライシングが加わったからだ。
「これじゃ、俺たちの店、もたないよ」
矢部のつぶやきに、和泉は何も答えられなかった。
講義室では、教授が養殖技術の最新事例を紹介していた。
「現在の養殖産業は、かつての肉食問題と同じ転換点にあります。技術革新により、天然魚との差はほぼなくなりました」
和泉は手を挙げた。
「しかし、江戸前寿司の文化的価値は天然素材と職人の技にあります。養殖に置き換えたら、それはもう江戸前ではないのでは?」
教授は微笑んだ。
「価値とは何か、を問うべき時なのでしょうね。文化か、それとも持続可能性か」
その夜、和泉は店の裏で矢部と向き合っていた。
「今日のオークション、資金が足りなかった」
矢部の声は重かった。
「来週から、養殖メインでいくしかない。客に黙って」
和泉は驚いた。「それは詐欺になります」
「でなきゃ店が潰れる。お前の教授様は高尚なこと言ってるけどな、現場はそうもいかねぇんだよ」
沈黙が流れた。和泉は明日から始まる認証検査のことを考えていた。
次の朝、和泉は早めに出勤した。冷蔵庫を開け、昨日分けておいた魚を全て取り出した。そして天然と養殖のラベルを、全て取り替えた。
店に入ってきた矢部は和泉の作業を見て固まった。
「何やってる?」
「天然を養殖に、養殖を天然にしました」
「狂ったか?」
和泉は静かに答えた。
「認証官はラベルしか見ません。お客さんも同じです。味の違いなど、誰にもわからない」
「それじゃあ意味が—」
「ないんです」和泉は言い切った。「天然か養殖かという二項対立自体に、もう意味がないんです」
矢部は黙り込んだ。
「お客様が『美味しい』と言ってくれること。それだけが唯一の真実です」
その日から「こはく」では、全ての魚に「持続可能」というラベルだけが貼られるようになった。天然も養殖も書かれていない。
客は相変わらず「こはく」の寿司を絶賛し続けた。和泉はときどき考える。自分が守ったのは何だったのか。寿司文化か、それとも地球環境か。
あるいは、ただの自分の良心か。
正解を知る人は、誰もいない。
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