記録映像「循環の輪」 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
マイクを手にした女性が不自然な笑顔でカメラに向かって語りかけていた。それは2075年、日中合同で製作された環境教育映像だった。
「皆さん、これから『自転車革命から電動革命、そして再び』と題された、中国での移動手段の変遷に関する貴重な記録映像をご覧いただきます」
映像は2022年の北京の朝のラッシュから始まった。無数の電動バイクが道路を埋め尽くし、整然と交差点を通過していく。かつての自転車大国から電動モビリティ大国へと変貌を遂げた中国の成功物語。
「中国はわずか20年で10億台以上の自転車を電動バイクに置き換えました。この転換は、中央政府の強力な政策決定と補助金制度によって驚くべき速さで達成されたのです」
ナレーションは誇らしげに続く。「この変革は、当時の中国の経済成長と近代化への強い決意を反映したものでした。効率性と便利さを求めた結果です」
津田隆平は体育館の後部座席で、何度も見た記録映像に目を細めていた。大学の環境科学科の講義で、教授はいつもこの映像で授業を始める。学生たちにとっては「古典」だが、彼にとっては遠い記憶の中の実体験だった。
映像は2035年頃の様子に切り替わった。巨大なバッテリー工場と、山積みになった使用済み電池の映像。中国政府が公式に認めた環境危機の瞬間だった。
「電動化の加速により、中国は前例のないリチウム危機に直面しました。海外からの輸入に依存し、価格は10年で20倍に高騰。同時に、廃棄バッテリーの処理問題は環境と健康に深刻な影響を及ぼしました」
津田は思わず目を閉じた。父が環境省の役人だった彼は、この危機の際に緊急招集で北京に派遣された日本代表団の一員として、幼い頃に中国を訪れていた。汚染された土壌と廃棄物の山を見た記憶が、今でも鮮明に残っている。
映像は面白いタイミングで切り替わった。2045年、国家主導の「緑の輪プロジェクト」の発表シーン。荘厳な音楽とともに、同じ演壇に立つ中国の主席と国連事務総長。
「中国政府は驚くべき決断を下しました。全国の電動バイクを段階的に廃止し、再び自転車を国民の足とする政策転換です。この決定は世界を驚かせました」
学生たちは小さくざわめいた。彼らの世代には想像しがたい政策転換だ。今の彼らにとって、自転車は当たり前の移動手段であり、電動バイクは博物館でしか見たことがない。
「中国政府の説明によれば、『我々は先祖の知恵に立ち返った』とのことでした。自転車は常にカーボンニュートラルな移動手段だったのです。排出ゼロ、資源消費も少なく、製造・廃棄において環境負荷が最小限であるという事実を、私たちは一時忘れていました」
津田はペンを置いて考え込んだ。この映像のナレーションが伝えないことがある。電動化政策の背後にあった外資系企業と政府の密接な関係、そして「緑の輪プロジェクト」が実は電池資源の枯渇と価格高騰に対する戦略的撤退だったという事実。彼の父は晩年、その内幕を息子に打ち明けていた。
「中国の再自転車化政策は、世界のカーボンニュートラル達成に大きく貢献しました。2055年までに中国全土で15億台の自転車が再び街に戻り、CO2排出量は年間で2億トン削減されました」
映像は2065年の北京の朝の風景で締めくくられていた。かつての電動バイクのラッシュと同じ交差点で、今度は色とりどりの自転車が整然と流れていく。
「中国の循環の物語は、私たちに重要な教訓を残しています。最も進んだ技術が必ずしも最善の解決策ではなく、時に最も単純なソリューションが最も持続可能であることを」
教授が映像を止め、照明が明るくなった。
「皆さん、今日はこの記録映像を見ながら考えてほしいことがあります。なぜ私たちは一度捨てたものに戻らなければならなかったのか。技術の進歩と環境の持続可能性のバランスをどう取るべきか。そして何より...」
津田は静かにノートを閉じた。教授の言葉を遮るように、隣の学生が彼に耳打ちした。
「ねえ、本当に中国人は自転車から電動バイクに変わって、また自転車に戻ったの?何か信じられないよね」
津田は少し考えてから応えた。
「うん、でもこの映像が言わないことがある。本当は選択肢がなくなったから戻っただけなんだ。でも結果的に、最初から正しかった道に戻れたとも言える」
学生は首を傾げた。「じゃあ、なぜ最初から自転車のままじゃなかったの?」
津田は窓の外を見た。キャンパスを横切る学生たちの自転車の流れ。
「良い質問だね。それがこの授業の本当のテーマかもしれない」
彼は答えなかった。どんな答えも、彼らがこれから自分たちの手で作り出す未来の前では、過去の解釈に過ぎないから。
いいなと思ったら応援しよう!
あなたのチップが、観測を続けさせてくれます。SNE理論・GX実践の書籍化と、毎日更新の継続に使わせていただきます。応援、ありがとうございます。