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スープの記憶 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】

2039年、東京・武蔵小山。

「一期一会」という、小さなラーメン店の前で、今村祐介は足を止めた。商店街の片隅にある目立たない外観だが、インフォグラスには高評価のマークが点滅している。視界には「ネット評価4.92」「ウェイティング12分」「エネルギー効率AAA」の文字が浮かんでいた。

木の扉を押して中に入ると、カウンター席だけの小さな店内に数人の客。壁際には小型の調理ユニットがあり、それを操作しているのは50代くらいの店主らしき男性だった。

「いらっしゃい」

声に促され、祐介は静かに席に着く。カウンターの天板がタッチ対応になっており、手をかざすとメニューがふわりと浮かび上がる。

「初めてですか?」店主が声をかけてきた。

「はい。評判を聞いて来ました」

「おすすめは豚骨醤油。うちは“炭素ニュートラル認証”取ってるから、安心して食べていいよ」

2034年に導入された飲食店向けカーボンクレジット制度の影響で、昔ながらのラーメン店は激減した。とくに寸胴鍋で長時間スープを煮込むような店は、炭素税の重みに耐えられず、次々と姿を消していった。

「じゃあ、そのおすすめで」

店主がうなずいてタブレットに入力すると、奥のユニットが動き出した。

「昔ながらのラーメンって、もうあんまり見かけなくなりましたよね」

祐介の言葉に、店主は作業しながら答える。

「ああ、昔はガスで火をつけっぱなしにしてたからな。今じゃあの方法、営業許可すら下りないよ」

店の中にふわりと立ちこめる、懐かしい香り。祐介はふと鼻をくんくんと動かす。

「でも、この匂い…まさか本物のスープですか?」

「それがうちの秘密だよ」

店主はカウンターの裏手にある壁に手を伸ばし、軽く触れる。パネルがスライドし、床下から現れたのは、丸い機械だった。

「地熱蓄熱式スープメーカー。地下120メートルから地熱を汲み上げて、24時間かけて低温抽出してる。電力消費は従来の15分の1。でも、味は——100%本物さ」

祐介は驚いた。狭い店の床下に、そんな未来的な装置が眠っていたとは。

「それだけじゃない」

店主が続ける。

「うちの豚骨は“カーボン・ネガティブ・ファーム”の提携農家から仕入れてる。飼料は食品廃棄物由来で、メタン削減の技術も入ってる。だから普通の半分のカーボンフットプリントで済む」

「ピンッ」という音とともに、奥のユニットから丼が出てきた。

「お待たせ。豚骨醤油ラーメンだ」

テーブルに置かれたラーメンから、湯気とともに濃厚な香りが立ちのぼる。表面には油の層、下には透き通った琥珀色のスープ。チャーシューは絶妙な焼き色、細めのストレート麺が湯気の中に泳いでいる。

一口すすると、祐介の目が見開かれた。

——まぎれもない「本物の」ラーメンだ。

「驚くだろ?」店主がにやりと笑う。

「この味を守るのに、10年かかった」

祐介が黙々と食べていると、店主はゆっくりと語り始めた。

「昔は、うちも有名店だったんだよ。でも2020年代の終わり、炭素税が跳ね上がって、ガス火でスープを炊くようなやり方じゃ、もう立ち行かなくなってね。修行していたShinShinとか一風堂さんとか大手はスープの工場生産に切り替えたみたいだけど。俺は、味を捨てたくなかった」

そう言って、店主はカウンターの下から古い写真を取り出した。寸胴鍋の前で、若かりし日の彼が笑っている。

「2030年、一度店をたたんで、エンジニアの友人と新しい調理システムを開発した。地熱を使った、エネルギー自給自足型のラーメン店。最初は誰も信じちゃくれなかったよ。『そんなもんで本物の味が出るわけない』ってね」

祐介はスープを一滴残らず飲み干した。

「でも、出てますよ。本物の味です」

「だろ? 技術は敵じゃない。伝統を守るための、相棒さ」

店主は空いた丼を下げながら、さらに続ける。

「今じゃ、全国に同じシステムを使った店が50軒くらいある。“Shinラーメン文化継承協会”って名前で、職人同士が協力しながら、スープの味と環境を両立してる」

会計を済ませようとすると、店主が小さなカードを手渡してきた。

「興味があるなら、これ見てみな。来月、武蔵小杉で“未来のラーメン博”があるんだ。うちをはじめ、次世代のラーメン職人が集まる」

カードにはこう書かれていた。

——伝統 × 技術 × 持続可能性

「小山じゃなくて、小杉の方ですね。行ってみます。ごちそうさまでした。ほんとに、美味しかったです」

店を出た後、祐介はふと夜空を見上げた。ビルの隙間から、いくつかの星が顔をのぞかせている。

昔のラーメン屋には、夜空に立ちのぼる湯気と、火の匂いがあったという。今はそれが見えない。でもその代わりに、目には見えない技術と、見えない努力が、味を支えている。

祐介は、スマホで“未来のラーメン博”のチケットを予約しながら思った。

文化は、ただ形を守ることじゃない。姿を変えても、芯が残ること。それこそが、本当の継承なんだ。


#創作大賞2025 #お仕事小説部門  #カーボンダイエット #ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集


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