宇宙船の航路 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
「あなたはどちらの側に立つのかと聞いているんです」
古い宇宙ステーションの観測デッキで、若い環境政策官のジェンが詰め寄った。ボルトが緩み、微かに振動するデッキの向こうには、青く輝く地球が見える。「宇宙船地球号」と呼ばれた惑星だ。
「そんな単純な問題ではない」と老科学者のヴァスは言った。彼はステーションの窓枠に寄りかかり、地球を眺めている。82歳のヴァスは、現役最長の軌道居住者だった。「この距離から見ると、ボールディングが正しいように見える。閉鎖系としての地球。だが近づけば、ヨナスの懸念も理解できる」
「時間がありません」とジェンは焦りを見せた。「地球連合は10時間後に投票します。『未来世代資源保全法』か『現世代最適化法』か。あなたの意見が決定的になる」
「わかっている」とヴァスは静かに言った。「だが本当に私の判断が必要か?データはすでに示している」
彼は壁面のコンソールに触れた。半透明のホログラフが宙に浮かび上がる。
「左がケネス・ボールディングの『宇宙船地球号』経済モデル。右がハンス・ヨナスの『未来への責任』倫理学だ」
二つの数式と図表が並ぶ。一見複雑だが、ヴァスが長年研究してきた対象だ。
「ボールディングは1966年、地球を閉鎖系の宇宙船として捉えた。資源は有限で、持続可能な循環型経済を構築しなければならないと」
ジェンはうなずいた。「環境政策の基本概念です」
「そしてヨナスは1979年、技術の力が増大する中で、未来世代への責任を現在世代が担うべきだと主張した」
「それも基本です」とジェンは少し苛立ちを見せた。「どちらも環境保護の原則ですから、矛盾するはずがない」
「本当にそうか?」とヴァスは問いかけた。「二つのモデルを重ね合わせてみよう」
ホログラフが変化し、両方の理論が統合された複雑なグラフが現れた。そこには明らかな発散点が示されている。
「ここがパラドックスだ」とヴァスは言った。「ボールディングの宇宙船地球号は閉鎖系だ。資源は有限で一定。しかしヨナスの未来倫理では、技術と人口が増大する限り、責任は無限に増大する」
「当たり前です。だからこそ保全が必要なんでしょう?」
「だが問題は」とヴァスは続けた。「有限の『宇宙船』の中で、どうやって無限に増大する責任を果たすかだ」
彼はホログラフを操作し、計算結果を表示させた。
「数学的に証明できる。システム方程式は発散する」
「つまり?」
「つまり、どれだけ我々が節約しても、未来への責任を完全に果たすことは不可能だ」とヴァスは言った。「これは数学的必然。有限の空間で無限の責任は果たせない」
「だからといって放棄するわけにはいかない!」ジェンは声を上げた。「未来世代は私たちの決断に依存している」
ヴァスは静かに微笑んだ。「そこが盲点だ」と彼は言った。「なぜ我々は未来世代を『無力な受益者』と考えるのか?彼らは我々よりも進んだ技術を持つはずだ」
「それは楽観的すぎる」
「いや、論理的帰結だ」とヴァスは反論した。「技術発展が続く限り、未来世代はより強力な手段を持つ。ヨナスの責任倫理が想定する技術力の増大という前提そのものが、未来世代の問題解決能力も向上することを意味する」
ジェンは黙った。
「皮肉なことに」とヴァスは続けた。「ボールディングの宇宙船地球号モデルとヨナスの未来倫理を同時に信じるなら、我々は不可能な課題に直面している。片方が閉鎖系で有限、もう片方が無限の責任を要求する」
「では、どうすればいいんですか?」
「私の提案は」とヴァスは窓に映る自分の姿を見つめながら言った。「『責任の時間的減衰モデル』だ」
「それは?」
「未来への責任は、時間の経過とともに減衰する。我々は向こう100年に対しては最大の責任を持つが、1000年先には少ない責任しか持たない」
「それはヨナスの理論の放棄です」
「いや、発展だ」とヴァスは優しく言った。「ヨナスが想定しなかった要素がある。宇宙船地球号は確かに閉鎖系だが、太陽エネルギーという外部入力があり、人類の知識という資源は実質無限に拡張できる」
ヴァスは地球を指さした。
「あそこには110億の人々がいる。彼らは私たちの決断を待っている。でも本当は、未来は彼ら自身のものだ」
「そこにケネス・ボールディングなら何と言うでしょう?」とジェンは尋ねた。
「彼なら『宇宙船の船長は一人ではない』と言うだろう」とヴァスは微笑んだ。「代々の船長が、それぞれの時代に適した航路を選ぶのだ」
デッキの窓から、地球の夜明けが見え始めていた。新たな一日の始まり。
「未来を信じ、それでいて現在を生きる」とヴァスは言った。「それがボールディングとヨナス、両方の知恵を活かす道だ」
ジェンはしばらく考え込み、ついに決断したように顔を上げた。
「投票の勧告文を書きましょう」
彼女の携帯端末のスクリーンに、白紙のドキュメントが開かれた。
「宇宙船地球号の乗組員たちへ」とヴァスは口述し始めた。「我々は無限の責任を有限の資源で果たすことはできない。だが、各世代が最善を尽くせば、宇宙船は航海を続ける…」
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