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光合成する人間 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】

彼の名前はカイ・マツモト。過去に名を馳せた生物学者で、今では「植物人間の創造者」として知られている。五十六歳になるが、窓際に立つ姿は今も若々しく、黒に近い濃紺のラボコートを着た後ろ姿は、研究室で見つけた新しい希望と同じくらい鮮やかだった。

カイは、細いピペットを手に取りながら、壁一面のスクリーンに映し出された数値に目を通す。二十八年の研究を経て、遂に彼は人間に光合成能力を取り入れることに成功した。彼の指先は疲れで震えているが、目には情熱の光があった。

「これで世界が変わる」

彼は小さく呟いた。声はかすれていたが、確信に満ちていた。

カイは、人間が外部からのエネルギー供給を不要とし、太陽の光だけで生きられる未来を夢見ていた。化石燃料の消費も、炭素排出も、無意味になる。全人類が植物のように太陽の恵みを受けることで、地球のエコシステムを保護できる――そんなユートピアを彼は描いていた。

「無駄な食料を浪費する必要はない。僕たちは、この星の最も効率的な生命体になる」

そう語るとき、カイの目は遠くを見ているようだった。幼い頃、彼は日本の小さな漁村で生まれ育った。海岸沿いに広がる美しい村は、彼が十五歳の時、巨大な台風によって壊滅した。気候変動による自然災害と言われていた。その記憶が、彼の研究の原動力だった。

カイはガラスの中に一滴の液体を垂らす。その緑がかった液体は、彼が何年もかけて作り上げた「クロロフィル変換エンザイム」を基にしたもので、これを人間の体内に注入することで、彼らの細胞は太陽の光を吸収し、酸素と糖分を生成するようになる。試験管を通して見る世界は、ゆがんで見えた。ちょうど彼の理想と現実の間にあるギャップのように。

最初の実験体は、自ら進んで名乗り出た被験者たちだった。彼らは、政府の予算を取りまとめていた企業家のマイケル、環境活動家のサラ、そしてカイの弟子であり、彼を「師匠」と呼ぶ三十二歳のエリックだ。エリックは十年前からカイの下で働き、この実験の準備に心血を注いできた。彼は常に熱心で、時にカイよりも激しい情熱を持っていた。

処置から三日後、エリックは目を覚ました。病室の窓から差し込む朝日が彼の体を包み込む。エリックは手のひらが淡く光を放っているのを見て驚愕した。彼の肌は半透明になり、中を流れる緑色の液体が見えた。

「なんてこと…」

彼は自分の腕を上げ、光に透かして見た。血管のように細い緑の線が、肌の下を縦横に走っている。

カイはエリックのベッドの脇に静かに立ち、冷静に言った。

「君の体内には、今、植物のような生命のサイクルが流れている。太陽の光を吸収し、酸素を放出する。食事を取る必要はなくなる」

彼の声には、微かな誇りと不安が混じっていた。初めての人体実験。それは彼の人生をかけた賭けだった。

エリックは、しばらくその現実を受け入れられなかった。腹が鳴る感覚もなく、喉の渇きも感じない。彼は窓際に立ち、陽の光を浴びると、全身に力が湧いてくるのを感じた。それは飢えを満たす感覚とは違う、全く新しい充足感だった。

「すごい、これが進化の最前線か」

エリックは両手を広げ、光を浴びながら言った。彼の笑顔には、かつてない幸福感が満ちていた。カイも静かに微笑んだ。彼の夢が、ついに現実になりつつあった。

実験は着実に進んでいた。何日も食べ物を取らず、水だけを少量摂取するエリックは元気そのものだった。体内検査では、血液中に葉緑素に似た物質が増え、細胞がエネルギーを生産していることが確認された。マイケルとサラも同様の変化を見せていた。

「カイ、これは革命だ」マイケルは興奮気味に言った。「私の会社でこの技術を展開すれば…」

「まだ早い」カイは静かに制した。「長期的な影響を見極めるまでは、公表できない」

しかし、次第に異変が現れ始めた。四週間目、エリックの肌は明らかに緑がかり、目の色も濃い緑に変わっていた。彼は長時間じっと座り、窓の外を見つめることが多くなった。会話も減り、人間らしい感情や欲求が薄れたように見えた。

代わりに植物的な思考が優先されるようになった。彼は日当たりの良い場所を好み、暗い場所では不安を示した。時には何時間も同じ姿勢で座り、太陽の動きに合わせて顔を動かすこともあった。彼の体は完全に「植物人間」へと変わりつつあった。

六週間目、研究室のラウンジでカイはエリックに問いかけた。

「エリック、君はこれで幸せか?」

窓際に立つエリックの後ろ姿は、若葉のように輝いていた。彼はゆっくりと振り返り、無表情で答えた。

「幸せだ。これで食べ物に困ることはなくなったし、太陽があれば何も必要ない」

彼の声は、かつてのような情熱を失い、平坦になっていた。カイはソファに腰掛け、手元のデータタブレットを見つめた。数値は完璧だった。身体機能は正常、むしろ向上している。しかし、心理テストの結果は明らかに異常を示していた。

カイは冷たく笑った。皮肉と後悔が混じった笑いだった。

「でも君はもう、人間ではない。君の体はもう、自然界の一部になった。君の心も、植物のように根付いてしまった」

エリックは微動だにせず、窓からの光を浴びながら静かに言った。

「人間らしさを失って、何が問題だ?私たちは進化した。より効率的になった。これこそ、あなたが望んだことではないのか?」

カイはその言葉を聞いて、椅子から立ち上がった。恐ろしい現実に気づき始めていた。この実験が、ただの進化の一環ではないことを。彼が望んだのは「人類の未来」のはずだった。しかし、エリックをはじめ、すべての被験者が次第に植物的な存在へと変わり、人間性を失い始めていたのだ。彼らの脳波は、感情の起伏を示さなくなっていた。

「人間らしさ」の定義とは何なのか。カイは自問した。それは食べることなのか、感じることなのか、あるいは選択することなのか。

「私たちは人間だからこそ、地球を救おうとしたんだ」カイは小さく呟いた。「人間だからこそ、この星を愛せる」

その夜、カイは研究室に一人残り、窓からの月明かりに照らされながら自分の手首に注射を打った。最後の被験者として、自らの体で真実を確かめたかった。もしかしたら、他の被験者たちの変化は偶然かもしれない。あるいは、自分ならこの変化を人間のまま耐えられるかもしれない。

三日後、カイ自身にも変異が始まった。彼の手のひらも緑色に変わり、目が光を吸収するようになった。最初は軽い変化だったが、日に日に進行していく。彼は自分の意識が徐々に変わっていくのを感じた。食欲が消え、代わりに光への渇望が強まる。人々との会話が煩わしく感じられ、静かに光を浴びることが至福になっていく。

自己矛盾が彼を苦しめた。科学者としての冷静さと、変化していく自分の間で引き裂かれるような感覚。

十日目の朝、カイは鏡の前に立ち、自分の変わりゆく姿を見つめた。緑がかった肌、光を求める目。彼はもう人間ではなかった。

「こんなはずじゃなかった。僕が作ったのは、植物を模倣する人間じゃない!」とカイは叫んだ。叫び声は空虚に響いた。

「違う…これは進化ではない…これは取り替え…」

しかし、もう遅かった。彼の体は徐々に、太陽の光を必要とする植物のように、カーボンフリーな存在へと変わり始めていた。彼は自分の脳がどこか遠くへ行こうとしているのを感じた。人間としての思考が、植物のような単純で原始的な感覚に置き換わっていく。

カイはその日、研究室の記録を残し、すべての資料にアクセス制限をかけた。「人類の未来のために」というメモを残して、自ら研究施設の屋上に登った。

東の空から朝日が昇り始め、彼の体を温かく包み込んだ。カイは両手を広げ、光を全身で浴びながらつぶやいた。

「もしこれが未来なら、もう僕たちは人間ではなく、植物だ。それが、地球を救うということなのだろうか…」

彼の瞳には太陽が映り、その光が緑色に反射していた。彼の目は、もう人間のものではなかった。植物のように、空に向かって静かに光合成を始めた。

風が吹き、カイの髪が揺れる。彼の体からは、かすかに酸素が放出されていた。それは、地球に対する最後の贈り物のようだった。

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