物語が世界を変えた日 【ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集】
台風14号が足早に過ぎ去った2041年9月26日の午後、東京・青山の大学中央ホールに120名ほどの学生が集まっていた。環境政策学部の特別講義「環境革命史:2020-2040を振り返る」。スクリーン上に「グレタ・トゥーンベリによる『始まりの物語』を見たことはありますか?」の文字が浮かんだ。
田島教授は、いつものように学生の顔を見回してから質問した。
「小学校の授業で見ました。確か5年生の時です」
前列の真ん中に座った学生—名札を見ると「佐藤」と書いてある—が手を上げて答えた。隣に座った学生は少し困ったような顔をしながら肩をすくめる。
「でも...本物は見たことないかも。あれって確か、配信サービスが今と違いましたよね?」
「その通りです」田島教授はうなずいた。髪に白いものが混じるようになったが、声は相変わらず力強い。「Netflixというサービスでした。もう聞いたことがない人も多いかもしれませんね。2028年、当時25歳だったスウェーデンの活動家グレタ・トゥーンベリが監修・制作した8話のミニシリーズ。それが『始まりの物語:私たちの時間は今』です」
壁面のパネルがすっと開き、かつての配信プラットフォームのインターフェースが浮かび上がった。ロゴの下には小さく「2024-2031」の文字が見える。学生の何人かが「へぇ」と小さく声を漏らした。
「それまでにも彼女は『怒りのスピーチ』や映画『ひとりぼっちの挑戦』で知られていましたが...」教授は少し言葉を探した。「このドラマシリーズは、何と言いますか...少し空気を変えたようなところがありました」
スクリーンにはグラフが表示された。再生可能エネルギーへの投資額、18歳から29歳の政治参加率、気候対策への世論支持率。どのグラフも2028年から2030年にかけて急激に上昇している。
「ある種のきっかけだったのは間違いないでしょう。今では、これは"グレタ効果の第二波"と呼ばれることもあります」
中央の座席から手が上がった。
「第二波って?」
「2018年の学校ストライキが"第一波"とされるなら、このドラマは"第二波"と分析されることがあります。もっとも、そういう分類に意味があるかは別として」
教授は一呼吸置いてから続けた。「なぜそう言われるかというと、第一波は主に抗議活動でしたが、第二波は創造的な活動—アート、音楽、物語—を通じて人々の意識を変えたからです」
後方の座席から質問が飛んだ。
「環境問題を扱った作品って、他にもありましたよね。なんであれだけが特別だったんですか?」
田島教授は窓の外に目をやった。垂直農園の緑が見える。空中に浮かぶドローンは太陽光パネルを広げながらゆっくりと移動していた。
「たぶんですが...」教授は振り返った。「『警告』ではなかったからでしょうね。絶望的な未来を回避する話ではなくて、すでにどこかで始まっていた変化に光を当てた。そんな作りでした」
スクリーンが切り替わり、各国の若者たちがプロジェクトに取り組む姿が流れる。コスタリカの森林再生プロジェクト、バングラデシュの洪水対策、フィリピンの海洋保護活動...。どれも実在する人物たちの物語だった。
「覚えてる」誰かが小声でつぶやいた。
「この作品がユニークだったのは、実在する人物たちを取り上げたことです。俳優ではなく、本当にそこにいる人たち。だからこそ、"私たちの物語かもしれない"と感じられたのだと思います」
後方の席から少し戸惑ったような声がした。
「でも...所詮はドラマですよね」
田島教授は静かに笑った。
「ええ、確かに。でも、そのドラマを見たあとで実際に動いた人が、統計にはたくさん出てきます。単なるドラマにしては、随分と現実を動かしたようです」
教室に小さな笑いが起きた。まさに、統計学の田島教授がよく口にする皮肉めいた言い回しだった。
「ところで、皆さんは『共有地の悲劇』という理論をご存知ですね。共有資源は誰も守らないから壊れる、という考え方です。それに対して、グレタ・トゥーンベリは違う言い方をしていました。"共有地の希望"という言葉、聞いたことありますか?」
何人かが首をかしげた。後ろの列の学生の一人—マスクの下からのぞく目が真剣だった—が言った。
「どこかで読んだような気がします...インタビューだったかな」
教授はうなずいた。
「あくまで彼女独自の言葉であって、学術理論ではありません。ただ、印象的でした。誰かが守るから残るんじゃなくて、"守っているつもりが、いつの間にか誰かと一緒にいた"——そんな感じの表現でした」
映像が再び切り替わる。2035年の国連気候行動サミット、演壇に立つ32歳のグレタ・トゥーンベリ。以前のような激しい調子ではなく、むしろ静かな語りかけだった。
「その年、彼女はこう話しました。『私たちは科学を信じると言いながら、物語の力を信じていませんでした。でも実は、物語こそが人間の行動を変える最も強力な力かもしれません』...今思うと、少し感傷的な言葉だったかもしれませんね」
田島教授はスクリーンを閉じ、窓を開けた。遠くで小鳥の声が聞こえる。ドローンの羽音は相変わらずだが、昔に比べて随分と静かになった。
街の風景も2020年代とは変わっていた。建物の壁面を這う緑、歩道に設置された小さな風車、電気バスが静かに通り過ぎる。
「今、彼女はグレタ・トゥーンベリ財団を通じて北極圏再生プロジェクトに携わっています。2019年に設立した財団は今や世界最大級の環境支援組織の一つになりました。毎週金曜日に怒ったりはしていません。ただ、今でも語ってはいます。問題ではなく、解決策について」
窓の外を一羽のカラスが横切った。その後をドローンが追うように飛んでいく。
佐藤が手を上げた。
「教授、一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「僕たち、グレタさんが怒ってた理由って、本当に分かってるんでしょうか。あの時代の大人が何をしてたのか、統計では分かりますけど...」
田島教授は少し考えた。
「いい質問ですね。2025年のイプソス調査では、日本人の気候変動への意識は32か国中最下位でした。特に18歳から29歳の層は、環境問題への関心が最も低かった。つまり、皆さんの親世代です」
教室がざわめいた。
「でも同時に、2024年の旭硝子財団の調査では、気候変動を最も危機的と考える問題に挙げる人が45.5%で5年連続1位でした。矛盾しているようですが、関心はあっても行動には結びつかない、という状況だったのです」
後方の学生が言った。
「それって、今の僕たちと似てませんか?」
教授は振り返った。
「どう思いますか?」
「だって、僕たちも環境問題は大切だと分かってるけど、実際に何かしてるかって言うと...」その学生は言葉を濁した。
「そうですね。でも一つ違うのは、皆さんには既に多くの選択肢があることです。2020年代の人たちは、制度も技術も今ほど整っていませんでした」
田島教授は電子黒板に向かい、小さく「2041.9.26」と書いた。
「最後に、皆さんに問いかけます」教授は振り返った。「あなたが今いる物語の一場面は、将来どんな風に語られるべきでしょう?そして、どんな未来を次の場面につなげますか?」
しばらく誰も答えなかった。
佐藤が小さく手を上げた。
「僕は...ちゃんと分からないことの方が多いです。でも、グレタさんが15歳の時に座り込みを始めたように、何か一つでもやってみたいと思います」
「具体的には?」
「食べ物を残さないことから...かな。小さすぎますけど」
田島教授は微笑んだ。
「それで十分だと思います。彼女も最初は一人でしたから」
別の学生が言った。
「でも、今の時代に座り込みをしても、あんまり意味がないような気がします」
「そうかもしれませんね。でも、形は変わっても、"一人から始める"ということの意味は変わらないでしょう」
教授は窓辺に戻った。
「グレタ・トゥーンベリが特別だったのは、彼女が特別な人だったからではありません。普通の少女が、当たり前のことを当たり前に言い続けたからです。そして、それを聞いた人たちが、それぞれの方法で応答した」
風が教室に入ってきて、何枚かのプリントをひらひらと舞い上げた。
「皆さんも、誰かの物語の登場人物です。そして同時に、自分の物語の主人公でもあります」
チャイムが鳴った。
学生たちが荷物をまとめ始める中、佐藤がもう一度手を上げた。
「教授、グレタさんは今、幸せだと思いますか?」
田島教授は少し考えてから答えた。
「分かりません。でも、彼女がインタビューで言っていたことを覚えています。『幸せかどうかより、意味があるかどうかの方が大切だ』と」
「意味、ですか」
「はい。そして皆さんには、意味を作る力がある。それが今日の講義で一番伝えたかったことです」
学生たちが教室を出ていく。
最後に出ていく佐藤が振り返って言った。
「教授、来週はどんな話ですか?」
「来週は休講です。代わりに、皆さんには課題を出します」
「課題?」
「"あなたにとっての金曜日"について、400字以内で書いてきてください」
佐藤は首をかしげた。
「金曜日?」
「グレタさんは金曜日に座り込みをしました。皆さんにとって、何かを始める"金曜日"は何でしょうか?曜日である必要はありません」
佐藤はうなずいて出ていった。
田島教授は一人になった教室で、まだ開いている窓を見つめていた。
空の向こうで、小さな虹がかかっていた。台風の後にはよくあることだが、今日は少し特別に見えた。
教授は呟いた。
「始まりは、いつだって小さなものだ」
そして静かに窓を閉めた。
#創作大賞2025 #カーボンダイエット #ヴィーガンになる前に読む最後の肉食短編集 #お仕事小説部門
いいなと思ったら応援しよう!
あなたのチップが、観測を続けさせてくれます。SNE理論・GX実践の書籍化と、毎日更新の継続に使わせていただきます。応援、ありがとうございます。
