透明な香水
透明な手紙の香り。明日にせまる娘の結婚式が憂鬱で、気晴らしに夜の散歩へと繰り出した彼はどこか懐かしい匂いに誘われて、高架下の薄暗い店へ足を踏み入れます。壁の三面を覆う棚には、香水が並べられていました。店主は郵便の配達員を思わせる制服を着ていました。香水など興味もないのに彼は明日から逃れるように店内を歩きます。これは? 彼は香水の瓶のなかに浮かぶ紙切れを指さしました。
店主は答えます。手紙ですよ。彼は店主の顔を見ます。気にせず店主は話を続けました。宛名の不備があった手紙はどうなるかご存知ですか? 送り主の住所にも不備があった場合は? 三か月ほど郵便局が保管したのちに捨てられるのですよ。しかしながら、それでは手紙が報われない。こちらはまだ溶けかけですけれども。十数年も液に浸けておけば、やがて紙はすべて溶けて香水になるというわけです。
家に帰ると眠る妻を起こさないよう彼は書斎へ入ります。机の明かりを灯して、香水を置きました。鼻を近づけると、スズランの香り。彼は思い出します。何年もまえに海外へ一年ほど単身赴任したとき。まだ幼かった娘が何を勘違いしたのか、父親が天国へ行ったように思い込んでいると彼は妻から聞きました。ひらがなさえ書けなかった娘は自分で字を学び、もう会えない父親に手紙を書いたといいます。
背伸びをして娘がポストに投函した手紙には、宛名も送り主の住所も書かれてはおらず、彼のもとへ届くことはありませんでした。香り付きのペンで書かれた文がどのようなものだったか彼には分かりません。でも海外へ赴くまえに彼が誕生日に買ってあげたペンのなかで、どの香りを娘が気に入っていたかは、知っています。彼は明日着るタキシードに香水をつけ、電灯を消します。透明なスズランの香り。
ショートショート No.397

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