女神憑き: 04話 屋上の猫ちゃん
香織は死んで性格が変わった、と亜美は思う。
より朗らかに、より愛情深く、より享楽的になった。
ただ、オバケになると性格は変わるのかもしれない。
再会してしばらくはふたりきりで、のんびり過ごした。お泊まり会が延々と続くようなものだ。
大人と言われる年齢になって数年、ともだちと、だらだら過ごせる日々なんて中々ない。尽きかけた亜美の生活資金に、香織のヘソクリも足すと、それなりの日数を確保できた。
悪友、親友同士でかつてないほどいろいろなことを話した。高校で同級生だった時のくだらない失敗、お互いの性遍歴であったり、自分の前やら後やらの性感帯の開発を披露したり、オバケの能力を自慢気に語られ話半分に聞いたりもした。
幽霊である香織だが、買い物など外出も、傍にふよふよと浮かんだり、歩くなどして共に行動した。何でも亜美のように縁が深くないとなかなか姿も見えないらしい。
そうしているうちに、与太話以外にも聞かねばならないことが出てくる。何しろ幽霊の友人と同居するのは初めてだ。
大きな懸念がふたつあった。
香織は亜美のことを好きと言う。それはいい。事実だろう。
亜美は異性愛者だと自認していた(生前の香織との一回はグレーカウントとした)が、今の香織と過ごしている自分を鑑みると、よくわからなくなる。
亜美としても香織のことは好きだ。それは当たり前。
愛しても、いる。そうに違いない。
彼女の姿態を見たり触れたりするときに、どうしようもない切なさが湧きあがることがある。初恋のもどかしさに近いような。
切なかろうがときめこうが、制約もなく、すぐ近くに居る可愛い存在。
しかし生者と死者だ。どういった想いとしたものかわからない。
――わたしだって、覚悟を決めたい。
ズルい考えだけど、躊躇無く愛してもいいものか、わからない。
バイトやバンドに復帰の連絡をした夜に、思い立って布団の中で尋ねた。
「……香織、聞きたいけど聞きにくいことがあるの。うまく言葉にできないから、こころを読んで欲しいの。できるでしょ」
「ん? いいよ」
香織はこつっと額同士をあてた。
思考を勝手に覗かない約束なので、わかりやすいジェスチャーのつもりらしい。
――いつまで、そばに居てくれるの? 居なくなったりしない?
とにかく一緒に居たいんだよ、ねえ香織。
時間制限とか、挨拶だけして、心だけ奪って消えていかれるのは怖い。それはもう、死にたくなるほど怖い。
今まさに知られているけど、こんな想いを口に出すのは恥ずかしい。
相手が死んでから、本気で好きになるなんて滑稽だ。
生身状態の香織は額をつけたまま、亜美の背中に腕を回し強めにハグした。
「……ずっといるよ。亜美があたしを覚えてる限りいつまでも居るよ。忘れても居る。信じられる限りどこまでも信じて大丈夫だよ」
もう声を出せる。
「ホントだね、信じるから」
亜美も抱き返しながら、もうひとつ聞くことにした。
これも深刻だが、居なくなるとはまた別の話だ。
「――あとさ、旦那はいいの? ペアでオバケになったんでしょ? その……一緒に死ぬ程好きなのに、浮気じゃないの」
これも聞きにくかったことだ。亜美との再会前にハネムーンだといって太陽系旅行をした自慢話は聞いていたが。
「譲さん? うん、いいんだよ? そこらにいて亜美とのことも知ってるし、呼んだらすぐ来てくれるよ。あたし達ってそういうものだから。あ、えっち覗いたりはしないよ。だけど公認だよー」と、ごく当たり前という調子で香織は答えた。
「オバケになると皆そんなおおらかになるの?」
「どうだろうね? あたしら夫婦の価値観かも。よくお話で聞くオバケって嫉妬深いでしょ。でもあたし達は嫉妬ってないかな。リソース無限だし。お互い大切に思ってることで保ってるからね。相手の大切なものは尊重。亜美は比べようもなく大切だからね。あ、亜美が男の子とか、生きてる人と懇ろになっても、もちろん構わないよ。でもあたしも離れないから。えへへー」
すらすらと語る香織の言葉を、理解して飲み込むのに時間がかかった。
「わたしのこと、大切なの?」確認したくて聞いてしまう。
不安な生者としては何かとの比較まで聞きたくなる。
香織は亜美の額に唇を押し当てた。
「うん、この世の何よりも、あたし自身よりも大切だよ。結婚しよ、亜美」
――香織は死んで怖いものは無くなったんだろう。こんなにも真っ直ぐいえるんだね。
「どうやってするのさ……」
唐突にプロポーズまでされたが、亜美は混ぜ返すような返事しか出来ない。
必要なのは、覚悟だろうか。選択だろうか。何を選べる?
「まだまだまだ、愛を育てる時間はあるよ! キスしてあげるから、今日は寝なさいな、明日からバイト再開でしょ」
散々キスしたくせに、勿体ぶって香織は言う。
「わかった風に言うよね、悔しい」
亜美は自分から先に、香織の頬と唇にキスをして、くすくす笑う彼女に、おやすみと言い眠りについた。
翌日の昼下がり、スタジオスタッフのバイトまで一時間半。
O市駅前の広場は、待ち合わせの人間と、所在なく時間を潰す人間でそれなりに賑わっていた。
結構な間が開いたので、早めに出たのだ。
親友が亡くなってその部屋を……などと事情を聞けば皆同情してくれたので、復帰にあたり気まずさは無い。
もっとも、部屋はそのままで、故人は横で鼻歌を歌っているわけだが。
駅前も久しぶりなので、亜美は周囲を見回した。お店とかちょっと入れ替わってる?
――と、悲しげな光景が目に入った。
広場のベンチで、少女が俯いている。
ペット用と思われるバスケットを抱きしめていた。
バスケットの蓋は開いている。
中学生くらいで、肩は小刻みに震えていた。
亜美は、お節介だと自嘲しながらも、側に歩み寄り声をかけた。
「――どうしたの?」
少女はビクリと顔を上げた。泣き腫らした目だ。
「あっ、その……猫が」
彼女はバスケットに目を落として言った。
「うちの猫、サヨリが、逃げちゃって……」
病院の帰りに、キャリーバッグの留め具が甘かったのか、何かの音に驚いたのか、猫が飛び出して逃げてしまった。
「やっぱり病院はキライで、注射もカラーもしたから怒っちゃって……」
『かわいそう』
亜美の肩ごしに顔を出した香織が呟いた。亜美の頭にしか聞こえない声だ。
「どんな猫?」
「茶トラで、ケガしてて、エリザベスカラーを付けてます」
カラーを付けて出歩く猫は目立つ。遠目でもわかるだろう。
既に事情を聞いたらしい数人が植え込みや車の底を覗き込み探していた。
――皆優しいな、猫ちゃんだしな。
亜美は見回して、ビル群を見た。少し遠目、人目のないところまで迷い込んだかも知れない。
「わたし、向こうの路地裏とか見てみるよ。あなたはここに居て。戻ってくるかも知れないから」
「え、でも」
「いいから。ああ、これひとつ貸して」
彼女が持っていた猫オヤツをもらった。
『亜美、優しいね』
「あたりまえでしょ、なにしろ猫ちゃんだからね。香織も探してよ」
躊躇する理由は何も無い。あの娘はサヨリが見つかるまで動けない。
『うん、猫ちゃんだもんね! よーし、手伝うよ。ちょっと待ってて』
人差し指を立ててポーズ(必要ない)を取り、香織の体がフッと消えた。
亜美はオヤツを頭上に掲げ振りながら、
「ニャー、ニャー?」と猫語で呼びかけながら雑居ビルの並ぶブロックへ向かい、辻々の路地裏を覗いていく。
何箇所か見回るうちに、香織の声が伝わってきた。
『亜美、いたよ! いや、いたっていうか、痕跡! そっちからひとつ先の細いとこ入って』
言われるまま移動すると、どん詰まりの路地裏、雑居ビルの境の空間に着いた。
飲食店のエアコン室外機や配管が乱雑に配置され、隅にゴミ箱やポリ袋がまとまっている。
香織の言う通り「痕跡」のブツが落ちていた。
半透明のプラスチックでできた、ラッパ状のペット保護器具、エリザベスカラーだ。
「カラーだけか……」
『うん、外れちゃったみたい。で、サヨリちゃんは――上!』
香織の指す真上を見上げる。
ビルの壁際、五階くらいの高さ、露出した配管の上に小さな茶色い塊がうずくまっていた。しっぽが揺れている。目を凝らすと包帯も見えるようだ。
「……マジか」
あんなとこまで登って。
――どうやって助ける?
亜美と同じブロックを探していた幾人かが「あそこだ!」「どうするんだ?」と騒ぎ始めていた。
善意のひとたちだが、困ったことがある。
香織に――ふわっと抱いてきてもらうセンは消えた。
『亜美、屋上行こ! 鍵、開いてる』
香織は常識的ルートを見つけてくれていた。
「ちょっと管理人に上行けるよう、話してきます!」
亜美は皆に伝え、ビルの正面入口に周り、そのまま階段を駆け上った。
息が切れる。タバコやめてよかった。
最上階へ達し、錆びた扉を押し開けると、がらんとした屋上に出た。
防護柵もない、縁が少し盛り上がっただけの屋上。
猫が居るであろう側の外縁に近づき――顔を出してみた。
さすがに高い。地面を見るとクラッとする。落ちれば痛いじゃ済まない。
先程のまま猫はいる。目が合った。
屋上から数十センチ、猫ジャンプで上がってくれるか、配管までわたしの手足が届けば何とかなるかも。
「サヨリちゃーん、おいで」
優しく声をかけ、オヤツを示してゆっくり近づく。
猫は首を上げ、ニャンだという態度だ。
「ニャオン? チチチ」猫語でも話しかけてみた。
猫に亜美の優しさは届かなかったようで、猫語も通じなかった。
警戒されてしまったようだ。
シャー、と牙を剥き、じりじりと後ずさる。その先は空中だ。
「あ、バカ!」
――まずい、落ちる。
『亜美、飛んで! 大丈夫だから!』
香織の真剣な声。
「わかってる!」
猫の方向に向かって駆け出した。
唐突に、コンクリートを蹴る感触が失われた。
亜美が踏み切ったわけではない。
視点の連続が失われる。浮遊感。亜美の中のカメラが切り替わり、自分の位置の設定がズレたような。すぐ近くに転移したのだ。
香織にそういった能力があるのは聞いていた。アテにしたわけではない。香織が大丈夫というから大丈夫なのだ。
中空にいる! 目前に同じく宙に居る猫。
――落ちてやんの! 猫め。わたしはお前を助けるために落ちてるんだぞ!
亜美か猫か、どちらかの身体に勢いがついており、胸元にフカッと柔らかな猫ボディが接触し、とっさに抱きすくめた。
『左でつかまって!』香織の声。
何も見ず左腕を伸ばす。モノが触れたので掴む。
張り出した配管にぶら下がる格好になった。
右腕に抱いたサヨリの鋭い爪がライダージャケットを引っ掻く。
ちょっと落ち着こうか。
下から協力者たちの、うおう、ああ、という声がした。
「……片手じゃ登れない」
――わたしは普通の娘っ子だからな。
右手は猫で塞がり、足がかりも届くところに無さそうだった。
ぶら下がる左手が滑らないようにだけ気を使う。
『亜美、昔やったイタズラ式で降りようか』
傍らに浮かぶ霊体の香織が、真面目ながらも口の端で少し笑いながら言った。
「なんだっけそれ?」
聞きながら、思い出した。
昔、地元の高校で、香織とフザけて悪さしたことがあった。
柵のついた窓から身を外へ出す。片手で柵にぶら下がる。降りたい。足がかりは遠い。細かいことは面倒な、無鉄砲な高校生はどうしたか。
手を離す、掴む。手を離す。掴む。
横になった鉄棒の柵をパッとはなし、十数センチ下方の次の横棒を、片手でまた掴んで徐々に身体を下降させる方法だ。そうやって安定した足場まで降りたのだ。片手だったのは、確か本か何かつまらない軽い荷物を持っていたから。
バカ女二人は変わらないわけか。亜美は苦笑した。
でもあの時は二階だった。今は四、五階くらい。
足下の配管や室外機のまばらな群れを見る。
落ちて死んだら香織とオバケ仲間かな? まあ、いいけど。
掴み直す予定の管は結構下だ。
『ふむ、ふーむ、ふむふむ』
白ワンピースの霊体姿で横に浮かぶ香織は、指をぴこぴこと上下に振り、配管を指して目測しているようだ。
――おい、自称女神様よ、そんなテキトーな感じでいいのか?
口には出さないが、実に気楽な態度の香織に、心で悪態をついた。
『そうだねえ、二回、片手で降りて。そうしたら壁を蹴ってそのまま落ちれば平気』
「わかった」
怖いが、不安はない。香織がいるから。文句はあるぞ。
猫はバリバリと革ジャケットに傷を刻み続けた。
「上着がオシャカになる前に――」
左手を開く。さっきの恐らく香織が施したテレポートと違い、馴染み深い自由落下。
接触、全力で掴む。ぶら下がる。
あちこち擦ったりしたが、猫サヨリは無事。
繰り返したくはないが、コツはわかった。
摩擦の味を残すように、撫で離すイメージで手を開く。指先で壁との距離を感じ取りながら落下。接触。掴む。
「ふー」
『うまい、補助してないよ』
「それはサンキュ、下は?」
『見て、偶然にゴミ袋の山』
「オッケイ」
ツッコミは後でいい。人も見てるので素早く、なるべく自然に。
モノに当たらないように、両足で壁を蹴り、支えていた左手を離した。
立ち姿勢で、ポリ袋群めがけ、武術の心得はないが、尻腰から身体の左側面で斜めに接地した方がいいだろう。右に抱えた猫ちゃんはつぶれない。
――グッシャ。
地面に、うまくポリ袋に落ちることができた。
接地の瞬間に、スンッという香織の息遣いを間近に感じた。
衝撃を緩和してくれたのだろう。
不謹慎にも、夜の営みでの香織の吐息を連想してしまった。
手を、足を震わせた感じ、亜美自身に大きな怪我はないようだった。ジャケットは要修繕だ。
「……おー、わたしは、生きてるなア――ありがと、香織」
とんだアクションシーンだ。香織が居てくれたから良かったけど。
『どういたしまして、大丈夫だったでしょ?』
腕の中では、まだサヨリが暴れている。
『猫ちゃんも、大丈夫、大丈夫よー、えへへ』
香織は猫の頭を優しく撫でた。
サヨリはゴロゴロと喉を鳴らして大人しくなった。
猫にオバケは見えるのだろうか?
協力者たちが駆け寄ってくる。
「お姉さん! 大丈夫ですか?」
「怪我は」「ボロボロじゃないですか」
亜美は自分の無事を示すように、猫を抱いたまま立ち上がり、膝を屈伸させる。
「あー、上着以外、平気です。ちょっとね、最初勢いで滑っちゃって」
歩けますか、とかすげー、と声をかけられ、小さく拍手をする人もいた。
「わたしはホント、平気です。飼い主さんが心配して待ってる、戻りましょう」
何か聞かれる前に小走りで駅前に戻る。
途中、サヨリは亜美の腕の中でニャアニャニャニャアと盛んに鳴いた。
香織の方を向き鳴いてるようだ。やはり見えるのかもしれない。
『さすがに猫語はわからないなー、でも感謝してるんだろうネ。カワイイ』
「サヨリー! ごめんねごめんね!」
飼い主の少女にサヨリを届けると、わんわん泣いて感謝された。
「わたしがうっかり蓋を。わたしが悪かったんです! ありがとうございます、うぅ」
どうしようもない別れにならなくて良かった。理不尽な離別は猫も人もたまらない。避けられるならそうしたい。
「たまたまだよ、皆探してくれたし」
あげ損ねた猫オヤツを飼い主に返しながら、亜美は不意に居心地の悪さを感じてすぐに立ち去りたくなった。
先程の協力者達も集まり亜美に話しかけようとしている。浮いてた、落ちてた、などという声も聞こえた。
――本当にたまたまだ。香織が助けてくれたわけだし。
「あの、お名前は」と聞かれたが、バイトの時間だから急ぐので、と辞退した。
バスケットに入っても、ニャアー、ニャニャニャア! と何度か同じフレーズで猫は鳴いていた。
「じゃあね、猫ちゃん」
『じゃあねー』
――ニャアー、ニャニャニャア!
猫も亜美も無事だった。それでいいのだ。
「はー、疲れた。派手なことさせて」
一息つきながら、香織に文句を言ってみた。
『えー、良かったじゃん、猫ちゃん無事で』
「そうだね、香織、ありがとね」
ふたりは上機嫌でバイト先に向かった。
青年風、チノパンにフォーマルなアウターの出立ちの霊体が、亜美と香織を見送っていた。
猫の飼い主の横に立って、猫の声を聞いていたのだ。
香織の夫である幽霊、譲である。
彼女らに気取られず見守っていたわけだが、ところで譲には猫語がわかる。
幽霊となった後、個人的な興味で能力を活用し研究したのだ。
猫サヨリは、香織に繰り返し伝えていた。
『オーイ、透け人間、パンツ見えてる! 恥ずかしいニャ!』
亜美と談笑しながら、霊体で浮かぶ香織のワンピースの裾はめくれ、下着に食い込んでいた。パンツ丸見えという後ろ姿だ。
譲は、妻に指摘しようか迷った。
