無題九玄──アセミック一文字詩
無題XLVI〜LIVまでの九作をまとめました。



アセミック一文字詩──益子文字も、五十四文字まで来ました。
ちょうど百八文字の折り返しです。
以前にも書いたことですが、
あらためて思うのは、墨で引く線は装飾が少なく、思った以上に正直だということです。
アセミック一文字詩では、作為や意味をできるだけ削いで書いているのですが、筆を入れた瞬間の呼吸や力み、身体の癖のようなものは、そのまま線に出てしまいます。
迷った跡も、ためらった跡も、隠しきれずに残ってしまう。
そして、それは作品の外側にある失敗ではなく、ときにそのまま、その一枚かぎりの詩の一部として晒されてしまいます。
そこには、もしかしたら、僕自身の奥にひそんでいる祈りや、信じる心や、ことのねのようなものまで、滲んでいるのかもしれません。
そして、その線を見た人の中で、何かが立ち上がることがある。
読めないはずなのに、読もうとしてしまう。
意味はないはずなのに、気配を感じてしまう。
それは、子どもが木の枝を剣にしたり、石ころを宝物にしたり、何もない場所に国をつくったりするような、見立ての作用。
あるいは、人が古くから、雲に獣を見たり、岩や木に神の気配を見たり、星を結んで物語にしてきたような、根源的な遊び。
そうして、一見すると空っぽに見える文字のようなしるしにも、意味のようなものが生まれる。
空っぽに見えるからこそ、そこには何かが入り込む余地があるのかもしれません。
もしかすると、飾りのないものほど、かえって人はそこに何かを見てしまうのかもしれません。
意図が隠れているのではないか。
これは何かを示しているのではないか。
そうして、素直にあらわれた線の上に、見る人の問いや祈りや物語が重なっていく。
それを仮に、「嘘」や「虚構」と名づけることもできるのかもしれません。
正直な線に「嘘」を視る。
その矛盾のようなものも、アセミック一文字詩のおもしろさなのだと思います。
そのことについては、以前「アセミック一文字詩と呪」の記事でも少し書きました。
アセミック一文字詩は、僕にとって、虚空から取り出した線と、それを見た人とのあいだに立ち上がる何かです。
書であって、書に属しきらず。
文字であって、文字に固定されず。
詩であって、言の葉に閉じず。
そんな曖昧なもの。
だからこそ、観てくださる皆様のまなざしに、いつも支えられています。
今後もどうか気ままにお付き合いいただければ幸いです。
こちらの記事で、『無題九玄』とアセミック一文字詩を取り上げていただきました⬇️
