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最大級の祈り

たこやき まゆこ (竹迫 麻裕子)さんのエッセイ「めぐみ、絶対連絡してきちゃダメだよ。」の感想を書いていく。

(まだお読みになっていない方はこちらから。)


いつの間にか読み終えていた。

いい文章にはいくつかの要素があると思っている。そのうちの一つは「いつの間にか読み終えている」。知らないうちに引き込まれていて、戻れないでいると(その実戻ろうともしていないのだが)プツッと強制的に終わりを差し出される。呆気に取られた感覚に陥り、ため息が漏れる。
そして思うのだ。「ものすごかった」。

本エッセイについても、いつの間にか読み終わり「ものすごかった」と舌を巻いてしまった。何だか脳が疲れているのが分かる。それは読むのに労力を要するものだった(難解だとか下手だとか)からじゃなく、文章が持つエネルギーのようなものにただただ圧倒されたからだ。

何度か読み直し、その度に同じように圧倒された。こんなのを書ける人がいるから、読むのも、自分が書くのも到底やめられない。いい文章というのはそれだけで希望なのだ。あらためてそう思う。


食事をしている夫さんに対し、著者が "めぐみ" のことをエッセイに書こうと思っている旨を伝えるシーン。話はそこから始まる。夫さんはそれに「やめておいたほうがいいんじゃない」と返す。

このエッセイの中では、"めぐみ" と "夫" の繋がりについては書かれていない。が、夫さんのこの一言により、彼がめぐみのことを認識しているのが読み取れる。

著者と夫さんが一緒に生活を始めたのは、著者とめぐみが最後に会ったあの日以降のはずであるから、直接的な関わりはないはずだ。夫さんがめぐみのことを認識しているということはつまり、これまでも著者と夫さんの間で "めぐみ" に関する話が為されてきたことを暗示している。

僕はこの最初のシーンから、著者はめぐみのことを度々気にかけていたのだろうということを推し量った。一緒にいた時間の長さや関係性の深さに関わらず、ふと思い出したり何故か気にかかったりする人間というのはいるものだ。著者にとっての "めぐみ" はそういった存在だったのかもしれないと思った。

読み出しの時点で、「はっきりとは見えないが確かにある」のような心情の書き方が巧すぎると感じた。著者が憎たらしいまである。悔しいが、いま僕ができる限りの賛辞だ。



めぐみの願いに反して、私の交信はダメンズチャンネルに繋がりっぱなしだった。

でもめぐみだけが、私が泣き付こうとも「別れや」とも「わかるで」とも言わず、ただ頭をなでながら「ほんとうに馬鹿やなあ」と大きく笑うだけ。その「馬鹿やなあ」が妙に温かくて、その言葉を聞きたくてめぐみに泣きついていたのだと思う。

ダメンズチャンネルに繋がりっぱなしの著者に対し「ほんとうに馬鹿やなあ」と笑うめぐみ。この時点では、その言葉がただただ著者一人を抱擁するためにかけたものであると思われた。

だが後の描写で、めぐみが当時の彼氏から暴力を受けていたということが分かり、読者はハッとすることになる。めぐみはあの言葉を著者に向けてだけではなく、自分自身にも向けて放っていたのではないかと思えるからだ。

誰もが癒したい傷を持っている。自分で直接治癒できればいいが、自愛がままならない人間も少なくないだろう。そんな不器用な人間は、自分と似た傷を抱える人間を愛することで、間接的に自分を治癒しているのかもしれない。

そうであれば、著者の頭を撫でていたその刹那、めぐみはきっと自分のことも抱擁していたはずだ。そんなことを考えた。


内容からはすこし離れるが、もう一つ触れておきたい点がある。それは、時間軸の移動(現在→過去→現在)が終始ものすごくスムーズだということ。冒頭に書いた「いつの間にか読み終えていた。」に近いものがあるが、いい文章はいつの間にか時間が移っているものだ。

自分が上手くできないからというのもありついつい才を感じてしまうのは、「二段以上の改行をせずに時間軸を変えられる」だ。

僕はよく、以下のような方法で時間軸の移動を示してしまう。

しあわせだなぁ。

子の笑いを眺め、じんわりと胸が温まっていくのを感じる。ふと僕は、まだ僕自身が子供だった頃の母との記憶を思い出していた。



4歳くらいの頃の話だ。

繰り返しの笑い / こうめい

この「思い出していた。」から「4歳くらいの頃の話だ。」までに二段分の改行をし、視覚的な空白を作ることで前段からの時間の経過を表現するわけだ。シンプルでやりやすいため、ついつい多用してしまう。

もちろん一つの表現方法だからそれはそれでいいんだろう。けれど、当エッセイ「めぐみ、絶対連絡してきちゃダメだよ。」のように終始一段分の改行に留められながらもするりするりと話が展開されていく文章を読むにつけ、「どうすればそんなに自然に…?!」と感嘆せずにはいられなくなるのである。

スムーズに時間軸を移行させることができる。それは書き手としての一つの技量だと僕は確信していて、このエッセイからはそのレベルの高さがはっきりと伺える。


めぐみ、絶対私に連絡をしてきちゃだめだよ。

そして、終わりにかけての文章の組み方が緻密で秀逸だ。

タイトルの言葉で締める(※当エッセイは "完全一致" ではないが)文章というのは、その締め方の強度のようなものが肝になってくると思う。このエッセイの締めの強度が十分すぎるほど高いことは誰もが納得するところだろうが、その強度を確かなものにするための仕掛けが至る所に散りばめられているのがいい。それはホッケの骨一本さえ残さない夫がいま自分のそばにいるという描写や、カルーアミルクと自身の世界とのコントラストなどが挙げられる。加えて分かりやすく強いフックはこの部分だ。

「便りの無いのは良い便りっていいますよね」といいながら、あの頃の沼の中の2人を妙に寂しく感じた。

便りが無いのが良い便り。つまり、最後の一文「めぐみ、絶対私に連絡をしてきちゃだめだよ。」はここに掛かってくる。

便りが無いままでいてね(しあわせでいてね)、という最大級の祈り。著者からめぐみへの、あの頃から変わらない眼差し。そしてそれこそが、このエッセイの持つ圧倒的エネルギーなのだと強く思う。ここまで出力の高い書き物を読んだのは久しぶりでとても嬉しかった。書き上げてくれてありがとうございます、と腹の底から伝えたい。



めぐみは夜を抜けただろうか。いち読者でしかない自分ですら、姿も知らぬ彼女に思いを馳せてみたりする。

このエッセイがめぐみに届けばいいなと思う。めぐみの今の世界が甘かろうが苦かろうが、この文章はきっとめぐみにとっての希望になる。あの日の自分が頭を撫でた「似た傷を抱えていた者」は今この世界で健康に生きている。その事実は、自分の今とこれからを映す鏡になり得るのだから。


以上!




▼この感想文を書いた人の創作大賞2026応募作品▼


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