【小説】透明度の高い春 #1
あらすじ
夏の駅のホーム。
幽霊なんて信じない高校生・八神千隼の前に現れたのは、「自分は死んだ」と笑う謎の女・紺だった。
彼女の願いはひとつ。
生前の記憶を手繰る手がかり――ホスト「ハル」を探してほしいというもの。
しぶしぶ調査を始めた千隼だが、たどり着いた繁華街で出会うのは、ホストに執着する生き霊、噂に殺された男子生徒の幽霊――どこか現実と地続きの、歪んだ「感情」ばかりだった。
科学で説明できるはずの世界が、少しずつ揺らいでいく。
それでも千隼は、考えることをやめない。
幽霊とはなにか。人の想いは、どこへ行くのか。
これは、目に見えない“何か”を、論理で解き明かそうとする少年と、記憶を失った幽霊の、ひと夏の物語。
#1
熱いアスファルトに後頭部を打ちつけた。彼を轢いた車は、止まることなく彼方に去っていった。今彼の目の前に広がる夏空は、あまりにも青々としていた。薄れていく意識の中で、彼は自分の人生を呪った。大切にすべき人を大切にできなかった。自分の気持ちを口にしたことは、ついぞなかった。
目の前が赤黒く染まっていく。夏が、彼の人生が、終わろうとしていた。
物が勝手に動くのは、車の走行や電気モーターによる常時微動によるものだし、心霊写真や壁に見える人の顔はシミュラクラ現象であると言われている。すべての心霊現象と呼ばれるものには本質があり、それを解明すれば、夜中に一人でトイレに行くことだって屁の河童なのである。
だから、そこの電信柱の陰でじっとこちらを見つめている髪の長い裸足のお姉さんも、きっと物理学的に解明できるなにかなのだろう。いや、そもそもただの酔っ払いかもしれない。図書館で借りた粒子物理学の本を片手に、八神千隼は俯きながら足早にその女性の横を通り過ぎて帰路を急いだ。すれ違うときに耳元でなにかを言われた気がしたが、気にせず進んだ。
駅に着くと人の多さにほっと胸を撫でおろした。これだけ人がいたら、いくらこの中に幽霊がいようと気にならない。電車の時間まではまだ少し時間がある。千隼はホームのベンチに腰を下ろした。
「あの、その本、なんですか?」
持っていた本を開いた途端、すでにベンチに座っていた女が覗き込んできた。
「え、あ、物理粒子学の本、ですけど」
千隼が訝しげに答えると、女は目を丸くして千隼を見つめてきた。「わたしのことが見えるの?」
しまった。この人は関わってはいけない種類の人間かもしれない。今から無視をして間に合うだろうか。千隼は本の内容に集中しようと、思い切り息を吐き出した。
「わたしの声が聞こえる人に初めて出会えたよ」
千隼の心情などお構いなしに、女は話し続けた。「霊感あるんだね」
「霊感なんてないです」無視しようと思っていたのに、思わず答えてしまった。千隼は本のページを繰りながら、ぶっきらぼうに言った。「というか、幽霊なんていないです」
童謡『オバケなんてないさ』を作った人には、これ以上ない方謝の念を表したい。そう、この世には幽霊などというものはいないと千隼は頑なに信じていた。
小さい頃から、母に叱られるたびに「オバケが来るよ」と言われてきた。嫌いな食べ物とにらめっこしているとき、夜なかなか眠れないとき、おもちゃを片付けなかったときなど、お決まりのセリフを言われたタイミングを挙げればキリがない。そんなときはいつも、母の背後や窓の外、棚の横に、すうっと見知らぬ誰かが恨めしそうな顔でこちらをじっとりと覗き込んでいた。母に、あの人は誰なのか何度も聞いてみたが、母は気味悪がった顔をするなり、「きっとオバケが食べに来たのかもしれないね」などと吐き捨てて家事に取り掛かるのだった。当時はその見知らぬ誰かを幽霊だとは思わなかったし、今でもそれが幽霊だったとは認めたくない。なぜなら、単純に怖いからだ。
「オバケが来るよ」と母に脅されながら勉強をしていくうちに、千隼はどんどん知識を身につけていった。その結果、幽霊という概念は科学的に証明できるのではないかと思うようになった。
ホームにアナウンスが響いた。そろそろ電車が来る。千隼は本を閉じ、カバンにしまった。
「あのね、君にしか頼めないお願いがあるの。一生のお願い! あ、わたし死んでるんだっけ」
ホームに電車が滑り込んできた。ふわっと一陣の風がホームに吹き込んできた。
千隼はベンチに座ったまま、動けなかった。女の寒いギャグで金縛りにあったわけではない。
君にしか頼めない。
なにを根拠に女は言ったのだろうか。千隼が逡巡しているうちに、電車のドアが開いた。ホームに列をなしていた人たちが、どっと車内に吸い込まれていった。
「君しかいないんだよ」女はもう一度言った。
「なんで」なんで俺なのだろう。千隼は目線だけ女の方を向いた。小顔でウルフヘアがよく似合っている。色白の肌に、吊り上がった涼しげな目とすっと通った鼻筋が、彼女のクールさを際立たせているが、ぽってりと厚い唇がそこにほんの少しの甘さを加えていた。まるで袴のようなワイドパンツに柄シャツをインしている。
女は千隼と目が合うと、寂しそうに微笑んだ。「わたしの声が聞こえるのは、君だけだから」
幽霊なんているはずがない。この人は俺のことをおちょくっているんだ。千隼はそう自分に言い聞かせ、立ち上がってカバンを背負った。
「幽霊の存在は信じなくていいから! わたしのことは、なにかの物理現象だと思ってもらって構わないから!」
発車ベルが響いている。すでに電車のドアが閉まろうとしていた。
「例えば」女は続けた。「わたしの頼みを聞いてくれたら、もしかしたらわたしの声が君にしか聞こえない現象を解明できるかもしれないよね」
千隼は顔を顰めた。この女の頼みごとと、この女の声が自分にしか聞こえない現象の解明にはなんの繋がりもない。そもそも、この女の幽霊が有害でないとどうして言えるだろう。しかし、千隼の関心は抑えきれないものになっていた。幽霊の正体を解明できる可能性があるなら、この話に乗ってみたい。千隼は再びベンチに座った。どちらにせよ、次の電車が来るまでまだ時間はある。
「聞くだけ聞きます」千隼はため息をついた。
女はにっと笑って、体ごと千隼に向き直った。
「その前に、自己紹介しておくね。わたしの名前は紺。多分この駅で電車に轢かれて死んだんだと思う」
「死んだんだと思う?」
「基本的に生前のことは、なにも憶えてないの」
なにも憶えていないと言った紺と名乗るその女の顔は、妙にあっけらかんとしていた。
「それなのにどうして自分の名前は憶えてるんだって顔してるね。それはね、わたしの死体が身につけていた財布に身分証明書が入ってたんだけど、そこに書いてあったからわかったんだよ」
「どうやって自分の財布の中身を見たんですか? まさか霊視だなんてくだらないこと言わないですよね」千隼は肩を竦めた。
「わたしの死体が線路から引き揚げられたときに、警察がわたしの体をまさぐって手に入れた財布を覗き見た」
「それが自分の体だってなんでわかるんですか」
「そりゃあ、わかるでしょう。だって、それまで自分の魂が結びついていたんだよ?」
千隼はぐうの音も出なかった。そういったスピリチュアルなことになると、なにも反論できない。生身の体でそんな体験をすることは不可能だ。
「それでね、財布には他にもいろいろ入ってたんだけど、その中にホストの名刺が一枚入ってたんだ」
「お姉さん、ホストに行ってたんですか」
「意外?」
正直意外だった。ホストに通っている人は、もっと地雷系の人だったりフェミニンな服を着ている人ばかりだと思っていたが、紺はいわゆる中性的なビジュアルだ。男に興味がなさそうと言えば聞こえは悪いが、他人に、しかも水商売をしている男に依存するような人には見えなかった。
「八神千隼くん、っていうんだね。いい名だ。へえ、高二なんだ」ふーんと言いながら、紺は悪戯っぽく笑った。
「なんでわかったんですか」思わず千隼はのけぞった。
にやりとして紺は言った。「簡単だよ。千隼くんが読んでいた本についている貸出用のバーコードに学校名が書いてあったから、君が高校生だというのは最初からわかってた。千隼くんの学ランの襟もとについてるⅡBってバッジ、それってクラス章だよね。二年B組なのかな? それと、さっき君が本をカバンにしまおうとしたときにノートが見えたんだ。そこに名前が書いてあったから、君の名前なのかなと思って」
千隼の体からどっと力が抜けた。一種の霊能力かもしれないと、一瞬でも思ってしまった自分を恥ずかしく思った。
「それで千隼くん、改めて君に頼みがあるんだ」真面目な顔で紺は言った。「ホストを探してほしいの」
