【小説】透明度の高い春 #2
あらすじ
ホスト「ハル」を探すため、夜の街へ足を踏み入れた千隼。
そこで千隼が目にしたのは、ひとりのホストに異様に執着する“見えない存在”だった。
客の女の背後にまとわりつく、歪んだ気配。
それは幽霊ではなく、「まだ生きている人間の感情」だった。
「これ、幽霊じゃない」
科学で説明できるはずの現象が、少しずつ形を崩し始める。
一方で、紺の記憶もわずかに揺らぎはじめる。
「ハル」という名前に、なぜか引っかかるものがあるのだ。
これはただの人探しではないのかもしれない。
夜の街に沈んだ感情と、見えない存在。
千隼は“幽霊”とは別の何かに、足を踏み入れていく。
#2
日が暮れた繁華街は、派手な格好をした男女で溢れていた。道路の両側には客引きのホストやコンカフェ嬢が立ち並び、道行く人に声を掛けていた。通行人も若い男女が多く、白やベージュ、ピンクでフリルのついたフェミニンな格好をした女の子や、全身をブランド品で着飾った男、中には観光で来ているのかスーツケースを転がす外国人の姿が目についた。この街でなにかが起こることを期待しているかのような面持ちで彼らは歩いていく。
千隼は内心怯えながらその中を歩いた。金と酒で関係を築く、自分とは住む世界の違う人たちが呼吸する街。千隼は俯きながら早足で目的の店へと急いだ。
学ランのままだったせいか、キャッチに声を掛けられることもなく目当ての店先までたどり着いた。
CLUB vita(ヴィータ)。紺が探しているホストが所属していた店だ。
「ホストを探してほしいの」
駅のホームで言われた言葉に、千隼は目を剥いた。ホストの名刺の話が出たときにまさかとは思ったが、そのまさかだった。
「なんでそのホストに会いたいんですか」千隼は呆れた色も隠さずに紺に聞いた。
「いやあ、なんでだろうねえ」頭を掻きながら、紺は冗談っぽく言った。
千隼の眉間に自然と皺が寄った。会いたい理由もないのに会いたいだなんて不毛だ。
「でもさ、わたしって自分で言うのもなんだけど、ホストに行きそうなキャラではないじゃない? それにホストの名刺が入ってたにしても、一枚しか入ってないのって不自然な気がするんだよね」
「不自然?」
男子高校生がホストクラブの常識など、知るはずもない。なにが自然でなにが不自然なのだろうか。
「普通初めてホストに行ったらさ、何人かのホストが自分の席に着いてくれて、着いてくれたホストは名刺をくれるんだよ。それなのに、わたしの財布には一枚しか入ってなかった。どういうことなんだろうね」
「自分の名前も憶えてないのに、ホストの仕組みは憶えてるんですね」
「いいから」
千隼はあからさまに不満の吐息を吐き出した。「他の人の名刺は家に置いてきたんじゃないですか? それか、その名刺のホストに会うためにホストクラブに行ったとか」
「なるほどねえ」紺は深く頷いた。「でも、他の人の名刺は違うところに保管して、特定のホストの名刺だけ持ち歩くってことは、その人はわたしにとって特別な人だったってことじゃない? 名刺のホストに会いに行くためにホストクラブに行ったっていうのも同じ理由。その特別な理由を、わたしは知りたいんだ」
「自分で行けばいいじゃないですか」千隼は今度こそ立ち上がろうとした。
ちょうど次の電車がホームに滑り込んできた。
「できないんだよ」紺の寂しげな声が、電車の音に紛れた。
「え?」
楽しそうだった紺の表情に、少し影が差したように見えた。
「ほら、なんていうか、駅から出られないというか、縛られてるというか、地縛というか……ここから動けないんだ」
さっきまでなにも考えていないような、どこか他人事のように飄々と話していた紺の声が震えていた。きっと自分で探せるなら探していたのだろう。動けなくて、会いにも行けず、なぜ彼のことが気になるのか理由もわからないまま、この場に縛られていたのか。
「……そのホストさんの名前とお店の名前、教えてください」
「おお!」紺は目を輝かせた。「ありがとう!」
千隼はカバンからノートを引っ張り出した。
「そのホストの名前は、ハル。CLUB vitaってお店で働いてるみたい」
ホームに停車している電車は、先ほどの電車よりも乗客の数が少なかった。千隼はホストの名前と店名、その店の住所をノートに書き写し、おもむろに立ち上がった。
繁華街に向かう電車は反対側のホームから乗るしかない。そうして千隼は、普段は絶対に近づかない繁華街に向かうこととなったのだった。
「ここか」
千隼は看板を見上げた。独特な源氏名とともに、端麗な容姿の男性の写真が大々的に、煌びやかに貼りだされている。しかしどの写真にも、ハルというホストは見当たらない。
千隼が重厚で無機質な扉のドアノブに手をかけると、ひんやりとした冷たさが手のひらを伝ってくる。ゆっくりとドアノブを押すと、扉の向こうが見えた。赤い絨毯が敷き詰められた細い階段が下に向かって伸びている。
千隼が息を呑んで一段ずつ階段を下りていくと、受付と思われるカウンターが見えてきた。カウンターの中にいる背広の男は、忙しそうに手元の端末を操作していたが、千隼を見るなり、表情を凍りつかせた。その表情を見た千隼もぎょっとしたが、考えてみれば自分は制服のままホストに乗り込んでいる。そしてなにより、男の自分がホストに入店するのもそもそもおかしいのかもしれない。
千隼がその場で固まっていると、背広の男がこわばった営業スマイルを顔に貼りつけた。
「こんばんは。どうしましたか?」
はっとして千隼は足早にカウンターに近づいた。一刻も早く、この場違いな空間から立ち去りたい。「あ、えっと、探してる人がいまして」
背広の男は、首を傾げながら困ったように頭を掻いた。そしてすぐに、ちょっと待っていてください、と店の奥に姿を消した。
店内に目を向けた。薄暗い店内にはいくつもの豪華絢爛なシャンデリアが飾られており、革張りのソファがそこかしこに置かれていた。まさに高級感が前面に押し出された装飾に、千隼は圧倒された。
ほどなくして、背広の男がもう一人男性を連れて戻ってきた。ブランドものらしいタートルネックのニットを着て、髪もナチュラルにセットされている。
「こんばんは。代表のです」瀬那は透明感のある涼やかな笑顔を千隼に向けた。「誰に用があるって?」
良かった。優しそうな人が出てきてくれた。千隼はほっと息をついて、瀬那に聞いた。「えっと、ハルさんはいらっしゃいますか?」
「うーん」瀬那は困惑した目つきのまま腕を組んで、愛想笑いを浮かべた。「ごめんね。うちにはハルって名前のホストはいないんだ」
こういうこともあるだろうとは思っていた。紺が死んでから、どれくらい時間が経ったのかわからない。そうなると、そのホストが未だ在籍しているかどうかなどわからない。でもここまで来たんだ、やれることをやっておきたい。千隼は勇気を奮い立たせた。
「以前、このお店で働いていたみたいなんです。いつまでここで働いていたか、それと、わかれば彼が次に就いた職場を調べてもらうことはできませんか」
瀬那の眉がぴくりと動いた。一瞬、顔から表情が消えたように見えたが、再び美しい顔に笑みが戻った。
「ごめんね。在籍していないホストについて、ボランティアで調べるほど僕たちは暇じゃない」瀬那の声には鋭さが増していた、「ちなみに、君とハルはどういう関係?」
直接的な関係は一切ない。それどころか、顔も本名も知らない。でも、そんなことを言ったら余計不審がられるだろう。千隼はカバンを背負い直して、浅く息を吸った。
「僕の姉が、ハルさんと知り合いだから……」
瀬那は千隼の言葉に被せるように、嘆息を漏らした。
「じゃあなおさら個人情報は教えられないよ。わざわざ来てくれたみたいだけど、力になれなくてごめんね」
取り付く島はなかった。瀬名の笑顔の裏には、もうなにも言わせまいという圧が伺えた。なにも情報を得られなかった。しかしまるでハルの個人情報を知っているような瀬那の口ぶりからして、ハルは間違いなくここで働いていたのだろう。
瀬那さんに見つからないように、他のホストから話を聞くか。
千隼が考えを巡らせながら店を出ると、ドアのすぐ向こうに女が立っていた。危うく千隼はその女にぶつかりそうになった。「わっ、すみません!」
女の髪は肩の長さで散切りにされ、不揃いな髪で顔を覆っていた。白いワイシャツは皺だらけで、その中の身躯の細さが露骨に強調されていた。そしてなにより彼女が裸足だったのが、千隼を不快な気持ちにさせた。繁華街ではよくある光景なのかもしれないが、実際に酔っ払いに絡まれるのはいい気がしない。
千隼がじっと女を睨みつけていても、女は一言も発さないどころか、その場から一歩も動かない。千隼は不気味に感じ、女の横を通り過ぎようとした。
「ハルのこと、知ってるの?」
女のかすれた声が千隼の耳にかろうじて届いた。思わず千隼は振り返った。「はい?」
女も千隼の方を向いていた。髪の隙間から覗く女の形相に千隼は凍りついた。まるで幽霊のような青白い顔に埋もれた目が、千隼をじっと見つめていた。
「あんた、ハルのこと知ってんのかって、聞いてんの」
今度ははっきりと聞き取れた。鬼気迫ったその声に、千隼はさらに身を強張らせた。急に周辺の温度が下がったように思われた。
「知らないです」やっとのことで絞り出した千隼の声は、少し裏返っていた。
千隼の足は恐怖で竦んで動かない。自分の意志とは裏腹に、体が言うことを聞かない。女の射貫くような目から視線を逸らすことができない。まるで金縛りにあっているかのようだ。
「ハルは、今、どこに、いるの」
女が一歩ずつ、ゆらゆらと千隼に近づいてくる。その間も彼女はなにかぶつぶつと呟いている。
呼吸が浅くなる。まるで幽霊のような女の顔が千隼の目の前に迫った。この女はハルを知っている。ならばこの女にハルのことを聞けば、なにかしらの情報は得られるかもしれない。しかし、この女に関わったら大変なことになると千隼の本能が告げていた。
女が千隼の首に向かって手を伸ばしてきた。千隼は観念して思い切り目を瞑った。その瞬間、尻尾を踏まれた猫のような叫び声が響いた。
千隼がゆっくりと片目だけ開けると、そこに女の姿はなかった。千隼は脱兎のごとくその場から駆け出した。さっきまで一歩も動かなかった足が、今では自分の限界を超えた走りを見せている。
一体あの女はなんだったんだ。執拗にハルのことを聞いてきた。それにあの殺意はどうして俺に向けられていたのだろう。千隼は考えがまとまらないまま急いで駅に戻り、ちょうど来ていた電車に飛び乗った。
学校の最寄り駅に戻ると、紺は同じベンチに座ってぼんやりとしている。千隼が隣に座ると、彼女は「おっ」と声を漏らした。
「で、どうだった?」千隼からの報告を待ちきれない様子で、紺は目を輝かせた。
「確かにハルってホストは、CLUB vitaに在籍していたみたいです。でもそれ以上はわかりませんでした」
「あ、え、それはどうもすみませんでした」紺が急に千隼に体ごと向き直り、深々と頭を下げた。
「え?」
なにか謝られるようなこと言ったか? いや、そもそもこんな面倒事に巻き込まれている時点で謝られて当然なのかな。千隼が不思議に思っていると、紺が頭を上げた。眉根を下げて、下唇を突き出している。「今日さ、変な女に絡まれたんでしょ」
「どうしてそれを……」まだなにも話していないのに。千隼が考えていることを悟ってか、紺は申し訳なさそうに微笑んだ。
「君のおじいさんにめちゃくちゃ怒られちゃったよ。孫を危ない目に遭わせるな、ってね。おじいさんによるとね、その変な女は、どうやらハルってホストにやけに執着した生き霊だったらしいよ。つまり、わたしや君のおじいさんとは少し違った存在。ハルが所属していたお店に縛られていた、というか、自ら進んでその場に憑いていたみたい。そしたら、君がハルという名を口にしたもんだから、君を帰す前になんとかして居場所を聞き出そうとしたんだろうね」
幽霊みたいだとは思っていたが、まさか本当に幽霊だったとは。いや、幽霊なんてものはいないんだ。生き霊と呼ばれる概念だって、きっと科学的に証明することができる。生きている人の心は目に見えないのに、それが可視化される現象を必ず解明する。千隼が習いたての物理の公式を生き霊の存在証明に当てはめようと脳みそを回転させようとしたとき、ふと紺の発言が脳裏をよぎった。
「紺さん、俺のじいちゃんと話したんですか?」
紺は瞬きを何度かして千隼を見つめた。「話したもなにも、おじいさんは君の隣でずっと君のこと守ってくれてるよ」
