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バウンダリーは誰のため?❷──傷つけるのが怖い、分断を手放す|稲垣 諭・清田隆之

自分を守り相手を尊重する健康で安全な人間関係に欠かせない、人と人との境界線=「バウンダリー」は、近年ますます耳目を集めている。コミュニケーションとコントロールの関係はどうなっているのか? 自己責任や同調圧力はバウンダリーとどう関わるのか? 文筆・講演まで幅広く活躍する桃山商事代表・清田隆之氏と、話題の新刊『やさしいがつづかない』を上梓した哲学者・稲垣諭氏による、日々の暮らしに埋め込まれた暗黙知を掘り起こす「バウンダリー」対談。前篇に次いで議論はいよいよ核心へ……後篇「バウンダリーは誰のため?❷──傷つけるのが怖い、分断を手放す」を公開!

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1|傷つけるのが怖い(涙)──安全? それとも防衛?

清田 今回話してみたかったもうひとつのテーマとして、傷つけるのが怖いとか、ハラスメントになったらどうしようとか、そういうことに悩む問題もいっしょに考えてみたくて。もちろん、そういう不安があるからむやみにバウンダリーを踏み越えずに済んでいる側面もあるはずで、安全なコミュニケーションはやっぱり大事だと思います。でも、内面の交流が生まれそうなシーンでも一線を引いて先に進まないとしたら、それってほんとうに「やさしい」ことのだろうか……とも思うんです。

今、女子美術大学で非常勤講師をやっているんですけど、「先生」っていう立場が帯びる権威性や、学生との境界線という問題が個人的にすごく気になっています。例えば以前、オンラインで課題をやりとりする掲示板でずっと僕のことを「清水先生」って呼んでる学生がいて、それはそれで全然よかったんですが、関係性がなごんできたタイミングで「清水じゃなくて清田だよ~」みたいな書き込みをしたんですね。自分としては軽いツッコミくらいの気持ちだったんですが、その学生さんからめっちゃくちゃ謝られちゃって……「申し訳ございませんでした。今後このような失礼がないよう気をつけます」みたいな。それが逆に申し訳なくて……相手からすると、「先生」という立場は想像以上に権威性を帯びてるんだなって実感した出来事でした。

そういう経験もあって、かなり距離感を気にするようになりました。例えば課題で文章を書いてもらっても、フィードバックは基本“褒める”の姿勢なんですが、それもどうなんだろうって……。というのも、あるとき匿名で短歌を書いてもらうワークをしたとき、「ここの言葉を入れ替えたら主題がより引き立つかも」「ちょっと同系統の言葉が続きすぎかも」みたいに踏み込んだフィードバックをしてみたら、授業後の感想シートで「あんなふうに言ってもらえてうれしかった」みたいなポジティブな感想が多く届いたんです。褒めるだけでなく、一歩踏み込んで批評的なことも伝えてみたほうが、学生さんからすると「ちゃんと見てもらえてる」という感覚があるようで……

SNSだと誰かの傷つきに共感できたりして、日常的な問題への解像度は上がってきていると思うんです。でも逆にSNS上での傷つけ合いなんかをたくさん見てると、自分だっていつ傷つける側に回るかわからないぞってなるじゃないですか。それなら、なるべく傷つけないように線を引こうって。それは丁寧で安全なコミュニケーションでもあるけど、やさしくないコミュニケーションにもなりうるのかなと。

稲垣 大前粟生さんの小説に『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』$${^1}$$ってありますよね。あの小説に出てくるキャラクターは何か発言する前に必ず、この発言で相手が傷ついてしまうんじゃないか、これって自分が気持ちよくなりたくて言ってるだけじゃないか、みたいな強い内面化が働いているんです。それってほんとうにいいことなのか、意外とむずかしいなという思いもあるんですけど、今の時代、内面化の強度が高まる方向性はもう止まらないとも思うんですよね。

2|コントロールを手渡してみる──2つの共感

稲垣 話が飛ぶようですけど、『鬼滅の刃』の竈炭治郎って、ものすごい語るじゃないですか(笑)。敵と剣を交わしているあいだも、「負けるな!」とか、あのときの出来事はどうだったとか、内面が爆速で回転している。そういう『鬼滅の刃』が世界的大ヒットなわけですから、かつてルソーの小説が人々の内面化を促した以上のムーブメントが起こっているのかもしれない。その動きは止まらないとは思うんですけど、コミュニケーションを遮断・制限する以外の選択があるとも思っていて、『やさしいがつづかない』では「コントロールを手放す/手渡す」を手がかりにそのことを考えようとしたんです。

清田 内面化がどんどん強まっていくというのは、体感的にもわかるような気がします。SNSと共感の話がありましたが、とりわけ「苦しい」とか「つらい」とか「腹立たしい」とか、誰かの投稿に激しく共感し、感情を揺さぶられ、自分自身も苦しさや腹立たしさでいっぱいになってしまう瞬間も多いです。

稲垣 共感には情動的共感(emotional empathy)と認知的共感(cognitive empathy)の2つがあって、内面化や内言において問題になってるのは情動的共感のほうだと思います。情動的共感は、自分の感情を激しく動かすので、消耗しやすいものです。ですので僕は、感情や共感でない方向から「やさしい」を考えたくて、コントロールを手放す/手渡すコミュニケーション、ということを構想してみたかったんです。

本来コントロールとコミュニケーションは対立するものじゃないし、そもそもコミュニケーションはコントロールできない。だから「やさしい」を考えるとき、コントロールを手渡して、コミュニケーションの方に重心を移すのが大切っていう議論をしています。私はコントロールしませんよとか、ここはちょっとコントロールさせてもらうねとか、そういうこと自体をコミュニケーションで伝えるのでもいいし、相手を傷つけるかもしれないこともコミュニケーションで超えられると思ってて。

清田 なるほど。「あえて距離を置く」という対処とはまた異なる方向性ですね。

稲垣 そうですね。バウンダリー問題で気になるのは、前回も少しお話ししましたが、自己責任論で、自他境界が曖昧なのはわたし/あなたの線引きの問題だから線をちゃんと引こう、というタイプの議論です。ほんとうは友人とか、家族とか、組織とかいろいろなバウンダリーがあって、そこにはさまざまな強度やモードがあるのに、それがすっかり単純化されてしまう。

サルバドール・ミニューチンという家族療法家は、システムという視点から親子とか家族とか学校とかの境界を調整する必要があると言っていました$${^2}$$。今はそういうものが「わたし/あなたの線引き問題」に還元されているけど、もっと複合的に柔軟に境界を調整してもいいはずです。バウンダリーが自己責任の話に切り詰められて、個人化の方向に進んでしまうのはちょっともったいないと思います。

清田 自己責任論が自己啓発と結びつくと、すぐに「それはあなたの心がけや能力次第」「それができないのはあなたがダメだから」ってなりますもんね。すると怖いから安全策を選ぶことになる。それだとセルフコントロールできる範囲は安全だけど、不安がどんどん増大するっていう。

稲垣 個人にすべてを背負わせる方向は今も根強くて、SNSでの振る舞いの結果とか炎上なんかも全部個人に降りかかってくるじゃないですか。だから一番安全な振る舞いをしてしまう。あの話題はやめておこうとか、この言い方はやめておこうとか。それに、ひとつの言動やその決断の後も、あれでよかったんだろうか、彼/彼女はこう思ってるんじゃないかって、ひとりで後悔したり加害意識をもったりして、無限に内面的な心配を抱えることにもなってしまう。

清田 相手がどう思ってるかなんて究極的にはわからない……はずなのに、想像で勝手に決めつけ、自分を加害側におき、勝手に自罰的な気持ちになって「だったら何も言わないでおこう」みたいな無限ループに入ってしまう。そういう状況に僕もよく陥ります。

でも多分、それは「やさしい」とは別の何かですよね。稲垣さんは著書で「マイクロカインドネス(小さなやさしさ)は奇跡のようなものだ」と言っていましたが、それがすごく刺さりました。

前に男友達の家に遊びに行ったとき、彼が女性パートナーにおかわりのご飯をよそってもらっているシーンを目の当たりにし、反射的に「わっ、家父長制……」と感じてしまったことがありました。もちろんジェンダー規範に照らせば家父長制的な光景ではあると思いますが、二人としては納得した上でやっている役割分担という可能性だってある。何より、ご飯をよそってもらって「ありがとう」と返したやりとりには、実際に小さなやさしさが宿っていた感じもする。強制とか暴力みたいな背景があれば話は別ですが、こちらのフレームに当てはめ、相手の言動を勝手にジャッジするのもやっぱりよくないなって。

3|心は捏造される──告解と責任

稲垣 最近はじめて「無内言症(アネンドファシア)」っていう、内言がないか、ほとんどない人たちがいるというのを知ったんです。僕たちは、何かを考えたり感じたり覚えたりするときって、脳内で内言化の作業をするじゃないですか。ところがその内言がない人がそれなりにたくさんいるようで、記憶テストの成績もちょっとだけ落ちるらしいんです。

清田 それってどういった状態なんでしょう? 内面に言葉がない……!?

稲垣 そうですね……『ワンピース』のルフィとか『ドラゴンボール』の悟空とか、たぶん内言がないですよね。『キャプテン翼』の大空翼も、いっぱいしゃべるしサッカーのことは考えてそうだけど、逆にサッカー以外のことは何も考えてなさそうに見える。テレビアニメでも30分ぐらいずっと空飛んでましたよね(笑)。かといって日常生活で困ることはないし、ちゃんと配慮もできるはずで、僕なんかは内言が少ないのも時にはいいのかなって。

もともと「内言理論」は、ヴィゴツキーというロシアの発達心理学者が提唱した理論なんです$${^3}$$。そもそも子どもって内言がないところからスタートします。お腹が空いたとか、おしっこしたいとか、考えるより前に発言している。発達的には先に「外言」が始まって、そこから「おしっこしたい」って言わなくてもひとりでトイレに行けるようになると、やがて外言が内言化する。

僕たちは内言として考えたことを話してると思ってるけど、こうやってしゃべってる今、僕はほぼ何も考えていません。話すことをあらかじめ内言で準備することはありますが、話しはじめると言葉が口から自然と出てくるのが、外言なんですよ。だから内言から外言が生まれるっていうのは誤解の一種で、外言が内言化されていくっていうのが実際のところです。

清田 言われてみれば確かに……。例えば今、自分は6歳の双子の子育て中なんですが、子どもたちがケンカしたときとか、「どうしてこうしたの?」「そのときどう思ったの?」とか、理由や動機をつい聞いちゃうんですね。説明してくれるときもあるけど、よくわからないみたいな顔をするときもあって。言語化が難しいというのもあるんでしょうけど、そもそも「人の内側には言葉が渦巻いているはずだ」っていうのが、こっちの思い込みかもしれないってことですよね。

稲垣 ミシェル・フーコー$${^4}$$によると、むしろそういう問いかけによって内言化を促しているところもあるんですよ。キリスト教には告解(いわゆる懺悔)があって、毎週決まって教会に通って罪を告白する。でも、別に変なことはしてなくて、告白する罪がないときだってある。それで仕方なく何かしら捏造する、そして聖職者に「あなたの罪を許す」と言われるわけです。

学校で反省文を書かせるのも同じですよね。楽しくて遊んでるだけの子どもが反省文を書かされると、そこで「どうも自分は何かしでかしたらしい」と思うわけで、あれも内言化なんですよ。教育を通じてそういう主体がつくられていくとも言えます。

清田 そう考えるとちょっと怖いですね。というか、自分自身も昔、そういうことに悩まされていたような気がします。自分の母親が過干渉なタイプですぐ怒る人だったし、中高の6年間を過ごした男子校も体育会系の校風が強いところで、先生たちがとにかく理不尽で。そういう中で、「こう言ったほうが無難だな」「怒られたくないからこういうことにしておこう」って、大人の顔色を見て理由や動機を調節するみたいなことばっかりやってました……

稲垣 発達的には3~4歳ぐらいから自分の言動を理由づけられるようになると言われていて、これって要するに裁判モデルなんですよ。裁判で「あなたはなぜこういうことをしたのか?」と動機を問われたら、量刑に影響するから理由を述べる必要がありますよね。でも、考えてから行動することなんてそう多くないはずで、もともと理由なんてだいたい後づけなんです。哲学者で有名なカントも心の働きを「法廷」として考えていたところがあります。そういう裁判モデルに従って、僕たち一人ひとりの内面が形作られていくんです。それに従って責任ということも事後的に重要になった。

清田 たしかに裁判だと刑がなるべく少なくなるような理由を言おうとするでしょうね。自分を被害者に見せようとか、やむを得ない理由があったとか、相手にも非があったとかを醸し出すロジックを構築して、自分の免責を狙うことってめっちゃありそう。捏造っていう意識もないままかもですね。

つくづく、子どもに「どう思った?」と聞くのって、なんていうか「内言ハラスメント」みたいな行為なのかも……

稲垣 ハラスメントにも見えるけど……それが現代社会で生きるための成長と重ね合わされていますよね。だから、ある種のジレンマのなかにいるんだと思います。

4|侵入する〈他者〉──感染の生活史

清田 双子たちは保育園に通ってるんですけど、前に上履きとか外靴が蒸れて臭いみたいな問題があって。洗っても洗ってもなかなか臭いが取れなくて、思わず「これ、しっかり洗わないと水虫とかになるぞ」みたいなことを言っちゃったんです。パートナーは「そんなわけない」って言うんだけど、「いや、男子校のサッカー部でも流行ったことがあって、結構あれ厄介だから」「それはサッカー部が汚いだけだ」みたいな言い合いになって。「水虫って何?」と聞いてきた子どもには、「バイキンが足の裏にくっついて足がかゆくなるやつだよ」みたいな説明をしてその場は終わったんです。そしたら翌朝、子どもが足に保冷剤を当てながら匂いを嗅いで、「水虫、もういなくなったかな?」とか言ってて……。余計な心配を植えつけてしまったかもって、ちょっと胸が痛みました。

稲垣 感染への恐怖って、もうそれぐらいの年齢からあるんですね。

清田 コロナ禍に幼少期を過ごしたこともあって、衛生問題には敏感な気がします。保育園でもインフルエンザとかウイルス流行の情報がもれなく周知されるようになってるし、鼻を指でさわっちゃダメとか、グラグラしてる乳歯も指でさわらないでとか、日頃から感染対策のことを細かく言われていて。

稲垣 生命に直結するから敏感にもなりますよね。ちょっとしたところが気になること自体がメンタルヘルスに影響を与えるって説もあるし、子どもは土にさわって微生物に曝露させた方が免疫系の発達につながってアレルギー疾患から身を守れるみたいな研究もあって、衛生仮説(幼少期に微生物との接触が少ない環境が、免疫の調整を不十分にし、アレルギーを起こしやすくするという説)というのが多岐にわたります。考えてみればこれも、ウイルスという〈他者〉とのバウンダリー問題ですよね。

そもそも感染症との戦いは人類史そのものでもあって、僕たちの体毛が少ないのも一説では感染症予防と言われています。体毛が多い動物はすぐ体にノミとかが棲みつくけど、着脱できる衣服をまとうようになると、ノミが身体を移動できなくなって、感染症リスクは下がる。僕たちとウイルスとのあいだには、こうやってバウンダリーを巡って、ずっとやりあってきた歴史があるし、ゲノム遺伝子にはウイルス由来のものも含まれていて、遺伝子が何度も書き換えられて今の僕たち人類がいる。COVID-19感染拡大の行動制限は不自由でしたけど、今まさに人類進化の渦中にいると思うと、ちょっと楽しくなるんですよね。

5|確実性もつづかない──気持ちにアテンション

稲垣 以前ある学生が、首のあたりに腫瘍ができて心配していたことがあって、結局病院で検査を受けたんですけど、今度は1週間後の検査結果が気になって仕方ないと。そこで僕としては、検査結果が出て悪性だったら存分に悩めばいいし、良性だったら喜べばよくて、1週間悩みつづけて腫瘍が良くなるならそうした方がいいけど、ストレスが増えて悪化する可能性もあるから1週間も悩むのはナンセンスだよ、と。それより楽しいことをして忘れた方がいいってアドバイスしたんですよね。

清田 確かにそうですね。もっとも、頭ではわかってても、聞いてる側からするとびっくりしそうではありますが(笑)。

稲垣 ここでも情動的共感と認知的共感の切り分けはむずかしいという問題が出てきます。さっきみたいなとき、僕は認知的共感に切り替えた方が良いと思ってて。相手の気持ちには共感しない、でも状況や言動にはちゃんと共感する。

清田 自分はつい感情に引っ張られてしまうところがあり、その切り分けがわりと苦手かもです。ただ、気持ちに共感してくれないと冷たく感じることもありますよね。「欲しいのは客観的な助言じゃない!」みたいな……

稲垣 一般的に、「共感」という言葉で理解されているのは情動的共感の方だと思います。だから認知的共感は冷たい感じがするのかもしれません$${^5}$$。たとえばですね、アリクイは絶滅危惧種ですけど、そうではないレッサーパンダに寄付が集まるのは情動的共感の働きです。認知的共感で考えれば優先すべき方は明らかで、絶滅危惧種のアリクイに寄付が集まりそうなんだけど……情動に引っ張られない共感はそれくらいむずかしい。このあたりは動物解放思想家のピーター・シンガーが、痛みへの共感という文脈で論じています$${^6}$$。

別の例を出すと……不治の病でもう長くない子どもが、映画に出てくるヒーローになってみたいという。親はコスチュームを買って、撮影クルーも手配して、子どもの夢を叶えようとする。認知的共感で考えると、そのためにかけるお金があれば、アフリカ諸国にマラリア予防の蚊帳を提供した方が多くの人を救えるんだけど、子どもの夢を叶えることにはかけがえのない価値があって、認知的共感だけだとそれをないがしろにしかねない。だからどっちかだけって話じゃなく、ここでもバランスが大切なんですが、そうすると、結論にインパクトがない話になりますよね……

清田 情動的共感を集める演出がうまい人の方が、アテンションを集められたりしますもんね。SNSでも丁寧な議論をするより、感情を煽るようなショート動画だったり、極論を言い切るインフルエンサーの方が認知はされやすいし。

稲垣 学者たちはこれまでそういうフィールドに積極的には加わっていかなかったんですよね。でも、エリート主義に留まっていたら、いつの間にか自分たちが少数派になってしまった。この類の問題は、日本でもアメリカでも起きていて、白人男性労働者中間層の支持を救い上げているドナルド・トランプがその象徴でしょうね。

清田 最近は心理学関連のショート動画も結構あって、「自己肯定感が低い人の特徴10選」「これに当てはまる人は発達障害かも?」みたいなものが日々流れてきます。動画ではさもエビデンスがあるように論文なんかを紹介しているんですけど、それを見て論文に当たって検証する人はいないだろうし、引用されているデータ自体は事実だとしても、文脈や解釈も論文通りなのかというところまではわかりません。全部をあやしいものと決めるのも乱暴ですが、そこに不安やコンプレックスを煽ってアテンションを集めるという構図があるのも事実で……。感情に訴えかけるコンテンツは強いので、仮に誰かが学説に則って反論したとしても、反論した方が「エリート主義の嫌なやつ」みたいに見えたりする。そうやって裏付けのない派手な発言がどんどん広まっていくみたいな、もどかしくて恐ろしい現象もありますよね。

稲垣 2011年の東日本大震災の原発問題と2020年のCOVID-19感染拡大のとき、マイクロシーベルトはどれくらいか、避難した方がいいのか、コロナワクチンを打った方がいいのかを巡って、科学者たちは両義的な議論を展開しましたよね。あれは、ある意味で科学が一枚岩ではないという科学の健全な姿だったはずなのですが、ありのままを見せたことが信用の失墜につながったところはありそうです。それくらい科学が信用されにくい時代になっているということでもあるし、そのことは陰謀論とも地続きなんですよね。

6|こじらせ男子のホモソ問題──分断と同調圧力

清田 「世界には男と女しかいないんだ!」とか、「この世に発達障害なんて存在しない」みたいな言説って、明らかに根拠もない暴論なのに、謎に勢いだけはあるじゃないですか。そういうものが数字を稼げてしまうのって、ある意味で「思考のコストを減らしてくれる言説」だからかもなって思うんですよ。

稲垣 男女二元論を覆す学説によって生き延びることができた人が当然いますが、同時に、不安に駆られているしまう人もいる。そして両者は分断されつづけてしまう。科学や医学の論争史を踏まえた議論というエートスそれ自体が消えかかっているとも言えます。

清田 自分が嫌いなものを否定してくれるからスカッとする……みたいな。でも、そういう暴論が歓迎されてしまう裏側には、人々の不安や傷つきが関係している気がしてならないんですよね。

稲垣 きっとそうですよね。そしてその傷つきをずっと無視してきた社会があって。単に話が通じないとスポイルするだけでは何も解決しなくて、その人たちなりの物語や論理までを見る必要がある。

清田 その傷が誰からもケアされてなくて、それで恨みや被害感情が募っていく……。自分が普段テーマにしているジェンダー問題で言えば、女性に対するヘイト(ミソジニー)や弱者男性論みたいな言説もそういうものから生まれた何かに感じます。背景には構造的な抑圧や暴力によって苦しめられてきた過去があったりするわけで、発せられた言葉だけを見て「間違ってる」「差別はいけない」などと諭しても、その声はきっと届かない。かといって、傷つけられてきたんだから差別のひとつもしたくなるよね、っていうのもおかしい。

日々SNSなどを見ていると、そこには“下から目線”とでも言うべき圧力が強く働いていることを感じます。例えば誰かが孤独の苦しみを訴えても、「正社員なだけまだマシ」「こっちは独身の童貞だが?」みたいな声が飛んでくる。恵まれてる(ように見える)要素があると“下から目線”の突き上げにあい、発言権が奪われていく現象は、とても殺伐としたもののように感じます。

稲垣 『くぐり抜けの哲学』$${^7}$$の第3章「『男性性』をくぐり抜ける」では、そういう男性性や同調圧力といったことを論じているんです。近年の海外での銃乱射事件は、宗教的信条や主張らしい主張がないものもあって、調べてみると主犯の9割以上が男性だったりもする。これは彼らを追い込んでいる社会構造や理想の男性像の呪いがあるということでもあって……そういう社会の分断をどうしたらいいのかということを考えようとしています。

清田 ちょうど今、男同士の関係で発生した傷つき体験、というテーマで本を書いているんですね。背が低くて馬鹿にされたとか、部活でミスしたら監督に殴られたとか、悪ノリの空気で全裸にさせられたとか……そういう、男同士の関係のなかで発生する“認識されづらい暴力”ってたくさんあると思うんですよ。でも現場では「いじり」や「茶化し」っていう空気だから、傷ついたとも言えないし、本気で拒絶もできないし、無理やりルールに乗っているうちに笑いが起きて「お前やるな」って賞賛されることもあって。やってる側にも加害者意識がないし、やられた側も傷つきだと思えないことがあるし、やられた側が今度はやる側に回っちゃうこともあるし。

取材やアンケートで集まった300近いエピソードを元に書いているのですが、こういうコミュニケーションがベースにあると、そりゃ男同士のケアや助け合いは難しいかもなって痛感します。「傷ついた」とか「助けて」を言えない空気が隅々に染みわたってて、男はみんな男をうっすら警戒して信用していなくて、なのにホモソーシャルな連帯意識もあって……内面を開示せず、ノリと役割意識だけでつきあっている男性たちの姿が垣間見えてきました。

稲垣 僕はそういう男性同士の絆に入れなかったタイプなんですよね。男同士でお昼を食べに行くことになって、みんながマックに行くと言い、僕はモスバーガーに行くから食べ終わったら集合しようというのですが、なかなか通じない……みたいな。そういうバウンダリーは僕にとってもむずかしいもので、ポジティブ・ペシミズムを身につけなきゃいけなかったのも必然性があったからです。

清田 男たちの間に発生する同調圧力って根深いですよね……。話が四方八方に飛びましたが、いろいろなテーマを行ったり来たりして、すごく楽しかったです。この対談がバウンダリーについて考察するための一助になっていたらうれしいです。

2025年12月10日・ルノアール水道橋西口店
構成=藤井裕二|金剛出版


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稲垣 諭(いながき・さとし)

哲学者。自治医科大学教授を経て、現在、東洋大学文学部哲学科教授。専門は現象学、環境哲学、リハビリテーションの科学哲学。
主著|『衝動の現象学──フッサール現象学における衝動および感情の位置づけ』(知泉書館[2007])、『リハビリテーションの哲学あるいは哲学のリハビリテーション』(春風社[2012])、『大丈夫、死ぬには及ばない──今、大学生に何が起きているのか』(学芸みらい社[2015])、『壊れながら立ち上がり続ける──個の変容の哲学』(青土社[2018])、『絶滅へようこそ──「終わり」からはじめる哲学入門』(晶文社[2022])、『やさしいがつづかない』(サンマーク出版[2025])

researchmap:https://researchmap.jp/read0140115
X:https://x.com/inaphenomeneuro

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清田隆之(きよた・たかゆき)

文筆業、「桃山商事」代表。恋愛とジェンダーの問題を中心に執筆活動を展開。桃山商事としての著作に『モテとか愛され以外の恋愛のすべて』(文庫ぎんが堂[2019])、共著に『大学1年生の歩き方──先輩たちが教える転ばぬ先の12のステップ』(集英社[2023])。
主著|『よかれと思ってやったのに──男たちの「失敗学」入門』(晶文社[2019])、『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』(扶桑社[2021])、『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス[2020])、『戻れないけど、生きるのだ──男らしさのゆくえ』(太田出版[2024])

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脚注

  1. 大前粟生(2023)ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい.河出書房新社[河出文庫].

  2. サルバドール・ミニューチン+マイケル・P・ニコルス+ウェイ・ユン・リー[中村伸一・中釜洋子=監訳](2010)家族・夫婦面接のための4ステップ──症状からシステムへ.金剛出版.

  3. レフ・セミョノヴィチ・ヴィゴツキー[柴田義松=訳](2001)思考と言語[新訳版].新読書社.

  4. ミシェル・フーコー[渡辺 守章=訳](1986)性の歴史I──知への意志.新潮社.

  5. 今は「同情」と訳されることの多い「シンパシー(sym-pathy)」という言葉はギリシア語に由来し、とても古いものです。もともと「一緒に−感じる」という意味でした。それに対してドイツ語の「感情移入(Ein-fühlung)」という語が19世紀末から20世紀になって美学や心理学の領域で新しく使われ始めます。これは「中に入って-感じる」という意味なのですが、これを英訳した際に「エンパシー(em-pathy)」という語が作られたという経緯があります。エンパシー自体は、他人の中に入って感じるという意味なので、「情動的な」ところもあれば、「認知的な」ところもある概念です。私の『「くぐり抜け」の哲学』はこの「エンパシー」を「くぐり抜け」と邦訳したほうがいいという提案から始まっています。(稲垣諭)

  6. Singer T, Seymour B, O'Doherty J et al.(2004)Empathy for pain involves the affective but not sensory components of pain. Science 303 ; 1157-1162.

  7. 稲垣諭(2024)くぐり抜けの哲学.講談社.