バウンダリーは誰のため?❶──やさしいがつづかない、ペシミズムは嗤う|稲垣 諭・清田隆之
自分を守り相手を尊重する健康で安全な人間関係に欠かせない、人と人との境界線=「バウンダリー」は、近年ますます耳目を集めている。コミュニケーションとコントロールの関係はどうなっているのか? 自己責任や同調圧力はバウンダリーとどう関わるのか? 文筆・講演まで幅広く活躍する桃山商事代表・清田隆之氏と、話題の新刊『やさしいがつづかない』を上梓した哲学者・稲垣諭氏による、日々の暮らしに埋め込まれた暗黙知を掘り起こす「バウンダリー」対談。まずは前篇「バウンダリーは誰のため?➊──やさしいがつづかない、ペシミズムは嗤う」を公開!
1|やさしいがつづかない? やさしいはつくれる?
清田 自分はジェンダーを中心的なテーマにしている書き手で、「バウンダリー」の問題について考える機会も少なくありません。専門家ではありませんが、ある種の“素人目線”も込みで、少しでもおもしろい話ができたらなっていう思いがありまして。今回、稲垣さんの『やさしいがつづかない』$${^1}$$の話と、自分が見聞きしてきたエピソードを重ね合わせ、2つを接続するような対談ができたらいいなと。
稲垣 僕の専門はドイツ現代哲学の現象学ですが、精神医学・臨床心理学にも長年関わっていて、前任の自治医科大学の経験も含めて脳梗塞で麻痺などを抱えた人のリハビリをサポートするセラピストや精神科医とも仕事をしていました。そういう僕にとっての準専門領域の話も交えながら、清田代表と話題を広げていきたいですね。
清田 稲垣さんのことは共通の知人を介して知りましたが、漠然と「骨太な本を書かれている研究者」というイメージを抱いていました。そんなとき、SNSでふと『やさしいがつづかない』を目にし、そのやわらかい雰囲気に驚かされたんです。タイトルもそうですけど、表紙のイラストもかわいいし、すごく気になって、その瞬間にとりあえずポチっと……
いざ読んでみると、個人的に関心のあったテーマとも重なり、すごく刺激的でした。自分は2022年〜2023年にかけてSPBS(SHIBUYA PUBLISHING & BOOKSELLERS)で「やさしいはつくれる?──自分を知り、善き他者となるための対話型ワークショップ」というタイトルの連続講座を担当しまして、田房永子さん、星野概念さん、永井玲衣さん、小川公代さん、富永京子さん、熊谷晋一郎さんをゲストに招き、対話を通じて「やさしさとは何か」について考えてきたんですね。
最初は「やさしくする余裕がない」とか、「やさしくありたいのに損得勘定に囚われちゃう」とか、そういう個人的な悩みから出発した企画でしたが、次第に能力主義の圧力とか、嫉妬や憎悪を煽るSNSの仕組みとか、そういう社会構造の問題も見えてきまして。「やさしさ」って単に性格や性質の話じゃなくて、知識とか想像力とか、余地や余裕とか、いろんなものが関係してくる問題で、「だとしたら、学びを深めていくことで身につけられるものかも」みたいな考えが生まれ、いろんなゲストに話を伺っていったんです。
そういう経緯があったので、本のタイトルを見たとき「ゲストに呼びたかった……!」と思いましたし、「やさしさ」を根本から考えていくところがとにかく面白くて。バウンダリーを考える今回の対談でも、ぜひ稲垣さんに話を聞いてみたいと思ったんです。
2|ポジティブなのにペシミスト──逆張りの逆張り
清田 この本、「やさしい」が「つづかない」っていうのがいいですよね。「やさしいは大事」とか「誰にでもやさしくしよう」みたいなことは誰もが思うことですが、実際問題とてもむずかしいものだし、大切なのはわかってるけど「つづかない」。でもそこで稲垣さんは、「やさしさはつづかないものだ、しかし……」って、限界を確認・共有した上で話を前に進めていくじゃないですか。そこがとにかくいいなって。
稲垣 「やさしいがつづかない」って、一見、ネガティブなようですが、そこからポジティブなものを引き出せるタイトルだと思ったんです。これは僕の考える「やさしい」の語り方のひとつです。これまで書いてきた本のタイトルも実はこれと似ています。『大丈夫、死ぬには及ばない』$${^2}$$という本も、「死なない」「死にたくない」っていう強い決意じゃなくて、「いろいろあるけど、なんか、死ぬほどではないよな~」って、死の強烈なイメージをどうやったらやわらかな感じにできるかを考えた結果です。次に書いた『絶滅へようこそ』$${^3}$$も、「絶滅」が「ようこそ」なんて絶対ありえないじゃないですか(笑)。そうなんですけど、絶滅を考えた先にウェルカムな場所があるのではないか、みたいなところにいけたらと思って書いたものです。
さらにその前に書いた『壊れながら立ち上がり続ける』$${^4}$$は、我ながら人間の言葉とは思えないくらいむずかしい本ですけど、「壊れてはいても少しずつなら進んでいける」みたいなメッセージを含んでいて、今回の本もそういう方針でいこうと。「やさしいをつくる」の手前にあるものを探り、「やさしいをつくる」方向に行けることを出発点にしました。
清田 道徳とか性善説とかポジティブシンキングとか、そういうものとも異なるアプローチですよね。
稲垣 そうなんです。タイトルは担当編集者からの提案がきっかけでした。「やさしい」がつづかなくて悩んでるっていう相談が編集者からあって、僕自身はまったく悩んだことがなかったので驚きました。「やさしい」がつづかないなんてあたりまえだと思っていたからです。でも、そこで悩む人がいるとしたら、リフレーミングっていうか、フレームを変えるところからスタートすればやさしくなれるんじゃないかって。
これは人が変化するさいの鉄則のようなものですが、「やさしくなりなさい」と言われるとできない、でも「やさしくなくてもいいんだよ」と言われるとやさしくなれる、みたいな。勉強しろって言われてもしないし、変われって言われても変われないわけで。そもそも変わらなくていいし、環境をちょっと変えたら変わっちゃったくらいが一番いい。だからここを出発点にしようって。タイトルをもらって、これですぐにでも書けると思いました。
もともと僕自身が、陰キャというかネガティブな人間なので、ポジティブなものはちょっと苦手だし、逆張りじゃないですけど、ネガティブなところから入ってみようと。
清田 今って、やさしくしたって利用されるだけだとか、やさしくすると胡散臭いとか言われかねない時代だと感じるんですね。それよりエッジの立った思考とか極端な言説とか、そっちの方が受ける。「露悪的なキャラクターの人がたまに見せるやさしさ」とかのほうがSNS映えもしますし(笑)。だから、やさしさとか正しさみたいなポジティブなものって、とかく冷笑的な態度で否定されることが多いけど、稲垣さんの場合はさらに先を行く「逆張りの逆張り」って感じがしていいですよね。限界を認めたうえで始める姿勢とかもそうですが、一周回ってポジティブ寄りになる感じが大事だなと思って。
稲垣 だから、僕としては一貫して「ポジティブ・ペシミズム」を推奨しているんですよね。ペシミズム(悲観主義)なんだけどポジティブ。絶望した世界で前を向くみたいな。
清田 すごい言葉! 初めて聞きました(笑)。
3|くつろがないモラル、あきらめマインド──アドルノも、野坂昭如も…
稲垣 テオドール・アドルノというドイツ系ユダヤ人の哲学者がいます。彼は迫害されてきたユダヤ民族の歴史を背負いながら、「自分の家にいながら、くつろがないでいることがモラルの一部である」というんです$${^5}$$。これってその通りだなと僕は思ってます。「家でくつろがない」って、ふつうつらいじゃないですか。家ではそりゃくつろぎたいよって誰でも思う。でもこの現代社会では「家で完全にくつろぐこと」が難しくなっている。
情報化された社会では、いつでも世界の悲惨な現状などが目や耳に入ってきます。だから、ここではむしろ「くつろがないでいること」さえもポジティブに受け入れられる可能性を考えたほうがいい、そう思っています。ここらへんは、バウンダリー問題と関係しそうですよね。家にいてまで疲れたくないというか。でも、ポジティブ・ペシミズムもそうですが、ペシミズムは全然ポジティブじゃないはずなのに、なんかそこに小さな希望みたいなものが見出せるかどうか。やさしいの継続は無理だけど、でも咄嗟ならやさしくできてしまう、そういう経験を大切にしたいんです。
この辺りは僕自身の生い立ちにも関係していて、いじめとか厳しい親のしつけを経験しながら身につけたものです。小さい頃から、あきらめに近いマインドのまま、でもポジティブに生きていける感覚を養ってきたのかもしれません。
清田 野坂昭如$${^6}$$っていう作家がいるじゃないですか。大学生の頃に町田康の小説にハマって、町田康が文体を参考にしたことを知って野坂作品も読むようになって、卒論は野坂昭如をテーマにしたんです。ジブリアニメの『火垂るの墓』の原作者とか、たまにテレビに出る酔っ払いのおじさんのイメージだったんですけど、小説を読んだら面白くて。そこからインタビューも読んだりして、野坂昭如という人に魅かれていきました。
シャイな性格ゆえなのか、単なる天の邪鬼なのか、例えば「焼跡闇市派」とか名乗っているけど、実は闇市のことはよく知らないだとか、文体だって特徴を出すために織田作之助をまねしただけとか、そういうことばっかり言っていて、発言からは本心がたどりにくい人なんですね。でもその小説からは、人間へのあきらめっていうか、嘘くさいものへの反発心みたいなものが伝わってきて、そういうところが面白いなと。野坂は思春期で終戦を迎えていて、さんざん天皇陛下万歳とか鬼畜米英とか言ってた大人たちが、ある日を境に「ハロー、ウェルカム!」みたいにころっと転向して、いったいなんなんだと思ったらしいんですね。
そこから、人間なんて所詮そんなもので、腹が減れば人の食い物も奪うし、みんな自分勝手でやさしくもないって、人間に見切りをつけていく。ただそれは、ただの悲観とはちょっと違っていて、人間なんてそんなもんだっていう、あきらめマインドなんですよね。
野坂の小説では、気取った金持ちとか偉そうな人はみんなひどい目に遭って死んでいくんです(笑)。かといって不遇な生活をしてる人が救われるわけでもなく、だいたいみんな死ぬんですけど(笑)。ただ、気取ったやつらはひどい死に方をして、悲運な人生を送らざるを得なかった人には美しい死が訪れる。『火垂るの墓』とかもそうですが、そこにある「生は不平等だけど死は平等」みたいな感覚が野坂文学の特徴なんですよね。
人間って限界もあるし、別に美しくもないけど、だからこそ……みたいなところから発想するポジティブ・ペシミズムは、野坂昭如にも通底しているような気がしました。とりあえず悲観はしない、限界を知って、じゃあどうしようかと考える──自分にとっても、そっちの方がリアルで救いもある考え方だなって感じます。
4|嗤う魂のペシミズム──坂口安吾も、近所のおじさんも…
稲垣 今のお話を聞いていると、『「くぐり抜け」の哲学』$${^7}$$という本の中で論じたのですが、坂口安吾を連想させますよね。安吾は『堕落論』で、戦後の大変動のなかでの人間のしぶとさにふれていて、爆撃機が飛んできてあわてて防空壕に隠れたけど爆撃してこなかったとき、たまたま隣にいた女性が「今日は爆撃機が来なくて寂しい」みたいなことを言う、そこに人間のしぶとさや可笑しさを見るんです。ペシミズムって、それを嗤う人と美を感じる人とがいて、坂口安吾は前者、後者の代表が太宰治ですね。で、僕は安吾にシンパシーを感じるんです。
ポジティブ・ペシミズムは治療とも関係があって、脳梗塞でちょっと麻痺が残っても嗤える人はどうも予後が良かったりするらしい。これから先の人生を考えると絶望してしまいそうな場面で自分を嗤えるってすごいですよね。僕が知る名セラピストにはそういう感性を大切にする方が多くて、ある患者さんの中の「魂のしぶとさ」の場所を見つけて、そこから治療に入っていけばいいと。
清田 魂のしぶとさって、いいですね。
稲垣 「死ぬには及ばない」っていう感覚を持てるかどうかも、たぶん魂のしぶとさを身につけることに通じてるんです。これは『大丈夫、死ぬには及ばない』でも紹介したエピソードでだいぶ昔の話なのですが、大学で教えていると、なかにはリストカットをしている学生もいて、ふつうだったら深刻な顔で「やめたほうがいいよ」「自分を大切にしないと」みたいに言うじゃないですか。でも本人はそんなのわかってるわけで。だから僕は「もうちょっときれいに切ったりできないの?」とか聞いちゃうんですけど、そうすると、「先生、わかってないな」とその学生がしたり顔で「傷ってドラマなんだよ」と教えてくれるんです。すっと一筋切ったときに血が腕を伝って流れ落ちていくところまでがリストカットなのに、きれいに同じ場所を切っていたら皮膚が硬くなってそれができなくなっちゃうんだと。
本当にいろいろ教えてくれるんです。その時の表情とか語り口を見ていると、苦しいはずなのですけど、その中に「しぶとさ」や「ずぶとさ」に似た「強さ」みたいなものも芽生えているなと思ったりします。しかもマッチョな強さじゃなくて、自分で次に進んでいける強さみたいなもの。
清田 なるほど……同情したりシリアスな雰囲気になったりしそうな場面ですが、そこまでがリスカのドラマなのだという視点があるわけですね。すごい話だ……
稲垣 ただ、これはけっこう昔の話なんです。前任校の自治医科大学では、精神科や学生サポートセンターと連携して、何かあったらすぐに対応できる体制を整えていましたが、当時のような距離感で学生と接するのは、今はだんだんむずかしくなってきました。教員としてリスク管理の要請から強くバウンダリーを引くようになってきているんだと思います。聞いてもらいたい声は今でもあると思うんですけどね……
清田 僕の実家は東京の下町にある商店街の電器屋で、ご近所さんとかお客さんとか、いろんな人が出入りするような環境でした。小学生のときはちょうどバブル期で、近所に羽振りのいいおじさんが何人かいて、俺ら近所の子どもにピカピカのマウンテンバイクを買ってくれたり、週末に寿司や焼き肉へ連れて行ってくれたり、謎にいい思いをしていて(笑)。こないだ実家に帰ったとき、両親と「あのおじさんたち、元気かな?」みたいな話になったんですが、みんな結構ハードな老後を送っていて……
毎週のように子どもたちを浅草の高級寿司に連れて行ってくれた社長は、バブル崩壊とともに会社が傾き、夜逃げをして行方がわからなくなったみたいだし、マウンテンバイクをくれたおじさんは、お金がなくなって酒浸りになり、あるとき泥酔しながら住んでいたアパートに火をつけちゃったらしいんです。それで逮捕されて、長い付き合いのあったうちのお父さんに刑務所から手紙が届いた。さぞ落ち込んでいるだろうと思い、色々差し入れとか持って面会に行ったら、「3万円くれ」って現金をせびられたらしく……父も「しぶといやつだ」ってあきれてました(笑)。そのおじさんも最期は孤独に死んだって話を聞いて、シリアスな気持ちにはなったんですけど、絶望的な状況で金をせびってくるしぶとさ自体には、思わず人間らしさを感じてしまったというか(笑)。
5|これでいいのかバウンダリー?──液状化と孤立化
清田 ちょっとバウンダリーから離れちゃったんで話を戻しましょうか……
稲垣 いやいや、たぶんバウンダリーにつながる話ですよ。ひとつはセルフコントロールという話、もうひとつはコミュニティ問題とか伝統的家族観なんかも関係していて。
僕が子どものときは、地域のお祭り以外にも人が集まる機会があって、コミュニティでは互いに顔を見知っていたし、雷おやじ(※死語)なんかもいましたよね。ちょっと鬱陶しい存在だけど、共同体の維持においては機能していた。今はそういった共同体の紐帯が弱まって、孤立した個人が増えているんですよね。
社会学者のジグムント・バウマンは『リキッド・モダニティ』$${^8}$$のなかで、確固たる境界線が溶けて共同体が液状化するなかで、どうやって個人として生きていくかという課題が浮上してきたのが現代社会だといいます。今の社会って、帰属できる共同体が少なくなって孤独死だって増える一方です。それなのにさらに自分で稼いで生活を回してセルフコントロールできる個人であることの重要さが求められていて、僕たちはその狭間に置かれてるんですよね。
清田 自立と自律が求められる個人というか……他者に頼る行為がときに「自他境界が曖昧」みたいな言葉で表現されるようになったこととも関係してそうですね。
稲垣 たぶんそうですよね。でも、それを自他境界というバウンダリー問題にしていいのかっていう疑問もあって。「自己と他人の境界をきっちり自分で引けばいいんです、それが引けていないのはあなたのコントロールやテクニックの問題なんだ」と、自己啓発的な文脈ではよくいわれると思うんです。でもそれこそ、セルフコントロールできる領域を増やせという社会の「個人化」の要請に基づくものですし、結局は、線引きがしっかりできない個人の問題なんだと自己責任化される。しかもその他方で、SNSには共感ネタがあふれていますよね。そういう情報に触れる中で、他人の苦しみや気持ちのわかる人は増えていて、もしかするとやさしさも増えているかもしれない。それなのに、自分の領域はきっちり区分けしなさいっていう、共感過剰と自己責任の苦しみのジレンマがありそうです……
清田 僕が個人(individual)という概念をちゃんと知ったのって、平野啓一郎さんの『私とは何か』$${^9}$$を読んだときで。“individual”はそれ以上分割できない最小単位という意味で、そういう存在が個人だと。そのうえで個人間に境界線が引かれてて、責任とかセルフコントロールとか、自分のことは自分で決めるとか、他者の領域を犯してはいけない、みたいな意味での個人主義がある。
恋バナ文脈でジェンダーの問題に興味を持つようになった自分からすると、当初、個人という概念は希望的なものに映りました。恋愛のいざこざには自他の境界線──これは「人権」とも関わるものだと思いますが、そういうものを踏み越える暴力的なコミュニケーションが横行している。自分自身にとっても、特にうちのお母さんは過干渉気味で、子どもの頃から境界線を尊重してもらった経験が少なかったので、個人っていいな、大事だなってあこがれもあって。
でも、個人を巡る問題は世界的に起きてるわけですよね。共同体のつながりのなかで人は存在してたのに、その共同体が液状化すると個人の寂しさとか孤立感が増していく。さらに新自由主義的な風潮が強まり、自己責任も激化して、個人はますます苦しくなっていく。以前は希望の概念だった「個人」が苦しさの源泉でもあることを知り、これをどう捉えたらいいんだろうって……
稲垣 共同体と個人のどちらかだけがいいって話ではないんですよね。個人になるって共同体から自由になることで、若い人たちが都市部に行きたくなるのも、地方より制約がなくて自由になれるからですよね。ただ、個人には自由を享受できる喜びもあるけど、自由と引き換えに不安を抱えてしまう。その逆に、共同体は不自由だけど安心を与えてくれるんですよね。
要はバランスが重要ということです。暴力的な共同体のなかで抑圧されてきた人は大勢いて、そこから逃れて自由になるのは正しい選択だけど、行き過ぎると不安が高まってしまう。最近は「もう一回、共同体・コミュニティを考えよう」みたいなことも語られるようになっていて、新しい共同体、安心できる場所が欲しいということで、若い人たちに限らず「推し活」なんかもそういう文脈のなかで誕生しているのかなって。
清田 わずらわしい家族や地元からは逃れたいけど、共同体がなくなると不安になっちゃうのも、揺り戻しですよね。たしかにバランスが重要になってくる局面にいる気はします。
稲垣 バウンダリー問題が浮上してきているのも、きっと同じ文脈ですよね。自由のない共同体から外に出ると、自分はこうなんだっていう枠が問われる、だからバウンダリーが重要になる。でも、強すぎるバウンダリーは寂しさと不安と孤独につながってしまう。
6|ケアと内面のつぶやき──ルソーと内面の誕生
稲垣 昨今ケアの話をよく聞くようになって、ケアから共同体の形を考えてもいいんじゃないかと思うようになっています。ケアからのコミュニティづくりについて、男性は女性から学ぶべきですよね。
清田 本当にそう思います。人間関係のメンテナンスとか、男女でスキルや経験値が全然違うなって。
稲垣 女性たちはコミュニティを築くために日々ケアと調整を繰り返しているのに、男性の多くは一切そういうことをしないから、年を取ってからコミュニティの作り方がわからなくて孤立してしまう。
清田 自分が所属している「桃山商事」のPodcast$${^{10}}$$でもそういう話がよく出ます。以前「グループLINE」というテーマを扱ったときも、男だけのグループLINEがいかに盛り上がらないかってエピソードがたくさん出てきて。
女性グループだと関係のメンテナンスとか、情報共有とか、ケアの交換があって、今回は誰が担当して次は自分がやるみたいな、絶妙な役割分担のバランスを取り合っているのに、男同士だとケアとか気遣いとかメンテナンスの発想自体がなくて、キャラクターや役割も固定しちゃってて、コミュニティが活性化しない。用があればみんな参加するけど、返事は短いし、会ってもお決まりのネタや昔話で盛り上がるだけで、互いの近況とか身の上話をそんなにしなかったり。それが必ずしも悪いという話ではありませんが、長い付き合いであっても意外とお互いのこと知らないみたいなことが、男同士の関係には結構見られるんです。
ただ、そんなグループに1人でも女性が参加すると、急にコミュニケーションが活性化する事例が少なからずある。これだと単なるケア役割の押し付けですが……男同士の関係にもこういったスキルを輸入すべく、我々が女性たちに学ぶものは多いなと感じます。
稲垣 今年度大学で行ってきた授業のテーマは「友愛」なのですが、友情は男同士にしか成立しないっていう、ひどすぎる哲学史があることがわかってきました。アリストテレスは、友というのは男だけ、しかも政治的な公共の場に限定され、弱みを見せるのはいけない、とまで言っています$${^{11}}$$。相手に迷惑をかけたり、弱いところをケアしてもらうなんて、対等の立場の男としてはあってはいけないと。かれこれ2500年前から根深く続く歴史があるんです。
清田 ひええ、そんなに昔からあったんですね。
稲垣 ところが18世紀にジャン=ジャック・ルソーが登場して、状況は一変し始めます。ルソーは攻撃されたらすぐ逃げるような、過敏な弱い男性でした。絶対に共感して、全肯定してくれないと許さない、みたいな。そのルソーが女性たちの友情の話を書いた小説『新エロイーズ』$${^{12}}$$がベストセラーになって、ヨーロッパ各地の人たちがそれを読んで、“主人公の女性の苦しみがわかる”という形で「内面化」が起こるんです。私も同じような内面をもっているんだと。人権が生まれて拷問がなくなったのもこの時代で、内面性と共感が拡張していった頃と同期しているのは偶然ではないし、自由を求めた共同体からの離脱が始まるのもこの時代です。
ちなみに、世界で初のセレブ、つまり彼の業績などは全然知らないけど名前だけは誰もが知っているという意味でのセレブになったルソーが、新聞記者に追い回されて、とにかく孤独になりたくて、いかに自分が苦しいかを書いた最後の著作が『孤独な散歩者の夢想』$${^{13}}$$です。
清田 共感の話を書いてきた人が、最後に求めたのが孤独だった……というのは、なんだか皮肉めいた話ですね。傷や感情──つまり「内面」の話をしない男性たちの傾向は自分の取材経験からも感じますが、アリストテレスとかプラトンとかも、そういう内面の話をしなかったんですかね?
稲垣 古代ギリシャ研究者にも聞いたけど、どうやらないらしいです。語った内容で口論になることはあるんですけど、「彼はこう言ったが、私はそのとき傷ついていた」みたいな内面の記述はたしかに見当たらない。
ルソーが活躍した18世紀以降を経て、近年ではSNSが誕生して内面のつぶやきが大量にあふれる時代に突入しました。で、僕たちはまたそれをインストールしていって、他者の苦しみなのか自分の苦しみなのか、ちょっとわからなくなってもいます。あの人が怒ってるように私も怒るようになっていく……みたいに。
清田 そうか。たしかにそれはそれで疲れますよね。
稲垣 SNSで誰かが怒られてると、こっちまで怒られてる気持ちになるじゃないですか。誰かが内面の苦しみを記述することで、それが自分にも思い当たるとわかって、次第に自分も苦しくなる。そう考えると、現在バウンダリーは、まさに揺らいでいるとは言えるのだと思います。しかもテクノロジーや小説などのコンテンツによって私たちに大量の内面の言葉が流入するという、こうしたことの歴史自体が人類にとってまだまだ浅い、ということでもあるのかもしれないですね。
2025年12月10日・ルノアール水道橋西口店
構成=藤井裕二|金剛出版
対談後篇はこちらから!
稲垣 諭(いながき・さとし)

哲学者。自治医科大学教授を経て、現在、東洋大学文学部哲学科教授。専門は現象学、環境哲学、リハビリテーションの科学哲学。
主著|『衝動の現象学──フッサール現象学における衝動および感情の位置づけ』(知泉書館[2007])、『リハビリテーションの哲学あるいは哲学のリハビリテーション』(春風社[2012])、『大丈夫、死ぬには及ばない──今、大学生に何が起きているのか』(学芸みらい社[2015])、『壊れながら立ち上がり続ける──個の変容の哲学』(青土社[2018])、『絶滅へようこそ──「終わり」からはじめる哲学入門』(晶文社[2022])、『やさしいがつづかない』(サンマーク出版[2025])
researchmap:https://researchmap.jp/read0140115
X:https://x.com/inaphenomeneuro
最新刊
清田隆之(きよた・たかゆき)

文筆業、「桃山商事」代表。恋愛とジェンダーの問題を中心に執筆活動を展開。桃山商事としての著作に『モテとか愛され以外の恋愛のすべて』(文庫ぎんが堂[2019])、共著に『大学1年生の歩き方──先輩たちが教える転ばぬ先の12のステップ』(集英社[2023])。
主著|『よかれと思ってやったのに──男たちの「失敗学」入門』(晶文社[2019])、『自慢話でも武勇伝でもない「一般男性」の話から見えた生きづらさと男らしさのこと』(扶桑社[2021])、『さよなら、俺たち』(スタンド・ブックス[2020])、『戻れないけど、生きるのだ──男らしさのゆくえ』(太田出版[2024])
X:https://x.com/momoyama_radio
最新刊
脚注
稲垣諭(2025)やさしいがつづかない.サンマーク出版.
稲垣諭(2015)大丈夫、死ぬには及ばない──今、大学生に何が起きているのか.学芸みらい社.
稲垣諭(2022)絶滅へようこそ──「終わり」からはじめる哲学入門.晶文社.
稲垣諭(2018)壊れながら立ち上がり続ける──個の変容の哲学.青土社.
テーオドル・W・アドルノ[三光長治=訳](2009)ミニマ・モラリア[新装版]──傷ついた生活裡の省察.法政大学出版局.
野坂昭如(のさか・あきゆき) 1930~2015年。小説家、歌手、作詞家、政治家。代表作に『エロ事師たち』(1963年)、『火垂るの墓』(1967年/スタジオジブリ制作、高畑勲監督によりアニメーション映画として1988年劇場公開)、『アメリカひじき』(1967年/直木賞受賞)、『骨餓身峠死人葛』(1969年)など)。
稲垣諭(2024)「くぐり抜け」の哲学.講談社.
ジグムント・バウマン[森田典正=訳](2001)リキッド・モダニティ──液状化する社会.大月書店.
平野啓一郎(2012)私とは何か──「個人」から「分人」へ.講談社[講談社現代新書].
桃山商事Podcast(https://linktr.ee/momoyamashoji)
アリストテレス[渡辺邦夫・立花幸司=訳](2015-2016)ニコマコス倫理学[上・下].光文社[光文社古典新訳文庫].
ジャン=ジャック・ルソー[松本勤=訳](2025)新エロイーズ[上・下].白水社
ジャン=ジャック・ルソー[永田千奈=訳](2012)孤独な散歩者の夢想.光文社[光文社古典新訳文庫].
