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連載:島の心理臨床――その、しま模様 第1回 小さな島と大きな島の心理臨床(九州大学大学院人間環境学研究院:佐々木玲仁)#島の心理臨床

本連載では,島で心理支援に取り組む実践家たちに,それぞれの現場から見える実践や支援について綴っていただきます。コーディネーターは津山紀彦氏です。島という固有の環境における心理臨床を起点に,心理臨床実践そのもののあり方や,島・地方と都市との格差についても問い直していきます。第1回は,佐々木玲仁氏による寄稿です。

周囲を水域に囲まれた,一定程度の面積をもつ陸地のことを島と呼ぶ。定義はさまざまあるだろうが,まあ聞いてほしい。


この島には一定以上の面積があって,ある程度以上の平らな地形の場所があり,人が住んでいるとしよう。人がある程度以上に人数になればそこは町になる。その町はある程度大きくなると,ますます周囲から人を集めてどんどん大きくなっていく。

ある面積に住んでいる人の数はその面積に均等に散らばっているわけではなく,必ずその分布に濃い薄いができる。その濃いところを「町」と呼ぶ,といってもよい。この条件は,島でも島でなくとも変わらない。その中で,人が住んでいない領域を通過するときに,海を横切らないでいくことができないかどうかが,島とそうでないところを分けている。


前提として明らかだと思うけれども,この文章の中では無人島のことはおいておいています。有人島に限った話です。心理臨床の話なので。無人島に心理臨床が必要だとしたら,それはまた別の次元の話になるでしょう。


「人がある程度まとまって住んでいるところがあって,その周囲に人がまとまっては住んでいないところがある」という条件で,まとまって住んでいないところが山でも森でも平原でも,全方位海でない限りそこは島とは呼ばれない。そのかわりに「陸の孤島」という言い方をされることもある。また,一方が海に面していて他方は陸続きだが,陸には交通手段がなくて海からしか出入りできない場所は実質的に島といえるけれどもとりあえずここは島とは呼ばれないだろう。

今回のシリーズは,その島についての話である。そして,その島で心理臨床を行うことについて考えるということが全体のテーマになる。


このような話をするときに使われがちな言葉に,「離島」がある。これはわかりやすい。離島といわれるとイメージが湧くし,どういうところかの意味の共有はたやすいだろう。しかしちょっと立ち止まって考えてみると,この言葉にいろいろ疑問が湧いてくる。

「離島」つまりは離れた島ということだが,この「離れた」というのはどこから見てのことなのだろうか。まあこれは言うまでもなく,島の側ではない。島の反対側,ここでは仮に「本土」と呼んでおこう。この「本土」の側から離れて見えるのが「離島」だと思ってよいだろう。この「離島」と「本土」は,海を挟んだそれぞれ両側に人が住んでいて,そのうち一方の自分が「本土」側だと思っている人がもう一方を離れた島だと思っているという状況で成り立っている。

多くの場合,「本土」の人が自分の側が本土だと思っているのは,そこが都会というか大都市というか,「街」と陸続きであるということを,意識していてもしていなくても前提としているように私には思える。

ここで視点を,一個人に転じてみよう。そして,片方に個人を置き,もう片方に大都市を置いてみよう。この個人と大都市の距離感は,当然だが人によってさまざまだろう。その個人が大都市に住んでいる。その個人は大都市には住んでいないが大都市と陸続きのところに住んでいる。そして,大都市に住んでおらず,大都市へのアクセスには必ず海の横断が含まれる。これは空路でも同じこと。


ややこしいのは島と本土に「橋」がかかっている場合だが,この場合は陸続きと見なしましょう。


このように考えて,私たちの住んでいる地面を,かなり乱暴に「大都市」と「地方」と「島」の三つに分けてみる。おそらくこの分類は,大都市に住んでいれば意識に上らず,地方にいると大都市との関係が意識に上るが,島との関係はそれに比べると考えに上らない。そして,島を離島と見なしているのは大都市と地方の側の人だといえるだろう。

ここからがようやく本題である。

今この文章で,あるいはこのシリーズで考えたいのは,ここでいう「島で心理臨床を行う」のはどういうことなのか,そこで何が起きるのか,そしてこれを考えることで我々はどのような知見を得ることができるのか,ということだ。

人がその住んでいる場所の地形や位置づけに影響を受ける以上,人と人とが関わる心理臨床もまた必然的に,その地形や位置づけに影響を受ける。一方で,心理臨床を行なっていく上で大切にされている前提や決めごとや規則などは全国一律で作られており,それは大都市の人が大都市の人のものの見方に基づいて取り決めていて,運用されている。大都市の論理で。

そして,残酷な事実として,大都市の人は地方や島に興味がない。すくなくとも大切な規則を決めるときに,地方や島の論理を大都市の論理より優先させることは決してない程度には。さらに,住んでいる人の数は,圧倒的に大都会の方が多い。これは大都会の定義でもある。

大都市と地方と島という観点から考えてみると,心理臨床の運用として大都市では当たり前に成立する,あるいは意識したり心がけの問題として扱えば済むことが,島では当たり前どころか,成立させること自体が困難,あるいは不可能であるということがたくさんあることに気づく。

「そんなこと言っても,どこでやっても心理臨床は心理臨床でしょう」と言えるのは,強い側の言い分でしかない。

それでいいのか?と思う。

私が思うに,ともかく一人ひとりの,多くの場合「心」のこと(しかしそれで収まらないことも多い)を大切に考えて,最も適したやり方で,困っている人の役に立つようさまざまな手だてをとるのが心理臨床というものではなかったっけ。少なくとも私はそう思ってこの分野にやってきた。

その一人ひとりベースの,とりあえず「援助」と言っておくそれを行うのに住んでいる場所によってできることが違うのであれば,それはハナから心理臨床の負けではないか。そしてそれをしかたないこととして見ないふりをするのも,あきらめるのも,もっと負けではないか。

負け前提で仕事をしていくのはいかにも残念。とても残念。それを冷笑するのもまた残念。大都市優先は心理臨床だけで起きてることじゃない,と言い抜けしようとするのもさらに重ねて残念。

島も地方も大都市も,全部入りで考えて成立するような状況を作り出さないと,「一人ひとりを大切にする」ということは標榜してはいけないのではないかと思う。それを実現するために,まずは島のことを意識しましょう,というのが私からの,そしてこのシリーズを執筆する人からのご提案である。


読者は薄々気づいていることと思うけれど,ここで論じられる「島」の話のうちのかなりの部分は,「地方」の状況にも当てはまる。島を考えていくことは,地方を考えていくことの役に大いに立っていくのではないだろうか。

そして最後に考えてほしい。この日本という国もまた,最初の定義によるところの「島」であることを。「本土」と言って島を離れたところだと見なしてみたところで,本土の側も島であることには変わりがない。本土は単に,「大きな島」である。だからこのシリーズの目指すところは,「大きな島でも小さな島でも通用する,心理臨床のもっと根本的な理屈を考えましょう,そうするためにまず小さな島の話から始めましょう」ということになる。

島の心理臨床で起きていることを,遠く離れた島のことだからといって意識の外に追いやってしまうと,その機会を逃す。考えれば済むことを逃してしまっても成り立っていくほど,心理臨床もこの社会も余裕のある状況ではない。

まずは島から始めてみよう。


執筆者・コーディネータープロフィール


佐々木玲仁(ささき・れいじ)
九州大学大学院人間環境学研究院・准教授。臨床心理士,公認心理師。臨床心理士としてはこれまで京都と福岡で活動。糸島市では2021年より子どもの居場所運営で活動開始,その後個別相談も始める。専門は風景構成法を始めとする描画法のはずだがさまざまに関心が広がり,さまざまな研究と実践を行なっている。
noteアカウント: https://note.com/sasakireijiyagi
ポータルサイト:ヤギ製作所 https://sasakireijiyagi.com/

津山紀彦(つやま・のりひこ)
小豆島中央病院。臨床心理士・公認心理師。1989年生まれ。2013年香川大学大学院教育学研究科修了。
専門・関心は,ruralな地(島嶼・農村・へき地)における心理臨床。
著書に『心と社会を描く方法――臨床エスノグラフィー序説』(共著・近刊)。