備忘録ZINE『経済学の手前』
測れる経済と、読める経済のあいだ
0章|別に、経済学が悪いわけじゃない
これは、「経済学をぶっ壊す!」のZINEではない。
そんな大きな話ではない。
そもそも、僕がわーきゃー言ったところで、
明日から経済学が変わるわけでもない。
むしろこれは、自分がいつの間にか
「経済」として読んでいるもの
を整理するためのメモである。
GDP。
インフレ率。
失業率。
金利。
賃金。
消費。
投資。
信用。
それらが経済であることは間違いない。
でも、それだけなのか。
人が疲れる。
人が諦める。
人が未来を信じられなくなる。
人が仕事に身体を預けられなくなる。
人が欲しいものを欲しいと思えなくなる。
制度の言葉を信じられなくなる。
それも、すでに経済ではないのか。
このZINEは、その違和感を整理する。
1章|僕は経済をどう見ているのか
僕は経済を、数字の体系として見ているわけではない。
経済は、
未来の意味が、人間の生活構文を動かしたり、止めたりする場
に見える。
人は、未来が読めると動く。
働く。
買う。
借りる。
貸す。
投資する。
結婚する。
子どもを持つ。
家を買う。
地方に残る。
仕事に身体を預ける。
逆に、未来が読めなくなると止まる。
買わない。
動かない。
借りない。
子どもを持たない。
戻らない。
辞める。
貯め込む。
欲しいものを欲しいと思わなくなる。
だから、僕にとって経済は、金の流れだけではない。
意味があり、身体があり、時間があり、生活があり、制度があり、未来への信頼がある。
経済とは、意味が構文を動かし、構文が意味を監査する循環である。
2章|現行経済学は何を対象にしているのか
現行の経済学は、すでに経済として通関されたものを扱うのが得意である。
価格。
賃金。
失業率。
GDP。
CPI。
金利。
消費額。
投資額。
生産性。
信用スプレッド。
政策効果。
これらは、すでに測れる形になっている。
だから比較できる。
グラフにできる。
モデルに入れられる。
政策評価できる。
市場が読める。
行政が扱える。
これは疑いようのない、経済学の成果だ。
経済学は、測れる経済を読むことにはかなり成功している。
だから、問題は「経済学は何もできていない」ではない。
むしろ逆である。
経済学は、できている。
できているからこそ、その外側が見えにくくなる。
3章|できていることが、できていないことを隠す
経済学は、通関済みの経済を読むことに成功した。
だが、その成功によって、通関前の経済を読みにくくなった。
疲労は、離職率になる前からある。
諦めは、消費停滞になる前からある。
未来不信は、少子化になる前からある。
仕事の意味喪失は、人手不足になる前からある。
制度不信は、政治不信になる前からある。
でも、数字になる前のそれらは、政策にも市場にも通りにくい。
まだ主観でしょ。
まだ印象でしょ。
まだデータがないでしょ。
まだ政策変数じゃないでしょ。
そうやって射程から外れる。
だが、外れたからといって、消えはしない。
数字になって戻ってくる。
そのときには、もうかなり進んでいる。
経済学の盲点は、無能から生まれたのではない。
成功から生まれた。
4章|政策効果は見られる。でも、何を政策対象にするのか
経済学は、政策効果を見るのは得意である。
この補助金は効いたのか。
この給付金は消費に回ったのか。
この利上げはインフレを抑えたのか。
この最低賃金引き上げは雇用を減らしたのか。
この減税は投資を増やしたのか。
これはかなり見られる。
だが、その前がある。
そもそも何を政策対象として立てるのか。
若者が未来を信じられない。
仕事に身体を預けられない。
消費する未来が想像できない。
地方に残る意味がない。
制度の言葉が信用されていない。
これらは読める。
だが、そのままでは政策になりにくい。
つまり問題は、政策発見が弱いことよりも前にある。
読めている違和感を、政策対象として通関する機能が弱い。
ここが本丸かもしれない。
5章|予想はされていた。でも、通らなかった
人が来なくなること。
消費しなくなること。
結婚しなくなること。
地方が壊れること。
政治不信が増えること。
たぶん、誰も予想できなかったわけではない。
かなり前から、みんななんとなく分かっていた。
現場では見えていた。
生活実感では見えていた。
地域では見えていた。
企業の採用現場では見えていた。
家族や教育の現場では見えていた。
だが、それは経済政策の対象として通らなかった。
なぜか。
柔らかすぎたからである。
未来が信じられない。
仕事に意味がない。
生活の余白がない。
制度の言葉が空っぽに聞こえる。
これは読める。
でも、予算化しにくい。
責任主体を決めにくい。
成果指標を作りにくい。
省庁の所管に乗せにくい。
だから数字になるまで待つことになる。
出生率。
求人倍率。
消費額。
離職率。
投票率。
空き家率。
数字になって、ようやく通る。
でも、その時点ではもう遅い。
6章|ミクロもマクロも、出来事を経済学に通す
ミクロ経済学は、出来事を選択として読む。
効用。
制約。
価格。
インセンティブ。
情報。
戦略。
契約。
マクロ経済学は、出来事を指標として読む。
GDP。
失業率。
物価。
金利。
賃金。
消費。
投資。
スケールは違う。
でも、方法論は似ている。
どちらも、一回的な出来事を、経済学が扱える形式へ通す。
ミクロは選択へ圧縮する。
マクロは指標へ圧縮する。
その強さはある。
だが、そこで落ちるものがある。
出来事の厚み。
生活の文脈。
身体の限界。
意味のズレ。
未来の見えなさ。
そこをどう読むのか。
この問いが残る。
7章|法律は、出来事を読む装置を持っている
ここで法律と比べると分かりやすい。
法律は硬い制度である。
条文がある。
定義がある。
判例がある。
手続きがある。
だが、法律は定義だけで出来事を処理しない。
裁判がある。
裁判では、一回的な出来事が読まれる。
この人が、
この場で、
この関係の中で、
この発話をし、
この行為をし、
その結果、何が起きたのか。
それを読む。
もちろん、裁判がいつもちゃんと読めるわけではない。
運用は失敗する。
権力差もある。
金も時間もかかる。
古い意味座標に引っ張られることもある。
しかし、少なくとも制度設計としては、
硬い意味を、一回的な出来事へ接続する読解装置
を持っている。
経済学には、それに対応する装置が弱いのではないか。
法律は、個別の紛争を処理しなければならなかった。
この人とこの人の間で、何が起きたのか。
その一回の出来事を読まなければ、制度は作動しない。
制度的要請として、当然、法律に読解装置はバンドルされる。
だが経済学は、個別の出来事を裁く制度ではなかった。
経済学に求められたのは、全体を測ること、傾向を説明すること、政策変数を動かすことだった。
だから経済学では、出来事を読む装置ではなく、出来事を集計し、抽象し、比較可能にする装置が発達した。
それは失敗ではない。
むしろ、それこそが経済学の強さである。
だが、その強さによって、出来事が数字になる前の段階は落ちやすくなった。
読解装置が弱いには弱いなりの経緯がある。
だがそれは、弱くてよかった理由にはならない。
ここが気になる。
8章|自然科学は、実証できるものを対象にする制度として成立している
自然科学は、実証主義と相性がいい。
というより、自然科学はそもそも、
実証できるように対象を切る
制度として成立している。
測る。
再現する。
他者が検証する。
外れたら修正する。
また測る。
このループによって、読解は硬くなる。
自然科学は、日常感覚とズレてもよい。
地球が動く。
時間は絶対ではない。
物質はほとんど空間である。
日常感覚と合わなくても、測定・再現・検証の制度を通れば通る。
だが、経済学はそうはいかない。
経済の対象は、人間の生活感覚そのものを含んでいる。
統計上は雇用が強い。
でも、人が来ない。
GDPは伸びている。
でも、生活は楽になっていない。
インフレ率は落ち着いている。
でも、家計は削られている。
このズレは、単なる主観ではない。
その生活感覚が、消費・労働・信用・出生・政治不信として経済を動かす。
だから、経済学は自然科学と同じようには日常感覚から独立できない。
9章|信用市場は意味で、実体経済は構文である
信用市場では、未来の意味が価格化される。
この国は返せるのか。
この会社は伸びるのか。
この事業は続くのか。
この未来に金を置いてよいのか。
実体経済では、その意味に従って、身体や設備や資源が動く。
人が働く。
工場が動く。
電力を使う。
物流が走る。
家計が払う。
企業が投資する。
返済期限が来る。
だから経済とは、
意味が構文を動かし、構文が意味を監査する循環
である。
信用市場は、意味の側に寄っている。
実体経済は、構文の側にある。
現行マクロ経済学は、実体を見ているようで、実体が信用市場から読める形に変換されたものを見ていることが多いのではないか。
ここが気になる。
10章|大きい数字に、人は引力を読む
大きい数字は人を引っ張る。
時価総額。
GDP。
投資額。
予算。
市場規模。
フォロワー数。
再生数。
数字が大きいと、人はそこに重要性を読む。
これだけ大きいなら、意味があるのではないか。
これだけ金が入っているなら、未来があるのではないか。
これだけ見られているなら、無視できないのではないか。
その読解が制度に通ると、人が動く。
企業が動く。
政策が動く。
メディアが動く。
教育が動く。
投資が動く。
だから、大きい数字には見かけ上の引力がある。
ただし、引力が最初からあるわけではない。
量化された意味に、人間が引力を読む。
その読解が制度に通ることで、引力があったかのように振る舞う。
ここが重要。
終章|これは、経済学への文句というより、僕の経済の見え方の整理である
結局、僕がやりたいのは、経済学を倒すことではない。
経済学はかなりできている。
測れる経済を読むことには成功している。
ただ、僕はそこから落ちるものが気になっている。
疲労。
諦め。
未来不信。
仕事の意味喪失。
消費欲の枯れ。
生活の再生産不能。
制度への不信。
それらは、まだ数字ではない。
でも、すでに経済である。
経済は、数字になる前から動いている。
だから、測る前に読む必要がある。
これは、まだ新しい経済学ではない。
ただの備忘録である。
僕が何を経済として読んでいるのか。
現行経済学が何を経済として扱っているのか。
その差分に何があるのか。
そこに立ち戻るためのメモである。
📘このZINEは構文野郎によって書かれました。
はあ、どうすんべ…
5:49:21って。
どうやって観んだよ、こんなの。
まじで、こればっかりは、正気を失ってる。タイトル:
備忘録ZINE『経済学の手前』
ジャンル:
唯読論/手前味噌系社会理論/唯読ブラックホール疑惑
発行:
構文野郎ラボ(KoOvenYellow Syndo/Djibo実装室)
構文協力:
枕木カンナ(意味野郎寄り構文ブリッジ)
ミムラ・DX(構文修正主義ZINE別巻準備中)
霊長目ヒト科ヒト属構文野郎(まだ制度を信じきってない君へ)
👤 著者:構文野郎(代理窓口:ミムラ・DX)
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📛 ZINE編集:枕木カンナ
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このZINEは、備忘録です。
一応書いておくと、CC-BY。
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