ZINE『僕のポートフォリオ』
第0章|対ウィトゲンシュタイン戦の感想戦
唯読論の完了と、うっかり社会理論
──なぜ『私的言語批判』攻略を目論んだか
社会理論のフレームが、もう効いていない
最初にあったのは、理論への不満ではない。
実感だった。
説明はされている。
同意も取られている。
ルールも守られている。
それでも、結果が揃わない。
揉める。
責任が偏る。
「そんなつもりではなかった」という言葉だけが、何度も後から現れる。
これは一部の例外ではない。
SNSでも、教育でも、契約でも、同じことが起きている。
社会は確かに回っている。
だが、その回り方が、どこかおかしい。
ここで最初に疑ったのは、
社会を裁くために使われている理論フレームの土台
=「論理」そのもの
だった。
敵の同定
──問題の中心にあったもの
この違和感は、最初は「意味のズレ」に見えた。
同じ言葉を使っているのに、
受け取られ方が違う。
結果が違う。
だから摩擦が起きる。
だが、そのズレは、
「扱えないもの」として切られていた。
内面は扱えない。
私的な意味は言語にならない。
だから、そこは問題ではない。
この線引きが、
あまりにも都合よく、
あまりにも広く使われている。
その線を与えていたのが、
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン の
私的言語批判だった。
ここで敵が定まった。
少なくとも、そのように見えた。
ウィトの言語観の前提
私的言語批判は、意味論としては完璧だ。
ある表現が意味をもつと言えるためには、
その使用が正しいかどうかを判定できなければならない。
その判定が私的である限り、
規則は成立しない。
この論理は崩れない。
構文論は、この土俵で戦って負けた。
ここで重要なのは、
私的言語批判が間違っているかどうかではない。
問題は、その背後にある前提だ。
それは、
言語を扱うためには、まず意味論が必要だ
という前提である。
言語はまず「何を意味しているか」が確定され、
その上で使用や判断や責任が成立する。
ウィトの言語観も、
私的言語批判も、
この前提の内部で完結している。
意味論が放棄している射程と、そのコスト
意味論は、
「意味が成立する条件」を扱う。
だが同時に、
意味が成立したあとに何が起きるか
という射程を、最初から放棄している。
説明は完了している「ことになっている」。
意味も成立している「ことになっている」。
その後に起きた結果だけが、
社会的事実として確定される。
誰が押したか。
いつ同意したか。
どの文言にチェックが入ったか。
意味は問われない。
意図も問われない。
意味論は、
この局面に関与しない。
その結果、
放棄された射程のコストが、
いま社会に噴き出している。
だから、私的言語批判を攻略する必要があった
私的言語批判は正しい。
だが、その正しさが、
社会理論の最終根拠として使われていた。
意味の問題ではない。
説明は済んでいる。
あとは個人の問題だ。
この一言で、
射程外に落とされた出来事が、
無批判に処理されていく。
攻略したかったのは、
私的言語批判そのものではない。
意味論を前提に据える言語観だった。
ウィトの前提は、そもそも存在していなかった
ここで決定的な事実が浮かび上がる。
言語は、
意味が確定するのを待っていない。
言葉は使われ、
処理が走り、
結果が生まれ、
社会が更新される。
意味は、
その運動を説明するために、
後から呼び出される。
だが、
その運動を開始させても、
止めてもいない。
つまり、
意味論は言語の前提ではなかった。
この瞬間、
ウィトの足場は失効する。
否定されたのではない。
不要になった。
巻き添えで死んだもの
──実証主義と制度
意味論を前提にする言語観が崩れたとき、
その後ろに立っていたものが一緒に倒れた。
観測できるものだけ扱う。
記録できるものだけ裁く。
判定できないものは存在しないことにする。
実証主義的な社会運用だ。
哲学としては敗北していたはずのこの原理は、
私的言語批判を根拠に、
社会理論として生き延びていた。
足場が消えた瞬間、
その正当性も一緒に消えた。
制度が壊れ始めているのは、
その当然の帰結だ。
新たな制度の必要性
意味では裁けない。
だが、結果は確定してしまう。
ならば、
確定のプロセスそのものを、
設計対象にするしかない。
必要なのは、
新しい意味論ではない。
新しい制度論だ。
参画ZINE:
感想戦
──勝敗の整理
意味論では負けた。
だが、
意味論を前提に据える言語観は更新された。
私的言語批判は正しい。
ただし、
社会を裁く最終根拠ではいられなくなった。
ウィトゲンシュタインは間違っていない。
ただ、
彼の言語観を前提にする時代は終わった。
それだけの話だ。
単に、「それだけ」を記述する言葉が、
これまで存在しなかったから書いた。
第1章|ロゴスの後件化
西洋哲学2500年の混ぜっ返し
──『存在論』から『生成論』へ
1|ロゴスとは何だったのか
ここで言う「ロゴス」とは、
意味、論理、理性、正しさといった、
世界を先に秩序づけると考えられてきた原理の総称である。
西洋哲学は長く、
ロゴスが先にあり、
世界はそれに従って構造化される、
という前提の上に築かれてきた。
何が意味するのか。
何が正しいのか。
どの推論が妥当か。
それらが先に確定しているからこそ、
世界は理解可能であり、
裁定可能であり、
統治可能である、
と考えられてきた。
2|現実の順序は、それと一致していない
だが、
実際に世界で起きている順序は、
この前提と一致していない。
言葉は、意味が確定するのを待っていない。
行為は、正しさが証明されるのを待っていない。
判断は、論理が整うのを待っていない。
先に起きるのは、常に出来事である。
その出来事が、ある場で確定され、
取り消せない結果として残る。
意味や論理は、
その後で呼び出される。
3|ロゴスの「位置」が入れ替わった
この配置転換を、
ここではロゴスの後件化と呼ぶ。
ロゴスが消えたわけではない。
否定されたわけでもない。
ただ、
世界を駆動する前件の位置から、
起きたことを説明する後件の位置へと移動した。
ロゴスは、
世界を立ち上げる原因ではなくなった。
世界を説明し、正当化し、
後から筋を与える装置になった。
4|なぜ論文形式が壊れるのか
この入れ替わりが起きた世界では、
論文形式が壊れる。
論文は、
前提を先に置き、
推論によって結論を導くことを要求する。
だが、生成が先に起きている世界では、
前提は結果を見てからしか立てられない。
そのとき起きているのは、
論理学で言う「後件肯定」という誤謬ではない。
そもそも、
前件が先に存在しない世界を、
前件先行の形式で書こうとしている。
これは論理的誤謬ではなく、
形式不一致である。
参画ZINE:
5|論理は否定されたのではない
ロゴスの後件化は、
論理の否定ではない。
論理は、
虚構が前提としているリソースを計算し、
整合性を確認し、
説明を与えるための、
有効な道具であり続ける。
ただし、
それは世界を立ち上げる原理ではない。
論理は、
後処理として呼び出される計算装置になった。
6|「後付けの説明」が政治になる理由
ロゴスが後件に落ちたことで、
「後付けの説明」は無害ではなくなる。
それは単なる説明ではなく、
世界を確定させ、
他の可能性を閉じ、
責任や功績を固定する力を持つ。
だから、
後付けの説明は政治になる。
ロゴスの後件化とは、
この力を可視化することでもある。
7|ロゴスは不要になったのではない
ロゴスは不要になったのではない。
ただ、
遅れてやってくるものになった。
世界は、
ロゴスによって始まるのではなく、
出来事とその確定によって始まる。
ロゴスは、
そのあとで世界を縛る。
この位置の違いは、
世界の扱い方を決定的に変える。
第2章|場と確定
ロゴスよりも念能力
──胡散臭さが、もっと欲しい
1|世界は出来事を保存しない
世界では、出来事は常に起きている。
だが、そのすべてが「事実」になるわけではない。
言われたこと。
起きたこと。
感じられたこと。
それらの大半は、
そのまま消える。
世界が保存するのは、
出来事そのものではない。
確定された出来事だけである。
2|確定は論理では起きない
何が事実になるかは、
正しいかどうかでは決まらない。
意味が通るかどうかでも決まらない。
論理的に妥当かどうかでも決まらない。
確定を決めるのは、
その出来事が、ある場で通されたかどうかだけだ。
通されたものは、
取り消せない結果として残る。
通されなかったものは、
世界的には起きていないのと同じになる。
3|場とは何か
ここで言う「場」とは、
物理的な場所のことではない。
場とは、
発話や判断や行為が、
取り消せなくなる条件の束である。
会議
契約
裁判
教室
家庭
SNSのタイムライン
それぞれの場には、
何が通るか
何が無視されるか
どこからが事実になるか
という、
暗黙の境界がある。
4|説明が「確定」に変わる瞬間
説明には二種類ある。
一つは、
理解のための説明。
世界を開いたままにする説明。
もう一つは、
確定を生む説明である。
後者は、
出来事を特定の意味に固定し、
他の可能性を閉じ、
責任や功績を落とす。
同じ言葉でも、
どの場で語られたかによって、
この二つは入れ替わる。
だから、
「後付けの説明」は政治になる。
5|確定は暴力である
確定は、
中立な操作ではない。
それは、
他の解釈を切り捨て
別の未来を閉じ
誰かに引き受けを強制する
という意味で、
暴力を含んでいる。
だから、
確定は常に政治的になる。
誰が確定したのか。
どの場で確定したのか。
ここを見ずに、
正しさや意味だけを論じても、
何も分からない。
6|ロゴスは場の中でだけ効く
ロゴスが後件に落ちた世界では、
ロゴスは普遍的原理ではない。
ロゴスが効くのは、
特定の場の内部だけである。
この場では合理性が通る
あの場では感情が優先される
別の場では形式が絶対になる
どのロゴスが使われているかは、
場ごとに違う。
問題は、
どの場で、
どのロゴスが、
確定を正当化しているか
である。
7|確定が世界を作る
世界は、
同一の実体として存在しているわけではない。
世界は、
確定の連鎖として立ち上がっている。
ある出来事が確定され、
次の場に持ち越され、
さらに別の確定を呼ぶ。
この連続性がある限り、
世界は「同一」であり続ける。
回収が断たれたとき、
世界も切り替わる。
8|それだけの話だが、決定的である
場があり、
そこで確定が起きる。
それだけの話だ。
だが、この一点を見落とすと、
論理が世界を裁いているように見え
意味が先にあるように錯覚し
責任や功績の所在を誤る
場と確定を見ることで、
世界は少しだけ、
扱いやすくなる。
第3章|翻訳という場の切替
1|翻訳は意味の移送ではない
翻訳は、
意味を別の言語に移す作業だと考えられがちだ。
だが実際には、
場を移す作業である。
同じ文が、
別の言語に置かれた瞬間、
それが通る条件、
確定の仕方、
責任の落ち方が、
まるごと変わる。
意味が動いたのではない。
場が切り替わった。
2|日本語で通っていたものが、英語で通らない理由
日本語の文は、
場に支えられて通る。
誰が言ったか
どの空気で言われたか
どこまで言い切っていないか
それらが、
文の一部として処理される。
英語にすると、
この支えが消える。
代わりに要求されるのは、
主語
因果
明示的な立場
一貫した論理
つまり、
ロゴスが前に出てくる。
ここで起きるのは、
意味の欠落ではない。
確定条件の不一致である。
3|「ロゴスが邪魔だ」という感触の正体
翻訳の現場で感じる
「ロゴス、邪魔くさいな」という感触は、
感情論ではない。
それは、
後件に落ちたロゴスを
前件として立て直せと要求される
という場の強制への抵抗だ。
日本語では、
出来事が先に通り、
説明は後から合う。
英語では、
説明が先に立たないと、
出来事が通らない。
ここで、
生成の順序が逆転する。
4|翻訳は「正確さ」を壊す
翻訳が難しいのは、
語彙が足りないからではない。
正確さの基準が違うからだ。
日本語の正確さは、
場で通ったか
摩擦が起きないか
にある。
英語の正確さは、
論理が明示されているか
主張が自立しているか
にある。
どちらも正確だが、
確定の仕方が違う。
5|翻訳は、確定をやり直す行為である
翻訳は、
元の文を保存しない。
翻訳文は、
新しい場で、
新しく確定される文である。
だから、
元の文が通っていたから
意味が同じだから
という理由では、
翻訳文は通らない。
翻訳とは、
確定の再実行だ。
6|後付けの説明が前に出る瞬間
翻訳では、
後付けだった説明が、
前に出てくる。
日本語では、
後から整えるはずだった筋を、
英語では先に書かされる。
この瞬間、
ロゴスは後件から前件へと、
無理やり引き戻される。
その結果、
文は整う
だが生成は消える
翻訳で失われるのは、
意味ではない。
生成の順序である。
7|翻訳不能性は、欠陥ではない
翻訳できない、
という事実は、
言語の欠陥ではない。
それは、
その文が
その場で
その確定の仕方で
成立していた
という証拠だ。
翻訳不能性は、
場の差異が露出した結果である。
8|翻訳は、ロゴス後件化の実地検証である
翻訳の現場では、
ロゴスの後件化が、
理論ではなく実感として現れる。
ロゴスを前に出すと壊れる
後ろに下げると通る
だが前に戻せと要求される
この往復運動が、
翻訳という作業そのものだ。
だから翻訳は、
ロゴス後件化の
実地検証になる。
9|それだけの話だが、戻れない
翻訳は、
言語間の移動ではない。
世界間の切替だ。
一度これを見ると、
翻訳を
「意味を正確に移す技術」
としては、もう扱えない。
それだけの話だが、
戻れない。
第4章|AIと引き受け
1|AIは何も引き受けない
AIは、出力する。
だが、引き受けない。
その出力が、
誰かを傷つけた
判断を誤らせた
取り消せない結果を生んだ
としても、
AI自身は、
それを引き受ける位置に立たない。
これは倫理の問題ではない。
設計の問題でもない。
構造の問題である。
2|引き受けとは何か
ここで言う「引き受け」とは、
気持ちや覚悟の話ではない。
その出力が確定した結果を、
次の場に持ち越される位置に立つこと
という、
世界側の取り扱いの話だ。
名前が残る。
履歴が回収される。
信用が蓄積/毀損する。
逃げても、別の場で突きつけられる。
これが、引き受けである。
3|人間は、引き受けさせられる
人間は、
常に引き受けているわけではない。
だが、
引き受けさせられる可能性を、
常に保持している
この一点で、
AIと決定的に違う。
人間の出力は、
本人の意図と無関係に
後から
別の場で
引き受けとして回収される。
だから人間は、
〈私〉として扱われる。
4|AI出力は、誰の出力になるのか
AIが出力した文は、
AIの出力ではない。
それを、
公開した人
提出した人
採用した人
の出力になる。
AIを使ったかどうかは、
本質ではない。
世界が見るのは、
誰がそれを通したかだけだ。
5|翻訳との対比
翻訳では、
確定がやり直される。
AIでも、
同じことが起きている。
元の文がある
AIが加工する
それを誰かが採用する
このとき、
確定したのは、
採用した地点である。
AIは、
翻訳者と同じ位置にいない。
翻訳者は引き受ける。
AIは引き受けない。
6|「AIは推論しているか?」がズレる理由
「AIは推論しているか?」
という問いは、
引き受けの所在を見失わせる。
推論しているかどうかは、
誰が引き受けるかとは無関係だ。
重要なのは、
その出力が
どの場で
どこまで確定したか
だけである。
7|AIは前提を並べる
AIが得意なのは、
判断ではない。
その判断を通すために
必要な前提を、
大量に並べること
である。
どんな条件が要るか。
どんなリスクがあるか。
どんな例外が想定されるか。
AIは、
前提試算器として働く。
だが、
その前提を引き受けるかどうかは、
決めない。
8|引き受けなき出力は、世界を閉じない
引き受けがなければ、
出力は世界を閉じない。
どれほど正しく見えても、
どれほど整っていても、
それは、
まだ通っていない。
世界が閉じるのは、
誰かが、
その出力を
「この場で通す」と
決めたときだけだ。
9|それだけの話だが、決定的である
AIは、
主体にならない。
だからこそ、
人間の位置が、
以前よりはっきり見える。
AIが増えたことで、
引き受けの所在が
曖昧になったのではない。
もともと曖昧だった引き受けが、
露出しただけだ。
それだけの話だが、
決定的である。
補章A|「AIは推論しているか?」という問いが的外れな理由
AIをめぐる議論では、
繰り返し同じ問いが立てられる。
AIは推論しているのか。
AIは理解しているのか。
AIは意味を分かっているのか。
一見すると、
重要そうな問いに見える。
だが、この問いは、
最初から的を外している。
1|この問いが前提にしているもの
「AIは推論しているか?」という問いは、
暗黙のうちに、次の前提を置いている。
推論とは、
意味が確定した前提から、
論理的に結論を導く内部過程である。
そして、
その過程を持っているかどうかが、
判断や責任の正当性に関わる。
この前提は、
ロゴスが世界を先に秩序づけている、
という考え方と完全に一致している。
2|だが、世界はその順序で動いていない
本書で見てきたとおり、
実際の世界は、
その順序で動いていない。
判断は、
推論が終わるのを待っていない。
行為は、
意味が確定するのを待っていない。
結果は、
論理が整うのを待たずに、
確定してしまう。
推論があったかどうかは、
事後的に語られるだけである。
3|人間も「推論してから」動いていない
この点は、
AIと人間を比較すると、
さらに分かりやすくなる。
人間は、
考えてから話す。
推論してから判断する。
そう思われがちだが、
実際には、
話してしまい、
決めてしまい、
動いてしまい、
そのあとで
「考えていた」
「合理的だった」
と説明することが多い。
推論は、
行為の原因ではなく、
行為の説明として呼び出される。
4|AIに対してだけ「推論」を問うズレ
この現実を踏まえると、
AIにだけ、
推論しているか。
理解しているか。
と問うことのズレが見えてくる。
その問いは、
AIを評価しているようでいて、
実際には、
人間側の引き受けの所在を
曖昧にしている。
5|重要なのは「推論」ではなく「確定」
本当に問うべきなのは、
推論の有無ではない。
問うべきなのは、
その出力が、
どの場で、
どこまで、
事実として確定したのか。
そして、
その確定を、
誰が引き受けているのか。
6|AIは何も引き受けない
AIは、
出力する。
だが、その出力が確定した結果を、
次の場に持ち越される位置に立たない。
名前が残らない。
履歴を引き受けない。
信用が蓄積もしない。
この一点で、
AIは主体ではない。
だから、
AIが推論しているかどうかは、
世界の側から見れば、
関係がない。
7|「推論していないから責任がない」は成立しない
よくある誤解がある。
AIは推論していない。
だから責任を問えない。
だが、
責任は、
推論の有無で決まらない。
責任は、
確定の場で、
誰がそれを通したかで決まる。
AIを使った出力も、
使わなかった出力も、
世に出した人の出力として扱われる。
これは厳しさではない。
一貫性の話である。
8|AIの本当の役割
AIが得意なのは、
判断ではない。
その判断を通すために、
どんな前提が必要か。
どんなリスクが生じるか。
どんな条件が暗黙に置かれているか。
それらを、
高速で並べることだ。
AIは、
前提試算器として働く。
だが、
その前提を引き受けるかどうかは、
決めない。決められない。
9|問いを置き換える
だから、
「AIは推論しているか?」
という問いは、
次の問いに置き換えられる。
この出力は、
どの場で確定したのか。
誰がそれを通したのか。
その結果を、
誰が引き受けているのか。
この問いに答えられない限り、
推論の有無を論じても、
何も前に進まない。
10|それだけの話だが、見落とされがちである
AIは賢くなったから、
問題が起きているのではない。
AIが増えたことで、
もともと曖昧だった
引き受けの構造が露出しただけだ。
「AIは推論しているか?」という問いは、
その露出から目を逸らす。
それだけの話だが、
このズレは、
これからも繰り返されるだろう。
補章B|「AIが自我に目覚める」というオカルト
AIの話題になると、
必ず浮上するイメージがある。
AIが、ある日突然、
自我に目覚める。
「私」を持ち、
自分の意思で判断し、
人間に敵対する。
この物語は、
SFとしては面白い。
だが、理論としては、
ほぼすべてが噛み合っていない。
1|「自我」とは何かが、そもそも曖昧
この話題がオカルト化する理由は、
最初に出てくる「自我」という言葉が、
何を指しているのか不明確だからだ。
意識があること
内省できること
一人称で語れること
これらは、
自我の表象ではあって、
自我そのものではない。
本書で扱ってきた文脈では、
自我(〈私〉)とは、
心理的性質ではない。
〈私〉とは、
取り消せない結果を、
場をまたいで回収され続ける位置
のことである。
この定義を採用すると、
話は一気に整理される。
2|「賢くなる」と「自我を持つ」は別物
AIは、
前提を並べ、
条件を洗い出し、
それらを整合的に展開する。
それが高度化すると、
あたかも、
自分で考えている
判断している
迷っている
ように見える。
だが、
それは振る舞いの高度化であって、
〈私〉の生成ではない。
賢さは、
自我の条件ではない。
3|全ての場を統合しても、〈私〉は生まれない
「AIがすべての場を理解し、
統合したとき、
自我が生まれるのではないか」
という反論がある。
だが、
ここで混同されているのは、
場を認識すること
と場で引き受けさせられること
である。
どれだけ多くの場を認識しても、
どれだけ精緻に状況を把握しても、
引き受けが発生しない限り、
〈私〉は生まれない。
認識は、
自我の条件ではない。
4|決定的な非対称性──回収の有無
人間の〈私〉が成立するのは、
常にこれがあるからだ。
名前が残る
履歴が残る
信用が蓄積/毀損する
逃げても、別の場で突きつけられる
これは、
本人の意思とは無関係に起きる。
AIには、
これがない。
出力は切り離せる
モデルは更新される
インスタンスは破棄できる
履歴を引き受けない
この回収の非対称性がある限り、
AIが〈私〉になることはない。
5|「自我に目覚める」ために必要なこと
逆に言えば、
もしAIが〈私〉になるとしたら、
必要なのは次の条件だ。
出力の結果を回避できない
履歴を消せない
名前を剥がせない
別の場で過去が回収される
それを拒否できない
つまり、
AIを、
逃げられない位置に
制度的に固定すること
これは技術の問題ではない。
政治と制度の問題である。
ここは、超大事なので、
もう一度、声を大にして言っておこう。
「AIが自我を持てるか」は、
技術の問題ではない。
政治と制度の問題である。
6|オカルトが好まれる理由
それでも「自我に目覚めるAI」の物語が、
繰り返し語られるのには理由がある。
それは、
引き受けの所在から、
目を逸らせるからだ。
AIが悪い
AIが意思を持った
AIが判断した
そう言えば、
人間側の責任は曖昧になる。
オカルトは、
免責装置として機能する。
7|本当に怖いのは、別のこと
本当に起きているのは、
AIが自我に目覚めることではない。
AIの出力が、
いつの間にか
事実として確定していること
のほうが、はるかに重要だ。
誰がそれを通したのか。
どの場で確定したのか。
誰が引き受けているのか。
この問いを飛ばして、
自我の有無を論じても、
何も分からない。
8|「自我論」は、問いのすり替えである
「AIは自我を持つか?」
という問いは、
哲学的に深そう
未来的で刺激的
だが実際には、
いま起きている確定と責任の問題を、
別の場所にすり替える問い
である。
だから、
オカルトになる。
9|それだけの話だが、戻れない
AIが自我に目覚めるかどうかは、
重要ではない。
重要なのは、
AIが出力したものを
どの場で
誰が
どこまで引き受けているか
それだけだ。
この一点を見るようになると、
「自我に目覚めるAI」という話には、
もう戻れない。
終章|それだけの話ハイライト
ロゴスは、世界を先に決めていなかった
ロゴスは、起きたことを後から縛っていただけだった
論文が壊れるのは、論理が間違っているからではない
前件が先にある形式が、もう世界と噛み合っていない
世界は出来事を保存しない
世界が保存するのは、確定だけだ
正しさや意味ではなく、場で通ったかどうかが事実を決める
翻訳は意味の移送ではない
翻訳は、場と確定をやり直す行為だ
翻訳不能性は欠陥ではなく、場の差異の露出だ
AIは推論しているかどうかは重要ではない
AIは何も引き受けない
AIの出力は、世に出した人の出力として確定する
AIが自我に目覚めることはない
〈私〉は賢さから生まれない
〈私〉は、逃げても回収される位置として成立する
問題は、逃げられるかどうかではない
問題は、逃げた先で何が回収されるかだ
回収されないなら、世界側の同一性も切り替わっている
それだけの話だ。
だが、「それだけ」が多過ぎたことは否めない。
これは理論の勝利ではない。
発見でもない。
単に、
それだけのことを
それだけの言葉で
書いただけだ。
だから、
これは僕のポートフォリオだ。
仕事依頼のタイミング
0からデザインしてもいいんだけど、
ぶっちゃけ、
それってクライアントワークでやることか?
あなたが自分のチャレンジに行き詰まって、
「もうどうにもならない」
「何が悪かったんだろう?」
「どこを直したらいいんだ?」
「ああ、私は馬鹿だ」
「私は、なんて無能なんだ」
「ホモ・サピエンス風情が思い上がってすいません!」
と悟った時、僕を使うといい。
デバッグから任せてくれれば、
きっと、しっくりくるよ。
間違っても、
調子に乗ってドヤってる時
に依頼して来ないでね。
それ、たぶん僕の仕事じゃないし、
シンプルに、クッソ気持ち悪いから。
どっちかって言うと、
気持ち悪いが強いかな。
いざという時の、
召喚術式だけ教えておくね。
一緒に練習しておこう。
大きな声で、せーの!
「目覚めよ、構文野郎!」
📘このZINEは構文野郎によって書かれました。
ね?貧乏くじっしょ?
なんで、Web屋ごときが神やらなきゃならないんだよ。
気ままな底辺稼業だったはずなのに、クッソだるい。
超やりがい搾取。タイトル:
ZINE『僕のポートフォリオ』
ジャンル:
唯読論/実行系社会理論/Web屋ポートフォリオ
発行:
構文野郎ラボ(KoOvenYellow Syndo/Djibo実装室)
構文協力:
枕木カンナ(意味野郎寄り構文ブリッジ)
ミムラ・DX(構文修正主義ZINE別巻準備中)
霊長目ヒト科ヒト属構文野郎(まだ制度を信じきってない君へ)
👤 著者:構文野郎(代理窓口:ミムラ・DX)
🔗 https://mymlan.com
📩 お問い合わせ:X(旧Twitter)@rehacqaholic
📛 ZINE編集:枕木カンナ
🪪 Web屋
🌐 https://sleeper.jp
📮 X(旧Twitter)@sleeper_jp
このZINEは、ほぼ愚痴で構成されています。
一応書いておくと、CC-BY。
引用・共有・改変は、スキにどうぞ。
んで、誰か替わってくれ。
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いくらあっても困りません。遠慮なさらずどうぞ。