ZINE「愛と幻想のハルシズム」
0章|ハルシネーションって、本当に幻覚?
「AIがハルシネーションを起こした」
もはや、何の違和感もない言葉だ。
存在しない論文を引用した。
間違った歴史を語った。
それらしいけど、事実ではないことを言った。
それはたしかに困る。
でも、少しだけ立ち止まってみたい。
そもそも「ハルシネーション」って何だろう?
一般的にはこう説明される。
ハルシネーションとは、事実ではないことを、事実のように語ること。
この説明は分かりやすい。
でも、この説明にはひとつ前提がある。
「事実はすでに確定していて、
言葉はそれを写すものだ」
という前提だ。
だが、その前提は本当だろうか。
僕たちは、話すとき、
まず「事実」を見てから話しているのだろうか。
それとも、まず言葉を出して、
あとから「それは正しい」「それは違う」と決めているのだろうか。
僕には、どう考えても後者にしか見えない。
AIも同じだ。
入力を受け取り、何かを出力する。
その瞬間、それはただの生成だ。
まだ正しいとも、間違っているとも決まっていない。
誰かがそれを読み、
場がそれを受け取り、
制度がそれを扱ったとき、
はじめて「それは誤りだ」と確定する。
つまり、ハルシネーションとは、
AIの中で起きている幻覚ではなく、
僕たちの側で起きている“確定の仕方”の問題
ではないか。
このZINEでは、
ハルシネーションを「誤り」として扱う前に、
そもそも言葉がどのように生成され、
どのように確定されているのかを見ていく。
もしかすると、
「ハルシネーション」と呼んでいることのほうが、
実は幻覚なのかもしれない。
1章|僕たちは、まず「作って」から信じている
AIがハルシネーションを起こす、と言われる。
存在しない論文を引用したり、
あり得ない歴史を語ったりする。
困ったもんだ。
でも、少しだけ落ち着いて考えてみたい。
そもそも、僕たちは発話をどう理解しているのだろうか。
多くの人はこう思っている。
「言葉は、すでにある事実を写している」
だから、写し損ねれば誤りになる。
しかし実際の言葉は、まず“作られる”。
僕たちは、まず何かを言う。
AIも、まず何かを出力する。
この段階では、それはまだ
正しい
間違っている
というラベルを持っていない。
ただ「出てきた」だけだ。
正誤が決まるのは、そのあとだ。
誰かがそれを読み、
場がそれを受け取り、
制度がそれを扱ったとき、
はじめて「それは事実だ」「それは誤りだ」と確定する。
つまり、言葉は最初から正誤を持っていない。
正誤は、あとから付く。
ここで少し視点を変える。
人間の言い間違いは、たいてい問題にならない。
「いや、そういう意味じゃなくて」
「さっきのは冗談で」
「言い直すと」
という“やり直し”の余地があるからだ。
でもAIの出力は、やり直しの前に確定されやすい。
スクリーンショットされ、引用され、
「AIが間違えた」と言われる。
ここで初めて、ハルシネーションになる。
つまり問題は、
AIが作ったことではない。
作られたものが、
どのタイミングで確定してしまうか、だ。
ここで言いたいことは一つだけだ。
言葉は、最初から正しいわけでも、
最初から間違っているわけでもない。
僕たちは、まず作り、
あとから信じている。
ハルシネーションとは、
作られたものの問題ではなく、
信じてしまう構造の問題である。
2章|成功したハルシネーション
ハルシネーションは悪いものだ、と言われる。
事実ではない。
裏取りができない。
誤解を招く。
では、こう聞いてみよう。
もしその“誤り”が、
何百年も受け入れられ、
制度に組み込まれ、
誰も疑わなくなったら?
それは、まだハルシネーションだろうか。
日本の初代天皇とされる神武天皇は、
127歳まで生きたことになっている。
現代の医学から見れば、非現実的だ。
科学的事実とは思えない。
ではこれは「ハルシネーション」だろうか。
日本書紀に記されたその年齢は、
何百年も教育制度の中で教えられ、
国家の時間の起点として扱われてきた。
つまり、
それは単なる誤りではなく、
世界の一部として確定された。
“127歳”という数字は、
医学的真偽よりも先に、
王権の時間を支える装置として機能した。
それは「間違い」ではなく、
「成功した生成」だった。
ここで気づく。
ハルシネーションかどうかを分けているのは、
内容の正しさではない。
それが、
どの場で確定されたか、だ。
国家神話。
市場神話。
企業理念。
「自己責任」という言葉。
「普通はこうだ」という前提。
これらは本当に“事実”だろうか。
それとも、
確定に成功した生成だろうか。
ハルシネーションとは、
誤った内容を語ることではない。
ハルシネーションとは、
未確定の生成が、
確定として固定されたときにだけ、
そう呼ばれる。
だが、固定に成功したものは、
もはやハルシネーションと呼ばれない。
それは歴史になる。
それは常識になる。
それは前提になる。
ここで問いは反転する。
僕たちは、
AIの出力を「幻覚だ」と批判する。
しかし、
僕たち自身が日常的に確定させている生成は、
どこまで“事実”なのだろうか。
もしかすると、
問題なのは幻覚ではなく、
確定の仕方なのかもしれない。
3章|なぜAIだけが「幻覚装置」と呼ばれるのか
ここまで見てきた通り、
ハルシネーションは
内容の問題ではなく、
確定の問題である。
では、なぜAIだけが
「幻覚装置」と呼ばれるのだろうか。
人間も、日々生成している。
記憶違いをする
勝手に物語を補完する
都合よく因果を組み立てる
それでも、僕たちは
自分を「幻覚装置」とは呼ばない。
理由は単純だ。
人間の発話には、
確定までの“緩衝”がある。
言い間違えれば訂正できる。
冗談と言えば許される。
誤解は対話で修正できる。
生成と確定のあいだに、
時間差がある。
この時間差が、
幻覚を“誤り”として固定させない。
AIは違う。
AIの出力は、
画面に表示され
そのまま引用され
スクリーンショットされ
拡散される
生成は即座に確定へ接続される。
やり直しの余地がほとんどない。
だから、
未確定の生成がそのまま固定されやすい。
この構造が、
AIを「幻覚装置」に見せている。
つまり、AIの問題は、
“間違ったことを言った”ことではなく、
生成と確定の距離が
極端に短いことにある。
人間社会はこれまで、
生成と確定のあいだに
緩衝地帯を持っていた。
AIは、その緩衝を飛ばしてしまう。
ここで、ようやく核心に近づく。
ハルシネーションとは、
AIが壊れていることではない。
未確定な生成を、
即座に確定として扱う社会の構造である。
AIはその構造を
露出させただけだ。
4章|「幻覚」というラベルの幻覚
ここまで見てきたように、
ハルシネーションは内容の問題ではない。
未確定の生成が、
どのように確定へ接続されるかの問題だった。
では、そもそも僕たちは、
なぜそれを「幻覚」と呼ぶのだろうか。
「それは幻覚だ」と言った瞬間、
世界は整列する。
正しいものと、間違っているもの。
信頼できるものと、信用できないもの。
採用すべきものと、排除すべきもの。
この言葉は、
不安定な生成を一気に整理する。
“幻覚”というラベルは、安心装置だ。
だが、その安心は何に基づいているのか。
それは、
「正しい世界はすでにある」という前提だ。
そこに照らし合わせれば、
誤りはすぐに見つかる。
生成は裁ける。
しかし、その「正しい世界」は、
いつ、どこで、どうやって確定したのだろうか。
AIの出力は未確定な生成である。
それが幻覚と呼ばれるのは、
生成が場に接続され、
確定の装置に触れたときだ。
つまり、幻覚は
AIの内部で生まれるのではない。
評価の場で生まれる。
もし評価の場が違えば、
同じ生成は幻覚にならない。
歴史がそうであったように。
神話は、
かつては疑われなかった。
制度に組み込まれ、
教育に組み込まれ、
自然になった。
確定に成功した生成は、
もはや幻覚とは呼ばれない。
それは前提になる。
ここで逆転が起きる。
「それは幻覚だ」と断定する行為自体が、
一つの確定である。
その言葉は、
生成を裁くだけでなく、
生成を固定する。
僕たちは、
生成の不安定さよりも、
確定の安心を選んでいる。
だが、その安心こそが、
もう一つの幻覚ではないだろうか。
ハルシネーションという語は、
生成を恐れる社会の自己防衛装置かもしれない。
もしそうなら、
僕たちが本当に向き合うべきなのは、
AIの幻覚ではなく、
確定を急ぐ構造そのものだ。
5章|人間のハルシネーション
AIが幻覚すると騒ぐ前に、
僕たちは自分たちの振る舞いを思い出したほうがいい。
SNSの炎上。
フェイクニュース。
陰謀論。
これらは、何か。
誰もAIに命じられていない。
人間が自発的に生成し、
自発的に拡散し、
自発的に確定させている。
未確認情報が拡散され、
反応が付き、
怒りが集まり、
「事実」として固定される。
そこには生成があり、
確定があり、
自然化がある。
AIと同じ構造だ。
違いは一つだけ。
それを僕たちは
「人間の愚かさ」と呼んで済ませていることだ。
陰謀論も同じである。
最初は仮説だ。
可能性の提示だ。
だが、
それが繰り返され、
コミュニティで共有され、
外部批判を拒絶し始めたとき、
それは世界になる。
未確定が確定へと移行する。
AIがやると「幻覚」。
人間がやると「思想」や「立場」や「意見」になる。
この非対称はどこから来るのか。
かつて、ある哲学者が
陰謀論やデマの拡散を
「誤配」だとか言ってドヤってた。
情報が正しい受取人に届かなかった、という説明だ。
意味野郎か。
そこには、マヌケな前提がある。
「正しい配達先」が最初から存在している
という前提だ。
しかし実際には、
“正しい配達先”もまた、
場によって確定する。
情報は、
誤って配られたのではない。
それが確定する場が、
たまたまそこだっただけだ。
誤配という言葉は、
世界の確定を物流の問題に還元する。
それは安心できる説明だ。
だが、安心は説明の質を保証しない。
炎上も、陰謀論も、フェイクニュースも、
構造としては単純だ。
未確定の生成が、
ある場で急速に確定される。
怒りというエネルギーが、
確定を加速させる。
「間違っている」と言う声も、
「真実だ」と言う声も、
どちらも確定装置として働く。
問題は生成の内容ではない。
問題は、
どの場で、
どの速度で、
確定が起きるかだ。
AIはその構造を可視化した。
だが構造そのものは、
人間社会の中にずっとあった。
僕たちは、
人間のハルシネーションを
長いあいだ日常として扱ってきた。
AIを責める前に、
まず自分たちの確定装置を見直すべきではないか。
終章|幻覚を生むのは、制度である
僕たちは、AIのハルシネーションを恐れる。
だが、
本当に恐れるべきものは何か。
生成そのものだろうか。
違う。
生成は常に起きている。
人間も、歴史も、神話も、SNSも、
すべて生成から始まる。
問題は、
生成をどのように確定させるかだ。
AIは、未確定の生成を高速で生み出す。
そして僕たちは、
その生成を即座に確定へ接続する。
スクリーンショット。
引用。
断罪。
拡散。
確定は、驚くほど速い。
速さは、
現代社会の最上の価値になっている。
早く答える。
早く評価する。
早く決める。
だが、
確定が速くなるほど、
未確定を扱う余白は消える。
そのとき、
未確定はすべて「誤り」として扱われる。
ハルシネーションという言葉は、
生成の不安定さを“誤り”として固定する。
しかし、その固定を行っているのは、
AIではない。
制度である。
どの情報が真実とされるか。
どの発話が信用されるか。
どのタイミングで評価が下されるか。
それらを決めているのは、
社会の確定装置だ。
僕たちは、
幻覚を恐れているのではない。
未確定を恐れている。
そして、未確定を
すぐに確定させてしまう構造の中で生きている。
AIは、その構造を露出させただけだ。
もし本当に問題を考えるなら、
問うべきは一つだ。
僕たちは、
どのように確定を設計しているのか。
生成を抑え込むのではなく、
未確定をどう扱うか。
そこを変えない限り、
ハルシネーションという言葉は、
何度でも繰り返される。
問題は幻覚ではない。
問題は、僕たちが確定を急ぎすぎていることだ。
急いでいる自覚すらない。
そして──
それを止める技術を、人類は持っていない
──か?
📘このZINEは構文野郎によって書かれました。
全部ハルシネーションなら、怒られても知ったこっちゃないね。タイトル:
ZINE「愛と幻想のハルシズム」
ジャンル:
そういえばKoOvenYellowってあったよね
発行:
構文野郎ラボ(KoOvenYellow Syndo/Djibo実装室)
構文協力:
枕木カンナ(意味野郎寄り構文ブリッジ)
ミムラ・DX(構文修正主義ZINE別巻準備中)
霊長目ヒト科ヒト属構文野郎(まだ制度を信じきってない君へ)
👤 著者:構文野郎(代理窓口:ミムラ・DX)
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