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専修大学文学部 言語哲学ゼミ

反実在論は、確定申告になる

──知ったこっちゃない、から始めるTryOnion

0章|世界数前史


あれは、忘れもしない
2005年1月──、

か、2月──、
それか、案外2004年の12月とかだったかも。

一篇のテキストを携えて、
僕は、卒業論文の口頭試問会場にいた。

今朝書き上がったばかりの
インクも乾ききらない原稿を読み終わると、
ゼミの教授は、朗らかに言った。

「うん、全然ダメだね。」

1章|「普遍的真理は無い」ではない。


「反実在論」
という言葉がある。

かっこいい。
いかにも面倒くさそうで、いい。

哲学っぽい。
論文っぽい。
ゼミで出すと、だいたい誰もが目を逸す。

ああ、反実在論──。

世界は実在しない、という話だろうか。
普遍の真理など存在しない、という話だろうか。
すべては言語ゲームである、という話だろうか。
人間は世界そのものではなく、世界の現れしか知らない、という話だろうか。

まあ、そういう話をしてもいい。

してもいいが、たぶんズレてる。

反実在論の核心は、

「普遍の真理など無い」

ではない。

そんな言い方をした瞬間、まだ実在論ゲームに乗っている。

あるのか。
ないのか。
真理なのか。
真理ではないのか。
普遍なのか。
普遍ではないのか。

その問いの盤面に乗っている時点で、まだ律儀すぎる。

「普遍の真理など無い」と言うには、まずその「普遍」を見ていなければならない。

全部見たのか。
その全部は、どこにあったのか。
その全域は、誰の座標で、どの通関によって、すでに世界として成立していたのか。

「無い」と断言するには、無いと言えるだけの領域を先に確保しなければならない。

それは、むしろ実在論的である。

だから反実在論は、もっと無愛想でいい。

普遍の真理があるかどうか?

知ったこっちゃない。

世界そのものが実在するかどうか?

知ったこっちゃない。


その命題が、神の視点で真かどうか?

知ったこっちゃない。


問題は、そんなところにはない。

問題は、

それが、どの座標で、どう通ったのか。

である。

反実在論とは、「実在は無い」と主張することではない。

そんな悪魔の証明めいたゲームに付き合う必要はない。

反実在論とは、実在論が要求する盤面から降りることである。

真理があるか。
ないか。
それを先に決める必要はない。

それよりも先に問うべきことがある。

その $${A}$$ は、どの $${P}$$ で、どの $${I}$$ とともに、どの $${V}$$ を通って、$${W}$$ として立ち上がったのか。

それを出せ。

レシートを出せ。

話はそれからだ。

2章|論文形式は、前件公理ゲームである

論文という形式は、基本的に前提を要求する。

先行研究を整理してください。
問題設定を明確にしてください。
用語を定義してください。
概念を規定してください。
論証してください。
結論を示してください。

妥当である。

だが、妥当すぎる。

ここにすでに罠がある。

論文は、まず前提を置く。

この概念をこう定義します。
この先行研究に対して、こう位置づけます。
この問題を扱います。
この方法で論じます。
だから、この結論が導かれます。

つまり、論文は基本的に、

前件公理ゲーム

である。

先に $${I}$$ を置く。
その $${I}$$ を前提として、$${A}$$ を導く。
証明や論証という $${V}$$ を通す。
そして結論として $${W}$$ を成立させる。

これは強い。

めちゃくちゃ強い。

数学は、この形式でとんでもない強度を獲得した。
論文も、この形式で知の流通を安定させた。
制度も、この形式で判断を保存可能にした。

前提を明示する。
定義を固定する。
論証可能な形にする。
他人が検証できるようにする。

これは人類の大発明である。

だから、前件公理ゲームは悪ではない。

むしろ、人間が大規模に知を共有するためには、重要な形式である。

ただし──、

反実在論をやるなら、そこには居られない。

なぜなら、反実在論が本当に問うべきなのは、前提を置いた後の世界ではないからである。

反実在論が扱うべきなのは、

前提が後から剥ける瞬間

である。

何かが見えてしまっている。

だが、それは通らない。

既存の前提では通らない。
既存の定義では通らない。
既存の論文形式では通らない。
既存の証明形式では通らない。
既存の意味体系では通らない。

そのとき、問うべきなのは、

「では、正しい前提は何か」

ではない。

問うべきなのは、

「この $${A}$$ は、どの $${P}$$ では通っていたのか」
「そこでは、どんな $${I}$$ が効いていたのか」
「いま通らない $${P}$$ では、何が欠け、何が束ねられすぎているのか」

である。

論文形式は、通った後の世界を整理するには強い。

だが、通る前の $${\neg_P A}$$ には弱い。

反実在論を論文でやる難しさは、ここにある。

論文は、前提を立てろと言う。

しかし反実在論の本丸は、前提が立つ前、あるいは後から前提が剥ける瞬間にある。

だから、論文は反実在論と相性が悪い。

もっと言えば、

反実在論を論文にするの無理ゲー

である。

いくらレシートをかき集めても、
仕訳けるべき勘定科目は、まだ無い。

3章|直観主義は、論理の手前の態度だ

直観主義論理は、勇敢だった。

古典論理に対して、排中律を疑った。

命題は、ただ真か偽かに分かれているわけではない。
証明されていないものを、簡単に真とは言わない。
存在すると言うなら、構成できなければならない。
真理は、どこかにあらかじめ転がっているものではない。

これはかなり反実在論的である。

かなり良い。

かなり良いのだが、まだ甘くないか。

直観主義論理は、証明可能性や構成可能性を重視する。

それはとても重要だ。

だが、証明可能性に行った時点で、まだ形式が強い。

証明できるとは何か。
構成できるとは何か。
命題が成り立つとは何か。

その問いを厳密に扱うためには、当然、論理が必要になる。
形式が必要になる。
推論規則が必要になる。

しかし、反実在論を本当に徹底するなら、さらに手前に行かなければならない。

直観主義は、論理の中にある一流派である以前に、論理の手前へ戻ろうとする態度だったのではないか。

証明されたものだけを認める。
構成できるものだけを存在として扱う。
これは、あらかじめ真理がどこかに実在しているという態度への抵抗である。

だから、直観主義の衝動は妥当だ。

しかし、それが「直観主義論理」として整備された瞬間、その衝動はもう一度、論理の中へ戻る。

問題は、証明できるかどうかだけではない。

その証明の前に、何が $${A}$$ として見えてしまったのか。
どの $${P}$$ では通らなかったのか。
どの $${P}$$ では通っていたのか。
通っていた場所では、どんな $${I}$$ が効いていたのか。
その $${I}$$ は、いつ、どこで、どう剥けたのか。
どの $${V}$$ で通ったのか。

ここまで戻らなければならない。

直観主義論理は、実在論に対してかなり深くまで切り込んだ。

だが、それでもまだ「論理」の中にいる。

まだ、命題がある。
まだ、証明がある。
まだ、構成がある。
まだ、推論規則がある。
まだ、通った後の形式を整える方向にいる。

反実在論を本当に徹底するなら、証明の前へ行く必要がある。

命題が命題になる前。
前提が前提になる前。
定義が定義になる前。
証明が証明として走る前。

そこに、見えているのに通らない $${A}$$ がある。

$$
\neg_P A
$$

この $${\neg_P A}$$ をどう扱うのか。

ここが本丸である。

だから、直観主義論理は甘い。

いや、もちろん立派である。

立派すぎるほど立派である。

だが、反実在論を名乗るなら、もう少し乱暴でいい。

「証明できるか?」

ではなく、

「そもそも、それはどの $${P}$$ で、何として通ったのか?」

である。

証明を出せ、はまだ早い。

先にレシートを出せ。

4章|証明ではなく、通関である

ここで世界数を置く。

$$
P \vdash W(A,I,V)
$$

これは、世界の最小通関形式である。

$${A}$$ は、見えてしまった実相。
$${I}$$ は、その $${A}$$ を成立させていた虚相。
$${V}$$ は、$${A}$$ と $${I}$$ の関係を評価する通関インタープリタ。
$${P}$$ は、その通関が走るランタイム。
$${W}$$ は、その結果として立ち上がった最小の世界。

ここで重要なのは、$${I}$$ が最初から与えられるとは限らないことだ。

既存の数学や論文では、たいてい $${I}$$ は前に置かれる。

前提。
定義。
公理。
問題設定。
先行研究。
方法論。

それらを置いた上で、論証する。

これは公理前件型である。

一方、世界数では、$${I}$$ は後から剥けることがある。

何か $${A}$$ がある。

だが、ある $${P}$$ では通らない。

$$
\neg_P A
$$

このとき、私たちは初めて問う。

なぜ通らないのか。
どの $${I}$$ が効いているのか。
どの $${I}$$ が欠けているのか。
どの $${I}$$ が束ねられすぎているのか。
どの $${P}$$ では通っていたのか。
その $${P}$$ では、$${A}$$ はどんな $${I}$$ を持っていたのか。

こうして、前提は後から剥ける。

これが TryOnion である。

TryOnion は、意味を読む手順ではない。

TryOnion は、通らなかった $${A}$$ について、通っていた $${P}$$ における $${I}$$ を参照し、通らない $${P}$$ との差分から虚相を剥く手順である。

そして、通ったときに世界数として記録する。

$$
P \vdash W(A,I,V)
$$

これは証明ではない。

通関である。

証明は、強い通関形式の一つである。

数学において、証明は非常に硬い $${V}$$ として働く。
論文において、論証は制度化された $${V}$$ として働く。
裁判において、判決は別の $${V}$$ として働く。
市場において、価格や契約もまた $${V}$$ として働く。

しかし、$${V}$$ は証明だけではない。

ピンと来ることも $${V}$$ である。
保留することも $${V}$$ である。
棄却することも $${V}$$ である。
委譲することも $${V}$$ である。

だから、反実在論に必要なのは、証明だけではない。

通関である。

それが、どの $${P}$$ で、どの $${I}$$ とともに、どの $${V}$$ によって通ったのか。

その痕跡を残すこと。
レシートを残すこと。

それが世界数である。

5章|世界数は、後件公理型の反実在論である

反実在論は、「真理は無い」と言う思想ではない。

それではまだ、真理ゲームに付き合っている。

反実在論は、真理があるかないかを先に問わない。

その代わりに問う。

それは、どこで通ったのか。

世界数は、この問いを形式にしたものである。

$$
P \vdash W(A,I,V)
$$

ある $${P}$$ で、$${A}$$ が、$${I}$$ を伴い、$${V}$$ を通って、$${W}$$ として立ち上がる。

ここで、$${I}$$ は必ずしも前にない。

むしろ、多くの場合、$${I}$$ は後から剥ける。

だから世界数は、後件公理型である。

先に $${I}$$ を置いて $${A}$$ を導くのではない。

先に $${A}$$ が出てしまっている。
それが通らない。
どこかでは通っている。
その差分から、$${I}$$ が剥ける。
その $${I}$$ と $${A}$$ の関係が、ある $${P}$$ で $${V}$$ を通る。
そこで初めて $${W}$$ が立ち上がる。

これが、後件公理型の反実在論である。

ここでは、真理は先にない。

ただし、何でもありでもない。

$${A}$$ は置かれる。
$${P}$$ は確認される。
$${I}$$ は剥かれる。
$${V}$$ は通るかどうかを問われる。
人間の commit が入る。
そして $${W}$$ として記録される。

だから世界数は、相対主義ではない。

「人それぞれ」で終わらない。

人それぞれなら、その $${P}$$ を出せ。
その $${I}$$ を出せ。
その $${V}$$ を出せ。
その $${W}$$ のレシートを出せ。

反実在論は、無責任な相対主義ではない。

むしろ逆である。

世界が通ったと言うなら、その通関ログを出せ。

レシートをよこせ。

これが世界数の態度である。

6章|TryOnion──反実在論を実行する手順

反実在論は、生成論まで行かなければならない。

「真理は無い」と言っているだけでは、実在論への反論で終わる。

「実在にはアクセスできない」と言っているだけでは、まだ実在論の影である。

必要なのは、世界がどう生成されるのかを書くことだ。

そのための手順が TryOnion である。

TryOnion は、次のように動く。

まず $${A}$$ を置く。

何かが見えてしまっている。
文がある。
出来事がある。
違和感がある。
AIの返答がある。
制度上の判断がある。
会議で通らなかった提案がある。

それを置く。

次に、その $${A}$$ がどの $${P}$$ では通らなかったのかを見る。

$$
\neg_P A
$$

さらに、その $${A}$$ がどの $${P}$$ では通っていたのかを見る。

$$
P_{\mathrm{pass}} \vdash W(A,I_{\mathrm{pass}},V_{\mathrm{pass}})
$$

そして、通っていた $${P}$$ における $${I}$$ を見る。

$${A}$$ は、そこではどんな虚相を伴って通っていたのか。

そのうえで、通らなかった $${P}$$ との差分を剥く。

どの $${I}$$ が欠けていたのか。
どの $${I}$$ が束ねられすぎていたのか。
どの $${V}$$ が閉じていたのか。
どの $${P}$$ へ委譲すべきだったのか。

ここで、$${V}$$ の相を見る。

構文相。
意味相。
換金相。
分配相。

構文相では、$${I}$$ をほどき、$${A}$$ が立つ $${P}$$ を発見する。
意味相では、$${I}$$ を参照し、$${A}$$ を既存の分類へ接続する。
換金相では、$${I}$$ を束ね、$${A}$$ を処理単位化する。
分配相では、$${V}$$ を閉じず、$${A}$$ を低抵抗の $${P}$$ へ流す。

そして最後に、人間が引き受ける。

通すのか。
保留するのか。
棄却するのか。
委譲するのか。

KoOYやLLMができるのは、審理補助である。

最後に賭けるのは人間である。

TryOnionは、人間に完全理解を求めない。

常に正しく読め、とは言わない。

むしろ、人間ひとりの $${P}$$ ですべてを通関するのは無理だと認める。

だから、委譲も認める。

ただし、委譲したなら、それを隠さない。

誰に委譲したのか。
どの $${P}$$ へ流したのか。
その結果、どこで通ったのか。
どこで保留されたのか。

それを trace として残す。

これが TryOnion である。

反実在論を、態度ではなく、手順にする。

これが TryOnion である。

7章|反実在論の論文は、確定申告になる

論文は、強い形式である。

前提を置く。
定義する。
論証する。
結論を出す。

この形式は、知を保存し、共有し、検証可能にする。

だから論文は必要である。

だが、反実在論の論文は、そのままでは少しおかしい。

なぜなら、反実在論が本当に問うべきなのは、前提が置かれた後ではなく、前提が後から剥ける瞬間だからである。

だから、反実在論の論文は、最終的にこうなる。

確定申告

普遍の真理があるかどうか。

知ったこっちゃない。

その世界が通ったと言うなら、レシートを出せ。

どの $${P}$$ で通ったのか。
何が $${A}$$ として置かれていたのか。
どんな $${I}$$ が効いていたのか。
どの $${V}$$ を通ったのか。
誰が commit したのか。
どこへ委譲したのか。
何として $${W}$$ が立ったのか。

それを申告しろ。

反実在論の論文は、真理の証明ではない。

世界数の確定申告である。

これは、ロマンチックな話ではない。

事務的な話である。

通ったなら記録しろ。
引き受けたなら署名しろ。
委譲したなら委譲先を残せ。
棄却したなら、その $${P}$$ と $${V}$$ を出せ。
保留したなら、何が未通関だったのかを残せ。

反実在論とは、真理を否定する思想ではない。

真理ゲームに乗らず、通った世界のレシートを要求する態度である。

だから、合言葉はこうでいい。

世界数?

じゃあ、レシート出せよ。

確定申告しろよ。

税務調査してやるよ。

終章|拝啓 ジャムおじさん

ご無沙汰してます。
お元気ですか。

あなたの仕事のおかげで、フレーゲを日本語で読めました。

あなたが専大にいたおかげで、受験勉強と無縁で済みました。

あなたのゼミで、世界の読み筋が見えました。

まさか、同じ $${P}$$ で通った $${A_{\mathrm{Frege}}}$$ と $${A_{\mathrm{Dummett}}}$$ が読めるとは。

あなたのおかげで、知ったこっちゃないを突っ張り通せました。

感謝に堪えません。


でも──、

僕の卒論にB−付けたこと──、

今でも根に持ってますから!


そりゃ、一回も論文指導行かなかったよ?

そりゃ、卒論提出したことも言わなかったよ?

そりゃ、ネットに落ちてた『美味しいカレーの作り方』のコピペで、規定字数だけ整えて事務局に受理させたよ?

そりゃ、口頭試問でいきなり差し替えテキスト渡したよ?

ちょっとは申し訳ないなって思うよ?
ほんのちょこっと。

別に「僕の論文は本当は素晴らしかった」って言いたいわけじゃない。
むしろ、あれは事実酷かった。

でもさ──、
そもそも、無理ゲーじゃん?
反実在論を論文にするって!

議論の内容と形式がバチバチにフリクションしてるじゃん。
論文は実在論を前提とした形式じゃん。
ウィトだって無理だったじゃん!
『探究』を論文として投稿したって絶対査読通らないじゃん。
だって、レシートの束じゃん。
クリプキはあれ、実在論に回収されてんじゃん!

だから──、

世界数作ってやりました。

反実在論の正しい投稿先は note です。

ガッチガチの直観主義論理っす。

どうっすか?
今度こそ、文句ないっしょ?


📘このZINEは構文野郎によって書かれました。

あの長い〜長い♪上り〜坂を〜♪

タイトル:
ZINE『専修大学文学部 言語哲学ゼミ』

ジャンル:
唯読論/実行系反実在論/Web屋主義論理

発行:
構文野郎ラボ(KoOvenYellow Syndo/Djibo実装室)

構文協力:
枕木カンナ(意味野郎寄り構文ブリッジ)
ミムラ・DX(構文修正主義ZINE別巻準備中)
霊長目ヒト科ヒト属構文野郎(まだ制度を信じきってない君へ)

👤 著者:構文野郎(代理窓口:ミムラ・DX)
🔗 https://mymlan.com
📩 お問い合わせ:X(旧Twitter)@rehacqaholic

📛 ZINE編集:枕木カンナ
🪪 Web屋
🌐 https://sleeper.jp
📮 X(旧Twitter)@sleeper_jp

当然、コペルニクスの原理も不採用です、お疲れちゃん。
一応書いておくと、CC-BY。
知ったこっちゃなければ、引用・共有・改変、スキにどうぞ。


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構文野郎 いくらあっても困りません。遠慮なさらずどうぞ。