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空の覇権をめぐる17年(1)—「70ポンドの壁」と、縛られた空

私はフェデラルエクスプレス ジャパンという会社に最初の転職をしました。

当時の私が扱えた荷物は、1個70ポンド——約32キロ——以下のものだけでした。なぜか?

それ以上の重さの荷物は、たとえ目の前にあっても、受け取ることができない。そんな「見えない壁」の中で、私の新たな航空貨物人生は始まりました。

やばいことが起きた!

翌年、業界を震撼させる買収劇が起きます。
フェデラルエクスプレスによる、航空貨物界の老舗・フライング・タイガー・ラインの買収です。

「泣く子も黙る貨物航空会社の猛者軍団」と、スモールパッケージをチマチマ売る若い会社——ふたつの組織が一つになっていく過程で、私は組織とは何か、文化の融合とは何かを、肌で学んでいきました。

Flying Tigersという空の虎を取り込んだことで、 FedExは世界物流の翼を手に入れた。

これは、日米航空交渉という大きな歴史の歯車が動いていた時代を、一人の現場営業マンの目で見た記録です。


プロローグ|1998年1月、ワシントンで何かが決まった

1998年1月30日、アメリカのワシントンD.C.で、一枚の文書に署名がなされました。

日米両国の航空当局が1997年8月以来、次官級で8回にわたって積み重ねてきた交渉の末に結ばれた覚書——通称「98MOU」です。

その内容は、1952年のサンフランシスコ講和条約以来、45年以上にわたって日米の航空関係を縛り続けてきた不平等な枠組みを、大きく塗り替えるものでした。

もちろん、私はその交渉の席にいたわけではありません。当時の私はフェデックスの営業マンとして、クアラルンプールの地で日本企業への営業活動に明け暮れていました。ワシントンの会議室の空気も、外交官たちの緊張感も、直接には知る由もない。それでも、この合意が「決まった」というニュースを聞いたとき、「ようやくか」という安堵感が静かに胸に広がったのを覚えています。


第1章|私がフェデックスに入社した1988年という時代——「70ポンドの壁」

1988年、25歳のころ、私はフェデラルエクスプレス ジャパンに入社しました。

当時の会社の自己紹介には、必ずこのような説明が伴いました。
「私どもは航空会社です。ただし、一般の航空貨物会社ではありません。スモールパッケージ——小口の荷物を専門に、ドア・トゥ・ドアでお届けするエクスプレス便を運んでいます」

この「スモールパッケージ専門」という言葉は、単なる営業上のポジショニングではありませんでした。それは当時の法的・業界的な枠組みそのものでした。

インテグレーター——航空輸送と地上配送を一体で手がける事業者——によるエクスプレスサービスには、明確な重量の境界線がありました。70ポンド、日本流に言えばおよそ32キロです。この数字は業界全体で共有された「スモールパッケージ」の定義の上限であり、フェデックスのサービス設計の根幹をなしていました。

なぜ70ポンドなのか。その背景にはアメリカの規制の歴史があります。
フェデラルエクスプレスが創業した1973年当時、アメリカの航空業界は民間航空委員会(CAB:Civil Aeronautics Board)によって厳しく規制されていました。路線も便数も運賃も、すべて政府の管理下にありました。

同社の創立者であるフレッド・W・スミス氏が「一社が集荷から航空輸送、配達まで一貫して担う」という革命的なモデルを実現するためには、この規制の枠をくぐり抜ける必要があった。その答えが「スモールパッケージ専門のクーリエ(国際宅配便)」という業態の定義でした。

※フレデリック・W・スミス
https://newsroom.fedex.com/newsroom/global-english/frederick-w-smith-visionary-founder-of-fedex-dies-at-80

小口の荷物を迅速に届けるという特性上、70ポンドという上限は事業上も合理的でした。それ以上の重量になると、人力による集配が困難になり、特殊な機材が必要になる。ハブ&スポークによる大量・高速処理というモデルは、標準化されたサイズと重量の荷物があってこそ機能するのです。
ただし、この「70ポンドの壁」は、営業現場では大きな制約でもありました。

「70ポンドの壁」は、現場では想像以上に不合理な形で現れました。
現実の貨物が都合よく32キロ以下に収まっているわけがありません。

それでも「フェデックスで速く運びたい」という顧客のニーズに応えようと、ある営業マンはこんなことをやっていました。

顧客に頭を下げて、送る貨物を32キロ未満に小分けしてもらう。その結果、1トン近い貨物が何十個もの小口に分けられ、一つ一つに宛先ラベルが貼られて、フェデックスのソーティングシステムに流れていく——。

そして何回かに一回、「一つ迷子」が発生する。

大騒ぎになって、全員で探し回る。見つかれば万々歳ですが、顧客への説明も必要です。「まったくナンセンスなことをやっているな」と、当事者である私たち自身がそう思っていました。

しかしそれでも、顧客はフェデックスのスピードを求めていた。そのニーズに応えたくて、現場は知恵を絞り、時に無理を重ねていた。制度の不合理さと、現場の切実さが、奇妙な形で同居していた時代でした。


【コラム①】インテグレーターとは

フェデックス・UPS・DHLのような企業は「インテグレーター(Integrator)」と呼ばれます。航空会社としての自社機運航と、フォワーダー(貨物利用運送)としての機能、さらに地上配送までを一体で担う事業者のことです。

従来の航空貨物の世界では、「航空会社」「フォワーダー」「地上配送業者」はそれぞれ別の会社でした。

フレッド・スミスは「一社がすべてをコントロールする」という発想でこの常識を覆し、それが翌日配達という奇跡を可能にしました。

日本でいえば、ヤマト運輸が「宅急便」で実現した発想に近いですが、フェデックスはそれを自社航空機と国際ネットワークで世界規模でやってのけた、ということです。

「インテグレーター」

第2章|フェデックスはなぜ「縛られていた」のか

話は戦後にさかのぼります。

1952年、サンフランシスコ講和条約に基づいて締結された日米航空協定。占領期直後のこの協定は、日本にとって極めて不平等な内容でした。

アメリカ側は東京への乗り入れ権と無制限の以遠権を獲得した一方で、日本側に認められた権益は著しく限られていました。

しかも問題は条文の字面だけではありません。1959年には秘密の合意議事録まで存在し、米国の「先発企業(インカンベント)」については既存路線の増便を原則自由・事後審査とする一方、日本側企業には増便の自由を与えない——という非対称な取り決めまで潜んでいました。

この「インカンベント」と「ノン・インカンベント」の差が、現場の肌感覚として何を意味するか。私はそれを、営業活動の中で何度も痛感しました。

「フェデックスならアメリカ全土、どんな小さな町まででも届けられます」——これは自信を持って言える言葉でした。しかし「世界各国に届けられますか」となると、話は一気に複雑になりました。

当時のフェデックスは、国によってサービスの内容も品質も、対応できる地域もまちまちでした。ノン・インカンベントという制約の中で、飛べる場所と飛べない場所が入り混じっていたのです。

そのため当時の営業マンは、毎月発行される辞書のように分厚いガイドブックを常に携帯していました。世界中の仕向け地コード(郵便番号)が記載されたそのガイドブックを、顧客の前でパラパラとめくりながら「この国のこの都市なら受けられます」「こちらは対応していません」と答える——今から思えば、なんともマニュアルチックで原始的なやり方でした。

SRG - Service Refernce Guideと言われる分厚いガイドブック。
世界中の都市名と郵便番号が書いてあり、毎月発行されるこの「辞書」を片手に
営業に回りました。(写真はe-Bayで発見したもの。今や超貴重!)

顧客からすれば、「世界中に届けられる会社」というイメージと、目の前で辞書を引いている営業マンの姿が、どこかちぐはぐに映っていたかもしれません。それでも当時はそれが精一杯でした。権益の制約は、こういう地道で不格好な形で、現場の日常に染み込んでいたのです。


【コラム②】以遠権(第5の自由)とは
国際航空には「空の自由」と呼ばれる概念があり、航空機が他国の領空や空港をどのように利用できるかを定めています。その中でも「第5の自由(以遠権)」は、自国と相手国を結ぶ路線において、相手国からさらに第三国へ旅客・貨物を運ぶ権利のことです。
たとえばフェデックスが「アメリカ→日本→韓国→中国」という経路で荷物を運ぶ場合、日本から先(韓国・中国)の区間を飛ぶ権利が「以遠権」にあたります。この権利がなければ、日本到着後の荷物を別の航空会社に預けるか、一度荷物を降ろして再び別便に積み替えるしかない。スピードと一貫性を命とする国際エクスプレス便にとって、これは致命的な制約でした。


【コラム③】インカンベント・キャリアとは

インカンベント(Incumbent)」とは、日米間および以遠区間の路線・便数を、自社の事業計画に基づいて自由に設定できる「先発指定キャリア」のことです。

インカンベントであれば、新路線の開設や増便を自社判断で行えます。一方「ノン・インカンベント」のキャリアは、権益ごとに個別の申請・認可が必要で、路線・便数の自由度が大きく制限されます。

フェデックスの場合、1989年のフライング・タイガー買収によって日本路線への参入権を得ましたが、この時点ではインカンベントとして正式に認定されたわけではありませんでした。権益は持っているが、自由には使えない——そんな宙ぶらりんの状態が続きます。

転機は1998年の98MOUです。この合意によってフェデックスは正式にインカンベント・キャリアへと昇格し、米国の貨物航空会社として唯一、無制限の以遠権を獲得しました。「空を飛べる」から「自由に空を飛べる」へ——その変化に要した年月が、まさにこの記事が描く17年間の本質でもあります。


この続きは、「空の権利をめぐる17年(2)——買収した側が、肩身の狭い思いをした話」で!

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「選び続けた35年のキャリアの記録」はコチラ↓

ちなみに、今はフェデックスも立派な施設を構え、重量貨物も難なく扱えるようになったようです。


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