【第1話/全24話】違和感の正体 給与明細
転職するほどでもない。
でも、このままでもない。 そんな人のために書いています。
社会人になって二年ほど経ったある朝、 私はオフィスの床で一枚の紙を拾いました。
それは、上司の給与明細でした。
私が最初に就職したのは、 航空貨物代理店という仕事をする会社でした。
輸出や輸入を行う企業に対して、 航空貨物の輸送サービスを提供する。
具体的には、通関業務、保管業務、輸送業務。 企業が海外と物をやり取りするための すべての流れを、一手に引き受ける仕事です。
当時の日本は、 まだ貿易立国としての勢いが残っていた時代でした。
輸出メーカーや商社が活発に動き、 空港を通過する貨物の量も、 年々増え続けていました。
そんな業界の中に、 私は新入社員として飛び込みました。
最初に配属されたのは、 渋谷営業所でした。
全国に点在する営業所のひとつで、 所員は十人ほどの小さな拠点です。
テリトリーは東京の西側。
渋谷や新宿あたりから、いわゆる昔「三多摩地区」と呼ばれたといったエリアを中心に、 輸出入を行う商社やメーカーが 顧客として点在していました。
仕事の内容は、 既存顧客へのサービス対応と、 新規開拓のための営業活動が中心です。
その日は、 早朝の掃除をしていました。
まだ誰も出社していない時間です。
ほうきで丁寧に掃除をしながらオフィスを回っていると、 床に一枚の紙が落ちているのに気づきました。
何気なく拾い上げたとき、 それが給与明細だと分かりました。それも本来二つ折りで見えなくなっているはずのものが、完全に中身が見えてしまう開かれた状態で落ちていました。こりゃ大変!

見ようとしたわけではないですが、自然に目に入ってしまい…
その瞬間、まず感じたのは驚きでした。
当時の私は、 サラリーマンというものは 十年も働けば初任給の二倍、三倍くらいには なるものだと、 どこかで勝手に思い込んでいました。
当時の自分の初任給は十三万五千円ほど。
一方、その明細に書かれていた金額は二十二万円。
その上司は、勤続二十年ほどの人でした。
「二十年働いて、この金額なのか」
計算はすぐにできました。
当時の会社は、 課長以上になると残業代がつかない仕組みでした。
つまり、これ以上大きく給与が増える構造ではない。
ボーナスを除けば、 おおよその上限は見えてしまったのです。
そのとき、私は初めて 二十年後の自分を具体的に想像しました。
朝早く出社して、 同じように仕事をして、 同じように年を重ねていく。
その先にある数字が、 手の届くリアリティとして見えてしまった。
ぼんやりとした不安ではなく、 かなり現実的な感覚として、
「これはいけないかもしれない」
そう思いました。
ただ、不思議なことに、 会社そのものが嫌だったわけではありません。
むしろ逆でした。
その会社は、 久しぶりに新入社員を多く採用し、 海外拠点を増やし、 新しいサービスにも取り組んでいました。
これから伸びていく会社だ、 そんな空気がありました。
働く環境としても、 特に不満があったわけではありません。
ではなぜ、 あの給与明細が心に残ったのか。
それは、 自分の中にあった「キャリアのイメージ」と 現実のギャップを 初めて数字で突きつけられたからだと思います。
問題は、上司個人ではありませんでした。
その人はとても仕事ができる人で、 顧客からも社員からも厚く信頼されていました。
あまり自分から新人に声をかけるタイプでは ありませんでしたが、 仕事ぶりはいつもよく見ていてくれていた。
良い仕事をすると、ぽつりと一言かけてもらえる。
多くを語らない分、 その一言がとても重かった。
尊敬できる上司でした。
だからこそ、余計に考えさせられました。

あれだけ仕事ができて、 あれだけ人に慕われていても、 二十年でこの数字なのか。
問題は、その上司ではなく、 この会社の「仕組み」そのものでした。
どれだけ努力しても、 どれだけ成果を出しても、 給与の上限はほぼ決まっている。
年功序列の構造が、 そのまま数字に表れていた。
一方で、 その上司自身は この会社が好きで働いているようにも見えました。
本人からも、 そんな話を聞いたことがあります。
それはそれで、 一つの正しい選択だと思います。
お金だけが仕事の価値ではない。
ただ私には、 それだけでは納得できない何かがありました。
自分はこれから先、 どこに向かって仕事をしていくのか。
あの給与明細は、 その問いを初めて突きつけてきた一枚でした。
もちろん、 その出来事がきっかけで すぐに転職を考えたわけではありません。
何か行動を起こしたわけでもありません。
ただ、 頭のどこかに残り続けました。
「本当にこれでいいのだろうか」
「世の中には、他にどんな仕事があるのだろうか」
その問いは、 すぐに答えが出るものではありませんでした。
ただ確実に、 私の中に残り続けました。
そしてそれは、 後にいくつか重なる出来事とともに、 少しずつ形を持ち始めることになります。
気づきというのは、 探しているときよりも、 ふとした瞬間に訪れることが多い。
あの朝、 誰もいないオフィスの床に落ちていた一枚の紙。
それが、 私のその後の三十年を変えるとは、 このときはまだ、 まったく想像していませんでした。
続きは第2話で!
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