白くて黒い箱--ルポライター唐澤 雫:第三話「美味しくて安全なもの」
※本作はフィクションです。登場する企業、人物、製品、設備、記録方式はすべて架空のものであり、実在のものとは関係ありません。
第一章 食べられるもの
第一節 書いてある味
紫色の入場証には、唐澤雫の名前の下に「取材研修者」と印字されていた。
首から提げると、透明なカードケースが白衣の胸へ軽く当たった。
以前の工場では、現場で働くための入場証を首から下げていた。今回は違う。会社も、雫が何者で、何を書くために来たのかを知っている。
隠しているものはない。
少なくとも、入場証の表側には。
「耳の後ろ、お願いします」
来客更衣室の衛生担当者に言われ、雫は顔を横へ向けた。
帽子の中へ髪を収めたつもりでも、耳の後ろに一本だけ残っていた。担当者が白い粘着ローラーで取り、確認用の鏡を雫へ向ける。
「首元も見ます」
白衣の襟を少し引かれる。
髪がないことを確認したあと、マスクを着け直すよう指示された。
手洗いは、指先から肘の手前までだった。
流水で濡らす。
石鹼を取る。
掌。
手の甲。
指の間。
親指の付け根。
爪の間。
手首。
掲示された写真と同じ順番で洗い、温風で乾かす。アルコールを擦り込み、青い手袋を着けた。
長靴を履き替え、足裏を洗浄機へ通す。
さらに粘着ローラーを肩から裾まで掛ける。
食品工場へ入るまでに、雫の身体は何度も見られた。
落ちそうな髪。
白衣の隙間。
手の洗い残し。
靴底の汚れ。
本人が気づかないものを、製造区域へ持ち込ませないためだった。
扉の向こうには、薄い酢の匂いがあった。
青嶺デリカ館林チルド工場。
透明な間仕切りの内側を、白衣姿の作業者が行き来している。床には青、緑、赤の線が引かれ、区域の境目ごとに手袋や前掛けの色が変わっていた。
「ここから先は準清潔区域です」
案内担当者が青い線を指した。
「加熱後の製品を扱う区域へ入るときは、もう一度手袋を交換します。包装区域では白い前掛けに替えてください」
雫は貸与されたメモ用紙へ、色と区域を書いた。
原料。
加熱。
冷却。
調合。
包装。
一つのポテトサラダが透明なカップへ入るまでに、いくつもの境目を通る。
境目を越えるたび、人は何かを脱ぎ、何かを着けた。
取材担当者は歩きながら、今回の記事の目的を説明した。
「当社では、工程内で発生する食品原料を可能な限り有効利用しています。再投入原料の管理や、食品ロス削減への取組みを中心に見ていただければと思います」
「再投入原料というのは、売れ残った製品ですか」
「違います。製造工程内で回収され、使用条件を満たした原料です。詳しくは現場から説明します」
担当者は明るく答えた。
「安全とおいしさを両立しながら、捨てる量を減らしていることを紹介していただきたいと考えています」
雫が依頼されたのは、食品業界向けウェブ媒体のタイアップ記事だった。
青嶺デリカは媒体へ広告を出す。
雫には媒体側から原稿料が支払われる。
会社は取材を受け、製造工程を公開する。
予定されている題には、すでに「食品ロスを減らす工場」という言葉が入っていた。
何を見つけるかより、何を書くかが先に決まっている取材だった。
それ自体が不正ではない。
広告記事には広告記事の役割がある。
会社が実際に行っている取組みを、読者へ分かりやすく伝える。
雫は契約書を読み、条件を承知して署名した。
ただし、記事の中で事実と異なる説明をしないこと、取材中に安全や表示上の問題を確認した場合は別途協議することを、自分から条項へ加えていた。
担当者は嫌な顔をしなかった。
そこまで問題が起きるとは考えていなかったのかもしれない。
二月八日。
調合区域の試食室で、小峰美里が二つの小皿を雫の前へ置いた。
「右から食べて」
白いプラスチック皿の上に、ポテトサラダが一口ずつ盛られている。
どちらにも、角の崩れた馬鈴薯と小さく刻まれたにんじんが入っていた。
左の方が、わずかに黄色い。
並べて見れば分かる。
一皿だけ出されたなら、雫には区別できなかった。
美里は四十八歳。
白い帽子から髪は一本も出ていない。目元に細い皺があり、作業着の胸へ青い社員証を付けている。
調合班リーダー。
官能検査員。
工場へ入って二十九年になるという話は、受付でもらった人物紹介資料に書かれていた。

雫は右の皿から食べた。
口へ入れた瞬間、酸味が広がる。
馬鈴薯の形は残っているが、舌で押せば簡単に崩れる。にんじんの甘みのあとに、豆乳マヨタイプ調味料の軽い油分が残った。
「どう?」
「酸味があります」
「ほかは」
「後味が軽いです」
美里は何も言わず、左の皿を顎で示した。
雫は水を一口飲み、次を食べた。
酸味は弱かった。
代わりに、舌の中央へ丸い甘みが残る。卵黄の濃さと、乳成分の重さ。馬鈴薯が同じでも、全体が一段厚く感じられた。
「こっちは濃いですね」
「どっちが好き?」
「私は、左です」
「そう」
「一般にも、こちらの方が好まれそうです」
美里は二つの皿を見た。
「好みは人によるよ」
「工場では、どちらがおいしいかを決めるんですか」
「決めない」
「官能検査をするんですよね」
「するよ」
「味を見る」
「書いてある味かどうかを見る」
美里は左の皿を指した。
「こっちはP-41。濃厚たまごポテトサラダ。卵黄入りのマヨネーズと、乳成分を含む調味液を使ってる」
右を指す。
「こっちはP-42。豆乳マヨのポテトサラダ。卵は原料に使わない」
「味が薄い方が正しい?」
「薄いとは決めてない。酸味と塩分と粘度の範囲がある。原料の馬鈴薯でも変わる」
「それでも、P-42から卵の味がしたら」
「おいしくても駄目」
美里はそう言い、右側のP-42を一口食べた。
目を閉じることも、舌へ意識を集中させるような仕草もない。
噛み、飲み込む。
端末に表示された数値を確認するような顔で、皿を置いた。
「今日のは少し酸味が前に出てる。でも規格内」
「舌で分かるんですか」
「舌だけじゃ決めない」
美里はテーブル脇の記録用紙を引き寄せた。
品温。
pH。
塩分。
粘度。
外観。
香り。
味。
項目ごとに数値や判定が入っている。
「先に測る。最後に食べる。数字が正常でも、味が違えば止める。味が同じでも、数字が外れてたら止める」
「どちらも必要」
「どちらかだけだと、自分に都合のいい方を信じるから」
雫は美里の手元を見た。
美里はP-42の官能欄へ「適」と書き、署名した。
「毎日、同じ味にするのは難しいですか」
「同じにはならないよ」
「ならない?」
「馬鈴薯は畑で作るからね。水分も甘みも違う。切った大きさも、蒸し上がりも少しずつ違う」
「違っていいんですか」
「違いを、同じ商品として出せる範囲へ戻す」
美里は左のP-41を見た。
「濃くした方がおいしい日もある。酸味を強くした方が食べやすい日もある。でも袋に書いてあるものから外れたら、工場の都合で別の食べ物にしたことになる」
「袋ではなく、カップの上のフィルムですね」
「包装の人に言ったら怒られるよ。袋じゃないって」
美里は初めて少し笑った。
試食室を出ると、透明な壁の向こうを銀色の中間ホッパーが移動していた。
車輪付きの大きな容器で、作業者が二人で押している。
側面には白い札が下がっていた。
P-41。
その後ろを、同じ形の銀色のホッパーが通る。
札はP-42。
中を覗ける位置ではなかった。
外側だけなら、区別は札しかない。
「中身を見れば分かりますか」
雫が尋ねると、美里は透明な間仕切りの向こうを見た。
「分かると思わない方がいい」
「色が違います」
「並べたらね」
ホッパーは調合区域の奥へ消えた。
「中身を見て決めるんじゃない。製品コードを見る」
「味では」
「食べるまで分からないでしょう」
雫は試食室の二つの皿を思い出した。
見た目だけでは分からなかった。
食べれば違った。
それでも、どちらがおいしいかは人による。
工場で二つを分けているものは、味より先にある文字だった。
第二節 戻していいもの
四・二キロのポテトサラダは、青い袋へも、ごみ箱へも入らなかった。
白いふた付き容器の中に集められていた。
充填機の横には、まだフィルムを圧着されていない透明カップが流れている。ノズルからP-41が落ち、重量検査へ進む。
生産開始直後は、充填量が安定しない。
少なすぎたカップは、包装される前にラインから外される。カップ自体に割れや汚れがなければ、中身だけを専用容器へ戻す。
床には触れていない。
消費者の手にも渡っていない。
機械から出て、数十秒後には同じ工程の中へ戻るための原料だった。
「空、二・七二」
田淵凌が電子秤の表示を読み上げた。
雫は数字をメモする。
凌は二十四歳。
緑色の社員証を付け、再投入原料の回収と計量を担当している。
白い容器を秤から下ろし、回収したP-41を入れる。
ふたを閉めて、もう一度載せた。
「六・九二」
空容器の重量を引く。
「四・二〇キロ」
凌は端末へ入力した。
製品コード、P-41。
元バッチ、P41-0209-A1。
回収開始時刻。
回収終了時刻。
重量。
品温。
容器のバーコード。
入力を終えると、管理票がプリンターから出た。
美里が受け取り、記録を一項目ずつ確認する。
「品温」
「七・六度です」
「回収開始」
「九時十二分」
「一回目?」
「はい」
「元は全部P-41?」
「重量調整品だけです」
美里は容器のふたへ貼られたラベルを見る。
P-41。
卵・乳・大豆。
再投入一回目。
使用期限、午前十時四十二分。
「使用可」
美里が管理票へ印を押した。
「これを、どこへ戻すんですか」
雫が尋ねる。
「同じP-41の最終調合へ」
「作り終わったものを、もう一度作る?」
「作り終わってない」
美里が答えた。
「包装の手前で外れただけ。工程の中から出て、工程へ戻る」
「再利用というより、続きですか」
「そう考えた方が近いね」
凌が容器を台車へ載せる。
雫も同行した。
調合区域へ入る前に、手袋と前掛けを交換する。容器の外側を消毒し、バーコードを読み取る。
端末に、
投入先 P41-0209-A1
と表示された。
凌は中身を調合釜へ入れた。
四・二キロのP-41が、新しい馬鈴薯と調味液の中へ落ちる。
白い撹拌羽根がゆっくり回る。
数分後には、どこに再投入原料があるのか分からなくなった。
「条件は何ですか」
雫が聞く。
美里は釜の横に掲示された標準書を指した。
「同じ製品コード。同じアレルゲン。回収開始から九十分以内。十度以下。一回だけ。新しいバッチの二・五パーセント以下。三百二十キロなら八キロまで」
「一つでも外れたら」
「戻さない」
「P-41をP-42へ戻すのは」
「絶対に駄目」
「見た目も原料も似ています」
「卵と乳が違う」
「少し混じるだけでも?」
「少しなら卵を使ってないことになる?」
美里の声は強くなかった。
答えを求めているわけでもない。
「なりません」
「なら駄目」
凌が空になった容器を洗浄側へ送った。
「これ、食品を救う仕事だと思うんです」
凌が言った。
「救う?」
「前に飲食店で働いてたとき、閉店したら全部捨ててたんです」
雫はメモを止めた。
「売れ残りを?」
「売れ残りだけじゃないです。仕込みすぎたサラダとか、まだ誰にも出してない煮物とか。翌日へ回せない決まりだったので」
「従業員が持ち帰ることは」
「禁止です。何かあったら店の責任になるから」
凌は洗浄機へ流れていく容器を見た。
「ここは、条件を守れば戻せる。食べられるものを捨てずに済む」
「救っている感じがする」
「します」
美里が管理票をファイルへ綴じた。
「救うって考えると、捨てるときにつらくなるよ」
「捨てなくていいようにする仕事でしょう」
「捨てなきゃいけないときもある」
「基準を外れたら」
「そう」
「その基準が厳しすぎることはないんですか」
「あるかもしれない」
美里はあっさり答えた。
「じゃあ」
「厳しいかどうかを、現場の気分で変えないために数字がある」
翌日、凌は三・八キロのP-42を前に立っていた。
白い容器のふたには、
P-42
豆乳マヨのポテトサラダ
と書かれている。
品温は八・三度。
匂いにも色にも異常はない。
回収したのは、透明カップの供給不良で包装前に外された中身だった。
床へは落ちていない。
前日と同じように、工程内で回収された原料である。
違うのは時刻だった。
「九十七分」
美里が管理票を見た。
「廃棄」
凌は壁の時計を見た。
「七分だけですよ」
「七分超過」
「七分で悪くなったんですか」
「分からない」
「温度は八・三です」
「知ってる」
「匂いも普通です」
「そうだね」
「食べられますよね」
「たぶんね」
「なのに捨てるんですか」
美里は容器のふたを閉めた。
「食べられるものと、戻していいものは同じじゃないよ」
「昨日のP-41と、何が違うんですか」
「九十分を超えた」
「それだけです」
「それだけを決めたんでしょう」
「九十分と九十七分の間で、急に危険になりますか」
「なら、どこまでなら戻す?」
「百十分くらいまでは」
「百十一分は?」
凌は答えなかった。
「百二十分なら?」
「分かりません」
「私も分からない」
美里は廃棄票を端末から呼び出した。
「分からないから、決めた時間を超えたら戻さない」
廃棄票には、再投入管理票より多くの欄があった。
製品コード。
重量。
廃棄理由。
規格超過時間。
推定原料費。
発生原因。
再発防止。
確認者。
製造部長承認。
凌は画面を見た。
「戻すときより多いですね」
「そうだね」
「捨てる方が悪いことみたいです」
「悪いことではあるよ」
「でも必要」
「必要なときもある」
「戻した方が書くものは少ない」
「だから、捨てない理由にしないで」
美里は雫ではなく、凌へ言った。
「書くのが面倒だから戻す。部長に聞かれるから戻す。廃棄率が上がるから戻す。それを始めたら、基準は何のためにあるの」
凌は「規格時間超過」と入力した。
再発防止欄で手が止まる。
「回収が遅れたわけじゃないです」
「包装が詰まって、使うまでに時間が掛かった」
「再発防止は?」
「回収量を早めに見て、次の調合へ入れられるか判断する」
「それで」
「戻せなければ、もっと早く廃棄を決める」
「早く捨てるのが防止ですか」
「使えないものを九十七分持ってたことも、冷蔵庫と容器を使ってる」
美里は自分の社員証を端末へ当て、確認者欄へ署名した。
白い容器は、廃棄区画へ運ばれた。
ふたを開けると、前日に食べたP-42と同じ酸味のある匂いがした。
色も変わらない。
表面に水が浮いているわけでもない。
危険なものには見えなかった。
凌は容器を傾けた。
三・八キロのポテトサラダが、廃棄用の青い袋へ重く落ちる。
「記事には、これも書きますか」
凌が雫に聞いた。
「何をですか」
「食べられるものを捨てたこと」
「書くかもしれません」
「食品ロスを減らしてる記事ですよね」
「減らせなかったものも、食品ロスです」
「会社は嫌がりませんか」
「確認します」
雫はそう答えた。
タイアップ記事の取材メモには、
適合する工程内原料を再投入し、廃棄を削減
と書いてある。
その下へ、
七分超過、三・八キロ廃棄
と付け加えた。
食品ロスを減らす仕組みは、何でも戻すための仕組みではなかった。
戻せないものを決める仕組みでもあった。
第三節 外側の食品
F-2包装ラインでは、透明なカップの中身より、上から降りてくるフィルムの方が鮮やかだった。
淡い黄色。
白。
緑。
商品名。
原材料。
保存方法。
消費期限を印字するための余白。
長いフィルムがロールから引き出され、カップの上へ重なる。熱圧着機を通ったあと、一個分の形に切り分けられていく。
「ふたをする工程ですね」
雫が言うと、真下菜々子は首を横へ振った。
「中身に名前を付ける工程です」
菜々子は三十一歳。
包装ラインリーダーの青い社員証を付けていた。
機械の前では声が通りにくいため、雫の耳元へ少し顔を寄せる。
「透明カップだけだったら、何の商品か分かりますか」
「P-41の方が少し黄色いです」
「一個だけ見て分かります?」
「分かりません」
「なら、名前が必要です」
包装済みのP-41が一つ、確認台へ送られてきた。
菜々子はカップを持ち上げる。
上面フィルムには、
濃厚たまごポテトサラダ
と印刷されている。
原材料表示には、馬鈴薯、マヨネーズ、玉ねぎ、にんじん、乳等を主要原料とする食品。その下に、卵、乳成分、大豆を含むことが記載されていた。
「中身がP-41でも、これがP-42のフィルムだったら出せません」
「味は正しくても」
「駄目です」
「中身を検査すれば、P-41だと分かります」
「買った人は検査しません」
菜々子は製品名を指でなぞった。
「消費者にとっては、この文字までが食品です」
「包装も食品の一部」
「包装そのものを食べるわけじゃないですけど」
「何を食べるかを決めるための一部」
「そうです」
菜々子はP-42のフィルム見本を出した。
P-41と並べる。
色の配置は似ていた。
同じ会社。
同じポテトサラダシリーズ。
同じ内容量。
離れた場所から見れば、文字まで読めない。
P-42には、
たまごを使わない豆乳マヨ仕立て
と書かれている。
原材料表示に卵はない。
その近くに、
本品製造工場では、卵・乳成分を含む製品を製造しています
という注意書きがある。
「同じ工場で卵を使っていることは書いてあるんですね」
「はい」
「なら、少し混じっても」
菜々子の表情が変わった。
怒ったわけではない。
質問の意味を正確に聞こうとする顔だった。
「同じ工場で作っているという表示と、原料として入っていることは別です」
「設備を共有している可能性を伝える注意書き」
「はい。洗浄や切替えで管理していますけど、同じ建物で製造している事実は伝える」
「原料としてP-41が入れば」
「表示が違います」
「量が少なくても?」
「少ないと判断するのは、食べる人です」
菜々子は二枚のフィルムを別々の透明袋へ戻した。
「卵を避けてる人が、同じ工場の製品なら食べると決めるかもしれない。工場も同じなら買わないと決めるかもしれない。原料に卵が入ってるなら、選び方が変わります」
雫は貸与メモへ書いた。
表示は、工場の判断ではなく、食べる人の判断を残すもの。
菜々子が包装機の操作盤を開いた。
「切替えを見ますか」
「お願いします」
この日はP-42からP-41へ変更する。
通常の順番だった。
卵を原料に使わない製品から、卵を含む製品へ移る。
F-2ラインが停止した。
作業者が包装機に残っているP-42製品をすべて取り除く。
カップ。
中身。
フィルム片。
印字済みの試運転品。
それぞれを決められた場所へ分けた。
菜々子は操作盤でP-42の製造終了を入力する。
次に、包装機へ掛けられていたフィルムを外した。
ロールの残量を測り、ラベルへ記録する。
P-42のフィルムを専用袋へ入れ、製品コードを確認してから資材庫へ戻す。
「残ったフィルムを機械の横へ置かないんですか」
「置きません」
「次にまたP-42を作るなら」
「間違えるから」
新しいP-41フィルムが運ばれてきた。
菜々子は包装機へ掛ける前に、ロールのラベルを読む。
「P-41。濃厚たまごポテトサラダ。百八十グラム」
隣の作業者も同じ文字を読む。
二人の確認が終わってから、バーコードを機械へ近づけた。
短い電子音。
画面には、
包材コード一致
と表示された。
「バーコードが合えば動きますか」
「まだです」
菜々子はフィルムを機械へ通す。
カメラが印刷部分を読み取る。
商品名の位置。
色。
アレルゲン表示。
印字枠。
登録された画像と照合し、画面に緑色の判定が出た。
「これで?」
「二人確認」
菜々子ともう一人の作業者が、実際のフィルムを手に取る。
製品コード。
商品名。
内容量。
原材料表示。
切替え先。
一項目ずつ声に出す。
確認端末へ二人が社員証を当てた。
そこで初めて、包装機の運転ボタンが有効になった。
「自分一人では替えられないんですね」
「機械だけでも、人だけでも替えられません」
「これだけ確認しても、フィルム間違いは起きますか」
「起こさないためにやっています」
「起きたことは」
菜々子は一瞬だけ考えた。
「この工場では、出荷後の回収になる間違いはありません」
「出荷前には」
「試運転で別フィルムが残っていたことはあります」
「どうして」
「旧フィルムの切れ端が、機械の奥に残っていました」
「カメラで止まった?」
「はい」
「人は見つけられなかった」
「見えない場所でした」
P-41フィルムでの試運転が始まる。
空のカップへフィルムを圧着する。
シール位置を確認し、次に少量の製品を流す。
菜々子が一個目を手に取った。
フィルムのずれ。
シール部への中身の噛み込み。
印刷の位置。
消費期限欄。
すべてを見る。
合格後、正規品の包装が始まった。
P-41が透明カップへ入り、P-41と書かれたフィルムで閉じられる。
中身と文字が同じ名前になる。
「逆の順番は作らないんですか」
雫が尋ねた。
「P-41からP-42?」
「はい」
「作りますよ」
「卵を含むものから、含まないものへ」
「洗浄とアレルゲン確認が増えます」
「危険では」
「逆だから危険なんじゃないです」
菜々子は包装機から流れてくる製品へ目を戻した。
「逆用の手順を守らないと危険です」
「通常はP-42からP-41」
「その方が切替えは早いです」
「急な注文で逆になることも」
「あります」
「その場合、何を確認しますか」
「中身が終わったこと。残品を出したこと。洗浄が終わったこと。卵のふき取り検査が陰性であること。次のホッパーがつながったこと。製品コード。フィルム」
「全部が終わるまで、次は作らない」
「はい」
「どこからが次の製品になるんですか」
菜々子は操作盤を指した。
「製造指図を切り替えたとき」
次に、フィルムを指す。
「包装では、これを切り替えたとき」
「中身は?」
「ホッパーと配管を切り替えたとき」
「三つある」
「同じ順番で変えます」
「時刻も同じですか」
「秒まで同じにはなりません」
「どれが先ですか」
「製品によります。中身を切り替えて、包装を替えて、製造指図を開始する場合もある。指図を先に準備状態へする場合もあります」
「別々に記録される?」
「はい」
「なら、その間に流れているものは」
「ラインクリア品か試運転品です。正規品にはしません」
菜々子の答えに迷いはなかった。
境目には、どちらの商品でもない時間がある。
旧製品を出し切る。
機械を洗う。
新しいフィルムを掛ける。
新しい中身を接続する。
試運転する。
その間に作られたものは、正規品として出荷しない。
「再投入原料は、その境目でどうなりますか」
雫が尋ねた。
「中身の担当へ聞いてください」
「包装では見ない?」
「再投入の容器は、包装区域の外です」
「中身が残っているかどうかは」
「調合から終了連絡を受けます」
「無線で?」
「無線と端末です」
「どちらが優先ですか」
「通常は同じです」
菜々子は、流れてきたP-41を一つ持ち上げた。
フィルムに印刷された製品名が、天井の光を反射する。
「包装は、中身が正しい前提で包みます」
「調合は?」
「正しいフィルムが付く前提で送るでしょうね」
「互いに相手が正しいと」
「そうしないと、ラインは動かせません」
包装機の画面には、P-41の製品名が表示されていた。
中身が流れてくる前から、機械は次に何を包むかを知っていた。
機械が知っているのは、設定された製品コードだった。
透明カップの中身を食べて確かめるわけではなかった。
第四節 同じ銀色
再投入原料の容器は、製品ごとに色が違うものだと、雫は思っていた。
卵と乳成分を含むP-41は黄色。
卵を原料に使わないP-42は白。
それなら、文字を読まなくても間違いに気づける。
実際に再投入室へ並んでいたのは、同じ白い容器だった。
四角い本体。
丸みのある角。
密閉用のふた。
両側の取っ手。
大きさも形も同じだった。
「色分けしていた時期もあるんですか」
雫が尋ねると、斎木敬介は容器の側面へ貼られたバーコードを確認しながら答えた。
「試験的には」
「やめたんですか」
「やめたというより、足りなくなりました」
斎木は品質保証主任の青い社員証を付けていた。三十八歳。アレルゲン管理と包装表示の照合を担当している。
再投入容器は、製品数の増加に追いついていなかった。
当初はアレルゲン区分ごとにふたの色を変える案があった。
卵・乳成分を含む製品。
小麦を含む製品。
特定原材料を原料として使用しない製品。
しかし、現場では同じ容器を複数の用途で回さなければ数が足りない。洗浄中の容器や、破損して交換待ちの容器もある。
現在の識別方法は、
ふたのラベル
容器のバーコード
再投入原料管理票
一時保管棚の位置
だった。

「色を変えた方が簡単では」
「簡単です」
「では、なぜ」
「買えば済みます」
斎木の答えは短かった。
「購入申請は出しています。ただ、容器だけ替えれば終わりではありません。色の定義、洗浄後の保管場所、色覚に配慮した識別、破損時の代替運用。標準書も教育資料も直します」
「次の予算で?」
「予定では」
「安全に関わるなら、すぐには買えないんですか」
斎木は雫を見た。
「今の方法が安全基準を満たしていないなら、使用を止めます」
「満たしている」
「ラベルとバーコードで識別できるようにしてあります」
「でも、色が違えば、もう一つ確認が増える」
「増えます」
「その一つを増やすのに予算が要る」
「はい」
斎木は言いにくそうにはしなかった。
「食品工場に、金額を考えず増やせる安全対策はありません」
雫は容器を見る。
白いふたの中央に、P-41と印刷されたラベルが貼られている。
その下に、卵、乳、大豆。
隣の容器にはP-42。
大豆。
文字を読めば違う。
離れて見れば、同じだった。
「色分けの申請が通るまでは、この方法で間違えないようにする」
「そうです」
「間違えたことは」
「再投入先を誤った記録はありません」
「容器を取り違えかけたことは?」
斎木はすぐに答えなかった。
「バーコード照合で止まったことはあります」
「何回ですか」
「直近一年で三件」
「三件とも出荷前?」
「投入前です」
「人が間違えて、機械が止めた」
「置き場が違ったものを取った。ラベルを読み違えた。前の製品コードが端末に残っていた。理由は別です」
「色が違えば防げた可能性は」
「あります」
斎木は隠さなかった。
「ただ、色が違っても、同じ製品を違うバッチへ戻す間違いは防げません。色は確認を一つ増やしますが、全部を防ぐものではないです」
雫は貸与メモへ、
安全対策は、一つ増やせば終わるものではない。
と書いた。
書いてから、広告記事には使いにくい文章だと思った。
食品ロス削減を紹介する記事で、容器購入の未承認を詳しく扱えば、会社の取組みより弱点が前へ出る。
だからといって、見たものを忘れる理由にはならない。
調合区域には、容器より大きな銀色の中間ホッパーが並んでいた。
高さは雫の胸ほど。
円筒形の本体の下に漏斗状の底があり、車輪付きの台座へ固定されている。
側面には接続用の金属管。
上部はふたで閉じられ、中身は外から見えない。
H-1。
H-2。
白い札が吊られている。
「H-1がP-41ですか」
「今日の予定では」
美里が答えた。
「毎日固定ではないんですか」
「製造計画で変わる」
「では、H-1という番号だけでは中身が分からない」
「分からないよ」
「銀色で同じ形です」
「だから札を見る」
美里はH-1の札を裏返した。
裏面には、
洗浄済み
使用待ち
と書かれている。
「空なら製品コードは付けない。調合品を入れたら、バッチ札を付ける。バーコードを読んで、接続先と合わせる」
「中を見ては」
「決めない」
「P-41は黄色く、P-42は白い」
「照明で変わるよ」
「味見は」
「接続のたびに食べるの?」
「できません」
「なら、札を見る」
美里は凌を呼んだ。
「田淵君。これ、何?」
凌はH-1の札を見る。
「P-41、二月十七日B直一釜目。バッチ番号P41-0217-B1」
「中を見ないの?」
「見ません」
「どうして」
「似てるから」
「もう一つ」
「接続履歴を見ます」
凌はホッパーのバーコードを端末で読み取った。
画面に製品コードと調合時刻が出る。
「それでいい」
美里が言った。
「中身を見て、たぶんこっち、はやらないで」
「はい」
雫は二人のやり取りを聞きながら、銀色の表面へ映る白衣姿を見ていた。
人も、容器も、照明も、曲面の中で歪んでいる。
外側が同じものほど、文字と記録へ頼らなければならない。
二月二十二日の午後、再投入ラベルのプリンターが止まった。
電源を入れ直しても、紙が送られない。
画面には、
通信エラー
と表示されている。
「手書き運用へ切り替えます」
斎木が言った。
「復旧するまで、管理票とラベルを手で書いてください。製品コード、元バッチ、回収開始時刻、使用期限、アレルゲン区分」
凌が油性ペンと無地のラベルを取った。
「時刻は端末を見ますか」
「端末が使えるところは端末。再投入室では時計で」
壁の高い位置に、丸い時計が掛かっていた。
白い文字盤。
黒い針。
秒針はない。
「秒は?」
「手書き記録は分までです」
凌は時計を見た。
午後四時十一分。
ラベルへ、
16:11
と書く。
雫も時計を見た。
自分の腕時計との差を確かめることはしなかった。
数分単位で原料を管理している工場の時計が、合っていないとは考えなかった。
「プリンターが止まったら、バーコード照合はできないんですか」
「容器のバーコードは生きています」
斎木が答えた。
「手書きにするのは中身の表示です。端末の製造履歴と管理票は残ります」
「人が書く部分だけ増える」
「はい」
「書き間違いは」
「二人で確認します」
凌が書いたラベルを美里へ見せる。
美里が製品コードとバッチ番号を読み上げ、管理票と照合した。
最後に、ラベルを容器のふたへ貼る。
機械が印刷していた文字より、凌の字は太かった。
Pと4と1の間隔が狭い。
それでも判読できる。
夕方までにプリンターは復旧した。
手書き運用は二時間足らずで終わった。
時計が正しいかを確認する作業は、復旧手順に入っていなかった。
翌日、美里の声が一時保管棚の前で響いた。
「これ、誰が置いたの」
P-41の回収容器とP-42の回収容器が、同じ棚の上下に置かれていた。
上段がP-41。
下段がP-42。
ラベルは正しい。
ふたも閉じている。
管理票はそれぞれのクリップへ留められていた。
凌が台車を止めた。
「俺です」
「製品が違うものを、同じ棚へ置かないで」
「上下で分けました」
「同じ棚でしょう」
「ラベルもバーコードもあります」
「一つ間違えても止まる置き方にするの」
「一つ?」
「ラベルを見落とした。バーコードを読まなかった。管理票を取り違えた。どれか一つやっても、置き場所が違えば気づける」
「棚が空いてなかったんです」
「なら呼んで」
「すぐに使う分でした」
「すぐでも」
美里は下段のP-42を別の棚へ移すよう指示した。
凌が容器を台車へ載せる。
「標準書には、同じ棚へ置くなって書いてありますか」
「書いてない」
「なら、俺が違反したわけでは」
「違反じゃないよ」
「でも怒られた」
「怒ってない」
美里の声は、怒っているように聞こえた。
「間違える前に直してる」
「何も起きてません」
「起きてから決めるの?」
凌は黙った。
P-42容器を別の棚へ運ぶ。
雫は美里へ近づいた。
「標準書を変えますか」
「変えた方がいいね」
「申請する?」
美里は空き棚を見た。
「今日は忙しいから、あとで」
「同じ棚へ置くこと自体は禁止されていない」
「ラベル管理ができていれば規定内」
「でも、危ないと感じた」
「私はね」
「斎木さんへ言えば」
「言うよ」
美里は管理票を取り、次の製品を確認し始めた。
その日の終業まで、標準書変更の申請書は作られなかった。
翌日は生産順変更の打合せがあった。
さらに翌日は追加発注への対応。
一時保管棚の注意は、B直の引継ぎで口頭共有された。
違う製品は別の棚へ。
文字として残ったのは、その日の引継ぎメモだけだった。
雫は黒いノートへ、
間違いが起きる前の注意は、記録になりにくい。
と書いた。
食品ロス削減の記事に必要な一文か、判断できなかった。
誰も間違えていない。
何も混じっていない。
標準書にも違反していない。
美里が気になり、置き場所を変えただけだった。
雫は一文に線を引いた。
消したあとにも、筆圧の跡だけが残った。
銀色のホッパーと白い容器は、空のときには札を見なければ区別できなかった。
中身が入ったあとも、文字を見なければ区別できなかった。
第五節 逆から作る日
食品ロス削減会議の資料には、廃棄されたポテトサラダの重量が月ごとに並んでいた。
一月、二・八トン。
二月、二・六トン。
三月、二・九トン。
原料の端材ではない。
加熱し、冷却し、調味し、人が確認したあとで、製品にならなかった食品の重さだった。
瀬良浩之は資料の前へ立ち、前年実績を説明した。
五十二歳。
製造部長。
青嶺デリカへ入って三十年。
包装ラインから製造課長を経て、現在は原料、調合、包装、製造計画を管轄している。
「今年度は、食品廃棄率を前年比一五パーセント削減します」
会議室の壁へ、赤い数字が映る。
「再投入可能な工程内原料については、適合品の八五パーセント以上を使用する。現在は七六パーセントです」
瀬良は次の資料へ進んだ。
廃棄理由。
規格時間超過。
切替え残。
計画変更。
充填重量調整。
包装不良。
「確認しておきます。基準外品を戻せという意味ではありません」
瀬良は全員を見た。
「時間、温度、製品コード、アレルゲン区分、再投入回数。どれか一つでも外れたものは使用しないでください」
美里が腕を組んだまま聞いている。
凌は資料の余白へメモを取っていた。
「一方で、基準内なのに廃棄した場合は、理由を残してください」
凌が顔を上げた。
「再投入できなかった理由ですか」
「そうです」
「容器が足りなかったとか」
「記録してください」
「次の調合が遅れた場合は」
「時間を含めて」
「味が少し違った場合は」
「数値と官能判定。品質保証の判断も付ける」
瀬良は机へ両手を置いた。
「捨てれば安全、ではありません。食材を作った人がいる。水も電気も使っている。ここまで運んで、蒸して、冷やして、混ぜている。規格内のものを、面倒だから捨てることも認めません」
面倒だから。
雫は廃棄票の項目数を思い出した。
再投入なら班長確認。
廃棄なら部長承認。
捨てる方が、理由を多く求められる。
「食品安全より目標が優先されることはありますか」
雫が尋ねた。
瀬良は驚かなかった。
「ありません」
「現場がそう受け取る可能性は」
「あると思います」
「対策は」
「基準外品を再投入した場合は、削減実績に入れません。教育でも繰り返します」
「基準内か迷ったときは」
「品質保証へ確認する」
「確認している間に九十分を超えたら」
「廃棄です」
「廃棄率は上がる」
「上がります」
「担当者の評価は」
「基準どおりなら下げません」
「理由は聞く」
「聞きます」
瀬良は言葉を濁さなかった。
「理由を聞かなければ、改善もできません」
会議が終わると、凌は資料を折らずに持って出た。
廊下で美里へ追いつく。
「戻せるものを捨てたら、評価が下がりますか」
「下がらないって言ってたでしょう」
「理由があれば」
「そう」
「理由を聞かれる」
「聞かれるね」
「戻せば聞かれない」
美里の足が止まった。
「再投入票も見られるよ」
「班長確認で終わります」
「条件が合っていればね」
「廃棄は部長まで行く」
「だから、戻す方が正しいと思い込まないで」
「思い込んでません」
「食べられるものを救うって言ってたでしょう」
「悪いですか」
「悪くないよ」
美里は資料を持つ凌の手を見た。
「ただ、救う側にいたいと思ったら、捨てる判断が遅れる」
「七分超過みたいに?」
「そう」
「本当に七分で捨てる必要があったか、まだ分かりません」
「基準を変えたいなら、データを出して変える。作業中に自分で延ばさない」
「分かっています」
「ならいい」
美里は歩き出した。
凌は少し遅れて後を追った。
二月二十四日、小売店からP-42の追加発注が入った。
豆乳マヨのポテトサラダ。
翌日午前の出荷へ間に合わせるため、B直の後半へ追加生産する。
すでにP-41の製造計画が組まれていた。
通常なら、卵を原料に使わないP-42を先に作り、そのあとで卵を含むP-41へ切り替える。
翌日は逆になる。
P-41。
洗浄。
アレルゲン確認。
P-42。

「逆順で行います」
製造計画担当者が打合せで説明した。
「P-41最終包装後、F-2ラインをクリア。充填ノズル、接続配管、切替弁を洗浄。P-42開始前に卵たんぱくふき取り検査を実施します」
斎木が手順書を開く。
「包装機側はフィルムを外す前にP-41残品数を確認してください。調合側はH-1残量ゼロと再投入原料の処理終了を報告。洗浄開始は、そのあとです」
菜々子が確認する。
「再投入の最終判断は誰ですか」
「小峰さん」
「投入作業は」
「田淵君」
「終了連絡は」
「調合側から無線と端末」
斎木は一覧へ印を付ける。
「P-42用H-2は、洗浄完了まで接続しない。フィルムは準備して構いませんが、包装機へ掛けるのはP-41運転終了後です」
雫は打合せの端に座っていた。
「いつもと逆で、危なくないんですか」
菜々子が答えた。
「逆だから危険なんじゃないです」
「卵を含む製品のあとに、卵を使わない製品を作る」
「だから洗浄する」
「いつもより確認が増える」
「増えます」
「通常順なら必要ない?」
「設備洗浄はします。ただ、アレルゲンのふき取り確認を増やします」
「逆用の手順を守れば作れる」
「そうです」
菜々子は製造順を指で追った。
「中身が終わる。残品を出す。洗う。陰性を確認する。次のホッパーをつなぐ。製品コードを替える。フィルムを替える。試運転する」
「一つずつ確認する」
「一つを飛ばして、ほかが正しいから大丈夫、にはしない」
斎木が続けた。
「P-42のフィルムを付ける前に、卵の洗浄確認まで終わっている必要はありますか」
雫が尋ねる。
「空運転なら、フィルム準備と洗浄確認を並行する場合があります」
「フィルムだけ先にP-42になることも?」
「中身を流さなければ」
「正規品は作らない」
「はい」
「製造指図は」
「準備状態へ切り替えることはあります。正規運転は、すべての確認が終わってからです」
工程は一斉には変わらない。
中身。
配管。
製造指図。
包装フィルム。
それぞれの担当者が、前の工程の終了を確認して切り替える。
すべてが揃った時点から、次の商品になる。
「明日、どこを取材しますか」
担当者が雫へ尋ねた。
「再投入原料が戻るところから、包装フィルムが切り替わるところまで見たいです」
「区域が違うので、途中で着替えが必要です」
「間に合いますか」
「切替えには時間があります」
雫は翌日の取材メモに書いた。
食べられるものを捨てない工程から、表示を切り替えるところまで。
記事の構成が見え始めていた。
最初に、食品ロスの数字。
次に、四・二キロの再投入。
期限を七分超えた三・八キロの廃棄。
最後に、包装フィルムを二人と機械で確認する場面。
廃棄を減らしながら、表示と安全を守る工場。
依頼された記事の題に、そのまま収まる内容だった。
第六節 今日の方がおいしい
二月二十五日、午後一時五十五分。
B直の夕礼で、菜々子が製造順を読み上げた。
「F-2ライン。P-41濃厚たまごポテトサラダ。終了後、ラインクリア、洗浄、アレルゲン確認。続いてP-42豆乳マヨのポテトサラダ」
作業者たちが復唱する。
包装機の脇には、P-42用フィルムのロールが準備されていた。
まだ透明袋に入ったまま、製品コードが見える向きで専用台へ置かれている。
凌は再投入容器を確認した。
洗浄済み。
ふたに破損なし。
バーコード読取り正常。
管理票R-214。
美里はP-41最終調合の予定量と、再投入可能量を照合する。
「戻しは八キロまで」
「はい」
「回収開始から九十分」
「はい」
「P-41だけ」
「分かってます」
「P-41が終わったら?」
「戻さない」
「迷ったら?」
「呼びます」
美里が凌の返事を聞き、雫へ向いた。
「今日は後半に切替えがあるから、いつもより動くよ」
「何か起きやすい?」
「起きないように動くの」
午後七時四十八分。
P-41最終バッチの調合が終わった。
品温八・一度。
pH、塩分、粘度は規格内。
美里が試食し、官能欄へ適合と記入する。
淡い黄色のポテトサラダが、調合釜からH-1ホッパーへ移された。
午後八時六分。
F-2包装ラインでP-41の充填が始まった。
透明カップが一分間に三十八個送られてくる。
ノズルが下がる。
百八十グラムの中身が落ちる。
カップが進む。
P-41の包装フィルムが上から重なり、熱で閉じられる。
同じ動きが途切れず続く。
雫は包装区域から調合区域へ戻り、再投入原料の取材準備をした。
午後八時五十分。
美里の無線が鳴った。
「小峰さん、マカロニ二号釜、粘度上限です」
別の調合ラインだった。
新しいマカロニ原料の吸水が強く、規定量の調味液では粘度が上がりすぎているという。
美里は端末を確認する。
「いま行きます」
P-41の工程へ視線を戻し、凌を呼んだ。
「田淵君」
「はい」
「P-41の戻しは八キロまで。回収開始から九十分。同じP-41へ」
「はい」
「最終調合が閉じる前に入れる」
「分かりました」
美里は管理票の使用可否承認欄へ印を押した。
回収量。
回収終了時刻。
再投入時刻。
投入者。
それらの欄はまだ空白だった。
「これは、何を確認した印ですか」
雫が聞いた。
「条件内なら、P-41へ戻していいという承認」
「投入を見たという意味ではない」
「まだ投入してないでしょう」
美里は答え、マカロニ調合ラインへ向かった。
凌は印の付いた管理票をクリップへ挟んだ。
「小峰さんが戻るまで待たなくていいんですか」
「承認はもらってます」
「実際に入れるところは誰が確認する?」
「投入者と、端末の照合です」
「班長は」
「毎回横には立ちません」
「印があると、立ち会ったように見えます」
凌は管理票を見た。
「使用可否の印です」
「欄には確認者とだけ書いてあります」
「みんな意味は知ってます」
凌は作業へ戻った。
雫は空欄の並ぶ管理票を見た。
確認者。
何を確認した人なのかは、帳票の外にある手順を知らなければ分からなかった。
午後九時二十八分。
P-41の充填が終盤へ入る。
重量調整品と、ホッパーの底に残った原料が白い容器へ集められた。
凌がふたを閉める。
P-41。
元バッチP41-0225-B2。
卵・乳・大豆。
再投入一回目。
ラベルを貼り、再投入室へ運ぶ。
雫も後を追った。
午後九時三十六分四秒。
電子秤へ容器が載った。
表示は九・一二キロ。

「空容器、二・七二」
凌が差し引く。
「六・四〇キロ」
品温計を差し込む。
「七・八度」
回収開始から八分。
比率は最終バッチ三百二十キロに対して二パーセント。
すべて基準内だった。
凌が管理票へ記入する。
回収開始 21:28
回収終了 21:36
重量 6.4kg
品温 7.8℃
再投入時刻は空欄のまま。
「これは全部戻せますか」
雫が尋ねる。
「P-41が閉じる前なら」
「どこへ運ぶ?」
「最終分です」
凌はふたを押さえた。
「調合釜ですか、ホッパーですか」
「ラインの残量で変わります。いま確認します」
午後九時四十分。
P-42用のH-2ホッパーが調合区域から移動してきた。
銀色の本体。
側面の白い札に、P-42とある。
まだF-2ラインへは接続されない。
洗浄とアレルゲン確認を待つため、指定位置で停止した。
雫の前に、H-1とH-2が並ぶ。
札を隠せば、同じだった。
午後九時四十四分。
包装区域から菜々子の無線が入る。
「調合、P-41あとどれくらいですか」
美里は別の釜にいる。
凌は再投入室で容器のラベルを整えていた。
無線に応答したのは、調合側の応援者だった。
「もう終わりです。クリアへ入ります」
「了解。包装も残品クリアへ入ります」
雫は調合区域と包装区域を隔てる透明な壁の前にいた。
「もう終わり、というのは」
応援者へ尋ねる。
「新しい原料の充填が終わるってことです」
「再投入分は」
「田淵君がやってます」
「包装側は、それを知っていますか」
「あとで端末に出るでしょう」
無線の「もう終わりです」が何を指すのか、言葉だけでは分からなかった。
新しい調合品が終わった。
通常の包装予定数へ達した。
P-41として流すものがすべてなくなった。
同じ言葉が、三つの意味を持てた。
午後九時四十八分。
F-2ラインのP-41包装数が計画数へ達した。
菜々子は残品クリアを開始する。
搬送部に残るカップ。
充填ノズルの直下。
シール前の製品。
包装済みの最終品。
一つずつ数え、予定数と照合する。
雫は包装区域へ移るため、前掛けと手袋を交換した。
区域を越える数分の間、調合側は見えなくなった。
午後九時五十一分。
斎木が充填ノズルと接続部のふき取り検査を始めた。
綿棒で金属面を拭い、試薬へ入れる。
表示は陰性。
「切替弁は?」
菜々子が尋ねる。
「洗浄後に確認します。包装機側は準備へ入ってください」
午後九時五十五分二秒。
包装機の画面で、P-41運転終了が指示された。
菜々子が残量を記録する。
午後九時五十五分四十八秒。
P-41用フィルムを取り外す。
ロールを専用袋へ入れ、製品コードのラベルを外側へ向ける。
午後九時五十六分三十四秒。
P-42用フィルムのバーコードを読み取る。
画面に、
包材コード一致
と表示された。
午後九時五十六分四十一秒。
MESの準備製品コードと照合。
午後九時五十七分六秒。
印刷画像カメラ確認、適合。
午後九時五十七分十二秒。
菜々子ともう一人の作業者が、フィルムの現物確認を終えた。
P-42。
豆乳マヨのポテトサラダ。
百八十グラム。
たまごを使わない豆乳マヨ仕立て。
二人が社員証を端末へ当てる。
包装機の表示がP-42へ切り替わった。
「これで、包装側はP-42です」
菜々子が雫へ言った。
「中身はまだ?」
「接続確認待ちです」
「P-41の再投入原料は」
「調合から終了連絡を受けています」
「再投入が終わったという連絡ですか」
「P-41が終わったと聞きました」
菜々子は不安そうには見えなかった。
手順どおりに、旧フィルムを外し、新フィルムを装着し、バーコードと画像と現物を確認した。
包装機の中にP-41フィルムは残っていない。
午後九時五十八分五秒。
MES上でP-41の製造指図が終了する。
午後九時五十九分三十秒。
P-42製造指図が開始された。
画面上では、調合も包装もP-42の製造へ移っている。
午後十時ちょうどを少し過ぎたころ、凌が包装区域の外側を通った。
白い再投入容器を台車へ載せている。
ふたは閉じられていた。
雫は透明な間仕切り越しに見ただけだった。
ラベルの文字までは読めない。
凌は雫に気づかず、再投入室の方向へ消えた。
午後十時三分十八秒。
P-42フィルムでの試運転が始まる。
最初は空カップ。
シール位置。
フィルムのずれ。
印刷の向き。
次に、少量の製品を流す。
試運転品は正規品と別のトレーへ入る。
菜々子が一個ずつ確認する。
午後十時六分四十二秒。
P-42正規品の包装が始まった。
透明カップへ、P-42として接続されたホッパーの中身が落ちる。
上からP-42のフィルムが重なる。
熱圧着。
印字。
シール検査。
重量検査。
画面には緑色の適合表示が続いた。
午後十時十二分。
斎木が最初の保管サンプル六個を採取した。
一個目。
二個目。
三個目。
製造時刻帯が連続するよう、約一分間隔で抜き取る。
六個を専用箱へ入れ、品質保証室の冷蔵庫へ運ぶ。
「毎回六個ですか」
雫が尋ねる。
「製造開始時、途中、終了時で採ります。今日は逆順切替えなので、開始直後を多くしています」
「何を確認する?」
「外観、味、表示、微生物、必要に応じてアレルゲン」
「卵の検査も?」
「切替え確認が陰性なので、通常は保管だけです。違和感があれば調べます」
午後十時十八分。
取材用のP-42が小皿へ取り分けられた。
雫は帽子とマスクを外せる試食室へ移った。
最初の週に食べたP-42より、色が少し濃いように見えた。
隣へ比較品がないため、照明のせいかもしれない。
スプーンですくう。
口へ入れる。
酸味が弱かった。
豆乳マヨタイプ調味料の軽い後味より先に、舌へ厚みが残る。
馬鈴薯がいつもより甘いのか。
調味液がよくなじんでいるのか。
「今日の方がおいしい気がします」
雫は取材担当者へ向けて言った。
記事に使いやすい言葉だった。
通常品よりおいしく感じる食品ロス削減製品。
再投入原料によって味が安定した、という説明へつながるかもしれない。
ちょうど戻ってきた美里が、雫の小皿を見た。
「P-42?」
「はい。今日の方がおいしいです」
美里は新しいスプーンで一口取った。
噛む。
舌の上で確かめる。
飲み込んだあと、すぐに答えなかった。
「どうですか」
「少し重い」
「濃い?」
「酸味が引っ込んでる」
「規格外ですか」
「まだ分からない」
美里は品質記録を確認した。
pH。
塩分。
粘度。
品温。
すべて規格内。
「馬鈴薯のロットが変わりましたか」
美里が調合担当者へ尋ねる。
「同じです」
「調味液は」
「P-42用。計量履歴も合っています」
「豆乳マヨは」
「ロット切替えなし」
斎木も試食する。
「通常より丸い気はします」
「卵っぽいですか」
雫が尋ねると、斎木はすぐに首を横へ振った。
「官能だけで決めません」
「味が違っても?」
「馬鈴薯の水分や混合状態でも変わります」
「止めますか」
斎木は製造記録を見る。
「pH、塩分、粘度は規格内。洗浄確認も陰性。外観差も判定限度内です」
「では出荷する?」
「翌朝の出荷判定までは保管です」
「いま止めるほどではない」
「官能だけでロットを廃棄するほどの差ではありません」
美里はもう一口食べた。
「おいしいかどうかじゃない」
「何ですか」
「P-42として重い」
午後十時二十四分。
P-42の包装が終了した。
製品は箱詰めされ、出荷冷蔵庫へ移された。
出荷判定が出るまで、冷蔵庫から先へは動かない。
雫は試食メモへ、
酸味弱い。丸い。通常より濃厚。美里「少し重い」。
と書いた。
食品ロス削減の記事なら、
再投入原料も含め、調合班が毎日味を確かめ、品質を整えている
という場面に使える。
美里は空になった試食皿を見ていた。
「おいしくなった理由が分からないものは、改善じゃないよ」
第七節 三つの時計
翌朝七時三十三分、雫のスマートフォンが鳴った。
青嶺デリカの取材担当者だった。
「昨日のP-42について確認事項が出ました」
声が低かった。
「出荷前ですか」
「全量保留しています」
「何が出たんですか」
「卵の簡易検査で、反応がありました」
雫は布団から起き上がった。
「卵が入っていた?」
「まだ確定していません。弱い反応です。品質保証が記録を調べています」
「工場へ行っても?」
「斎木から、昨日の取材記録を確認したいと言われています」
雫は四十分後に工場へ着いた。
来客更衣室で白衣へ着替える。
耳の後ろ。
首元。
手洗い。
手袋。
前日と同じ確認を受ける。
製造区域へ入る前に、品質保証室の会議スペースへ案内された。
机の上に、六個の保管サンプルが並んでいる。
一個だけ、ほかより黄色が濃く見えた。
並べたから分かる程度だった。
斎木が検査記録を雫へ見せた。
「午前六時四十分に、A直担当者が色差を確認しました」
「一個だけ?」
「最初は一個です」
「味は」
「午前六時五十五分に複数人で官能確認。通常より酸味が弱いという意見が一致しました」
雫は前夜のメモを出した。
酸味弱い。
丸い。
通常より濃厚。
「卵の検査は」
「午前七時十二分。六個中一個が弱陽性」
「ほかは陰性」
「最初の検査では」
「最初?」
「別のサンプルで再検査しました」
午前七時四十六分。
二個目から、ごく弱い反応。
検査に使った器具と作業台のふき取りは陰性。
「製品に卵由来成分がある?」
「可能性は上がりました」
「混入したと考えている」
「外部機関の確定検査前です。簡易検査には誤反応もあります」
「それでも保留した」
「出荷してよい根拠がありません」
対象ロットは午前七時二十八分に出荷保留。
同じ時間帯に包装した製品も、移動禁止。
出荷冷蔵庫の端末上で赤い保留表示へ変更されていた。
「瀬良さんは」
「連絡しました」
「何と?」
「根拠を増やしてから判断するように、と」
「出荷を急がせていない」
「当たり前です」
斎木の声が少し硬くなった。
「卵を使っていないと表示した製品です。量が少ないからいい、とは決められません」
「同じ工場で卵を使っている注意書きがあります」
「原料として入っている可能性とは別です」
「食べる人が決めるための表示」
雫が言うと、斎木は頷いた。
「工場が、これくらいなら食べられると代わりに決めるものではありません」
会議室へ菜々子が入ってきた。
白衣のまま、包装機のログを印刷した紙を持っている。
そのあとに凌。
美里。
四人とも前夜のB直だったが、連絡を受けて出勤していた。
凌の顔色が悪かった。

「昨日の再投入原料を確認します」
斎木が机へ管理票を置いた。
再投入原料管理票R-214。
元製品 P-41
元バッチ P41-0225-B2
回収開始 21時28分
回収終了 21時36分
重量 6.4キロ
品温 7.8度
使用可
再投入先 P41-0225-B2最終分
再投入時刻 21時54分
投入者 田淵凌
確認者 小峰美里
「この記録どおりなら」
斎木が言う。
「P-41再投入原料は、P-42への切替え前にP-41へ戻っています」
凌が頷いた。
「戻しました」
「どこへ」
「P-41の最終分です」
「調合釜ですか。H-1ですか」
凌の返事が止まった。
「最終の戻し口です」
「どちらですか」
「切替弁の手前です」
「接続先は」
「P-41だったはずです」
「見ましたか」
「製品コードを確認しました」
「何の表示を」
「投入側の札です」
斎木は管理票へ目を戻した。
「小峰さん。この印は」
「使用可否の承認です」
「午後九時五十四分の投入を見ましたか」
「見てません」
「印だけを見ると、実投入の確認者にも読めます」
「欄が一つしかないから」
「運用上は」
「事前承認です」
「全員がそう理解していますか」
美里は凌を見た。
「田淵君は?」
「承認をもらったと思ってます」
「投入確認とは?」
「思ってません」
斎木は管理票の写しへ線を引いた。
「承認と実投入確認を分ける必要があります」
「いまは、どこへ入ったかでしょう」
美里が言う。
「そうです」
午前八時三分。
斎木がこの管理票を最初に確認した時点では、P-42への混入可能性を低いと見ていた。
再投入時刻は午後九時五十四分。
包装フィルムを切り替える前。
P-41の製造指図もまだ有効だった。
「包装側のログです」
菜々子が紙を机へ置いた。
P-41運転終了指示 21時55分02秒
P-41旧フィルム取外し 21時55分48秒
P-42新フィルム読取り 21時56分34秒
製品コード照合 21時56分41秒
画像確認 21時57分06秒
二人確認完了 21時57分12秒
「P-42フィルムへの切替え確定は、午後九時五十七分十二秒です」
菜々子が言った。
「管理票の午後九時五十四分が正しければ、その三分十二秒前です」
「ならP-41ですね」
凌が言う。
「包装表示としては」
菜々子が答えた。
「午後九時五十七分十二秒より前ならP-41です」
「だからP-42へは入っていない」
「包装機の話です」
「中身もP-41だった」
「私は中身を見てません」
「P-41が終わったと聞いて、替えたんですよね」
「調合から終了連絡を受けました」
「俺には、P-41へ戻せって指示がありました」
「私は知りません」
二人の声が重なった。
斎木が手を上げた。
「責任の話はまだしません。時刻を揃えます」
午前八時二十四分。
包装機ログと管理票を並べても、矛盾はなかった。
午後九時五十四分に再投入。
午後九時五十七分十二秒にフィルム切替え。
時間順には成立する。
問題は、再投入原料の容器だった。
「電子秤の履歴を見ます」
斎木が端末へログインした。
再投入室の秤は、計量するたび重量と時刻を自動保存している。
空容器。
回収後。
再投入後。
容器のバーコードから履歴を呼び出す。
21時27分42秒 2.72キロ
21時36分04秒 9.12キロ
「空容器と回収後です」
差は六・四〇キロ。
管理票と一致する。
次の履歴を開く。
22時01分26秒 2.72キロ
会議室の空気が変わった。
「これは」
美里が画面へ顔を近づけた。
「再投入後、空になった容器を量った時刻です」
「午後十時一分?」
凌が言った。
「そんなに遅くないです」
「秤のログはサーバー同期です」
「俺は九時五十四分って書きました」
「書いた時刻と、実際の時刻が違います」
「あとから書いたって言いたいんですか」
「まだ何も言っていません」
「書き直してません」
凌の声が強くなった。
「最初から九時五十四分です。小峰さんの印もある」
「私の印は、その時刻の確認じゃない」
美里が言う。
「分かってます」
「なら、印を盾にしないで」
「盾にしてません」
雫は二人の間に置かれた管理票を見た。
午後九時五十四分。
手書き。
電子秤は午後十時一分二十六秒。
七分以上の差。
「投入したあと、すぐ秤へ載せたんですか」
雫が尋ねた。
斎木が凌を見る。
「どうですか」
「空になったら戻します」
「途中で別の作業をした可能性は」
「ふたを閉めて、台車で運ぶくらいです」
「七分掛かる?」
「掛かりません」
「容器が空になったのは、午後十時一分に近い」
「でも時計は九時五十四分でした」
凌は同じことを繰り返した。
斎木が顔を上げる。
「どの時計を見ましたか」
「再投入室です」
「端末ではなく?」
「壁の時計です」
全員が再投入室へ移動した。
壁の高い位置に、白い文字盤の時計がある。
針は午前八時四十五分を少し過ぎていた。
斎木が携帯端末を出す。
工場サーバーの現在時刻。
午前八時五十二分台。
菜々子も自分の端末を見る。
「ずれてる」
壁の時計は、サーバーより遅れていた。
斎木が秒まで比較する。
午前八時五十二分四十八秒。
壁掛け時計の分針は、午前八時四十五分を指している。
秒針はない。
数分後、正確な差を測る。
七分十二秒。
「昨日も同じだったかは分かりますか」
雫が尋ねる。
「電池を替えた記録はありません」
斎木が時計の点検票を見る。
「月初確認では、時刻差なし」
「いつから遅れた?」
「現時点では分かりません」
凌は時計を見上げていた。
「俺は、これを見て書きました」
「なら、管理票の九時五十四分は」
斎木が計算する。
「実際には午後十時一分前後だった可能性があります」
「電子秤と合う」
美里が言った。
「書き直していないこととも矛盾しません」
凌は肩から力を抜かなかった。
「俺が嘘を書いたんじゃない」
「時計が遅れていた可能性が高い」
斎木は言葉を選んだ。
「ただし、再投入先の問題は残ります」
午前九時六分。
会議室の机へ、四種類の記録が並んだ。
手書きの管理票。
P-41再投入 21時54分
包装機ログ。
P-42フィルム切替え確定 21時57分12秒
MES。
P-41製造指図終了 21時58分05秒
P-42製造指図開始 21時59分30秒
電子秤。
再投入後空容器 22時01分26秒
管理票の時刻だけが、同期されていない壁掛け時計を基準にしていた。
七分十二秒を足せば、実時刻は午後十時一分前後になる。
その時点では、
包装フィルムはP-42
製造指図はP-42
電子秤ではP-41の再投入容器が空
だった。
「投入したのは、その前です」
凌が言った。
「空容器を秤へ戻したのが十時一分です」
「何分前ですか」
「すぐです」
「午後九時五十七分十二秒より前ですか」
「そうだと思います」
「製造指図が切り替わる前?」
「P-41へ戻しました」
「接続先を記録したログは」
斎木が端末担当者へ尋ねる。
「切替弁の状態履歴を確認します」
「その瞬間にH-1だったか、H-2だったか」
「まだ分かりません」
菜々子が包装機ログを見た。
「私がフィルムを替えた時点では、P-41は終わったと聞きました」
凌が管理票を指す。
「俺はP-41へ戻せと言われていました」
美里が自分の印を見る。
「私は、条件内ならP-41へ戻していいと承認した。投入は見ていない」
三人とも、自分が受け取った情報の中では間違っていなかった。
包装側ではP-41は終わっていた。
再投入側では、P-41へ戻す原料が残っていた。
承認者は戻してよい条件を確認したが、戻した先は確認していない。
斎木は四つの記録を時間順へ並べ直した。
「少なくとも言えることがあります」
誰も答えなかった。
「P-41の再投入原料容器は、P-42フィルムとP-42製造指図が有効になったあとで空になっています」
「全部がP-42へ入ったとは限りません」
美里が言う。
「はい」
「配管へ残った可能性もある」
「あります」
「洗浄側へ出した可能性は」
凌が首を横へ振った。
「捨ててません」
「記録がないだけでは」
「捨ててません」
「だから、切替弁と投入経路を調べます」
斎木は管理票を閉じなかった。
「現時点で、田淵君の改竄とはしません。真下さんの切替えミスとも、小峰さんの誤承認とも決めません」
「では、何の異常ですか」
雫が聞いた。
「記録が同時に成立しない品質異常です」
「中身ではなく?」
「中身も調べます。ただ、検査結果を待つ前に、記録だけで製品を出せない状態です」
雫は机に並ぶ時刻を見る。
午後九時五十四分。
午後九時五十七分十二秒。
午後九時五十八分五秒。
午後九時五十九分三十秒。
午後十時一分二十六秒。
三つの時計は、別の場所で別の時刻を残していた。
手書きの時刻。
包装機の時刻。
電子秤の時刻。
どれか一つを嘘と決めれば、六・四キロの行方は簡単になる。
凌が書き換えた。
菜々子が早くフィルムを替えた。
美里が見ていない作業へ印を押した。
しかし、壁掛け時計は本当に遅れていた。
包装機は手順どおりP-42を照合していた。
電子秤は容器の重さを記録していた。
三つの時計は別の時刻を示していたが、六・四キロの中身が一度しかなくならなかったことだけは同じだった。
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