『半分、過ぎて』| 風まかせ文芸部
※本作はフィクションです。実在の人物、団体、大会、あるいは過去の試合展開とは一切関係ありません。
リビングの空気は、陽炎のように歪むテレビ画面に完全に侵食されていた。
北中米W杯グループステージ第2節。画面の向こう、メキシコ・モンテレイのピッチは、立っているだけで肺が焼けるほどの灼熱の檻と化している。
開始4分に鎌田が仕留めた先制弾の歓喜は、とっくに消え失せていた。
日本代表は敵陣の執拗なマンマーク戦術に完全に絡め取られている。
中盤のパスワークの動脈を次々と切断され、前線の上田へ繋ぐルートは鉄柵のように閉ざされていた。攻めあぐねる苛立ちと窒息感が、液晶のこちら側にも重苦しく伝わってくる。
ソファに深く背を預けたまま、私は冷えたビールを喉に流し込んだ。
40代も半ばを過ぎた。いわゆる人生の「ハーフウェイ・ライン」をとうに越えた男の肉体には、その冷気すらどこか鈍く染みる。
いつからだろう。勝つ方法より、負けない方法ばかり考えるようになったのは。 若い頃のように、何かに向かってがむしゃらに血を沸かせるような熱はもうない。世の中の仕組みを知り、自分の限界を覚え、上手く立ち回る「戦術」だけを身につけていた。
その時、主審のホイッスルが鋭く鳴り響いた。前半22分。
前半、半分を過ぎて訪れた、最初のハイドレーションブレイク。
3分間の戦術停止。
画面に映し出された給水中のストライカーたちを見て、私は突如、指先が強張るのを覚えた。
彼らは世界が強いる「休め」というルールなど最初から眼中にない。
冷水を頭から浴びる上田の瞳の奥で、ギラギラとした剥き出しの炎が爆発的に膨れ上がっていくのが見えた。
チームの機能不全を言い訳にするような、ぬるい思考は一切ない。
一瞬の静寂の中、個としての牙だけが恐ろしい純度で研ぎ澄まされていた。
「半分、過ぎた」からといって、なぜそこで息を整え、守りに入る?
彼らの目は、そう言っていた。
3分間の断絶が明けた、前半31分。
バイタルエリアで縦パスを受けた上田の前に、白いユニフォームの壁が2人立ち塞がる。パスを探す選択肢は、すでに上田の脳内から完全に消去されていた。最短距離のシュートコースだけを凝視し、暴力的なステップで踏み込んだ。 マークがコンマ数秒ズれた刹那、その右足が閃く。
ドンッ!
スピーカーを震わせる重低音。空気を切り裂いた弾丸ミドルシュートが、ゴールネットを引きちぎれんばかりに跳ね上げた。
スコアは2-0。
戦術の檻にハめられ、窒息しかけていたチームが、たった一人の怪物の「エゴ」によって、その包囲網を力尽くで内側から喰い破った瞬間だった。
私は、息をするのを忘れていた。
試合、半分を過ぎて迎えたハーフタイム、実況の興奮はすでに最高潮に達していた。
後半に入っても、彼らの共鳴は止まらない。
69分、鎌田の針の穴を通すようなロブパスが前線へ通ると、爆速の怪物・伊東がカメラのフレームを一瞬で置き去りにした。
相手の背後を完全に陥れ、貪欲に3点目を強奪する。
再びあのホイッスル。
後半74分。
後半、半分を過ぎて訪れた、2回目のハイドレーションブレイク。
3点差。勝負は決した。
誰もがこの3分間を、これ以上傷を深めないための延命の時間、あるいは試合を穏やかにクローズするための休息だと思うだろう。
怪我を恐れて安全なクローズを選択する、私のような生き方と同じように。 しかし、給水ボトルを掴む日本の選手たちの目は、1ミリも緩んでいない。それどころか、交代枠でベンチから送り込まれる新たなエゴイストたちが、さらに相手の息の根を喰らい尽くさんと、牙を剥き出しにしている。
その異様な熱量を見つめ、解説席の男は、確信に満ちた笑みを浮かべて言い放っていた。
「これはもう、こんなこと言ったらあれですけど、今日はもう勝ちます。99.9999%勝ちます。こっからはイケイケドンドンです。サッカー界でたまにしか出ないイケイケドンドンです」
その言葉は、テレビの前の私だけでなく、ピッチのストライカーたちの導火線に完全に火をつけた。 満たされる気など、端から無いのだ。彼らにあるのは、どこまでも深く、底のないゴールへの「飢え」だけだった。
折返し地点を過ぎてなお、彼らの速度は加速していく。
予感は、83分に現実となる。
完全に心が折れ、足の止まった相手ゴール前。逃がさない。
上田が空間を支配するような圧倒的な跳躍から、容赦のない4点目を頭で叩き込んだ。
4-0。
タイムアップの笛が灼熱の空気を切り裂く。
対戦相手のイレブンは、文字通り糸の切れた人形のようにピッチへ崩れ落ち、だれ一人として指先一つ動かせない。4点差になってもなお、速度を落とさず、ただ目の前の獲物を喰らうためだけに肉迫し続けた日本の執念――その剥き出しの深淵を前に、彼らはチームとしての戦意を完全に喪失していた。
だが、画面が捉えた日本のストライカーたちの姿に、私の全身の鳥肌が総立ちになる。
歓喜の咆哮も、勝利を称え合う抱擁もない。
上田は、ユニフォームの襟元で無造作に汗を拭うと、スコアボードを一べつだにせず踵を返した。
伊東の視線は、すでに目の前のピッチではなく、遥か先にある次の戦場だけを射抜いている。
彼らにとって、この点差の圧勝劇すら、ただの通過点、胃袋に放り込んだ一つの肉片に過ぎないのだ。
世界が足を止め、戦術を語り、一息つこうと喉を潤したあの「半分、過ぎて」の3分間。
彼らはただ、ボトルを掴む手の震えを抑え、冷たい水を喉に流し込みながら、心臓の鼓動をエゴの牙へと変えていた。
ただ、それだけだった。
対戦相手が「戦術」を組み立て直そうと足を止めたその刹那、日本のエゴイストたちは「次の一歩でどう喰らい尽くすか」という一点のみに脳髄を沸騰させていた。
肉体の限界ではない。戦術の優劣でもない。 ただ、神が与えた休息の境界線で暴かれた、ゴールへの「飢えの純度」。 その絶対的な断絶の前に、相手のプライドはとうの昔に、跡形もなく噛みちぎられていたのだ。
画面に映る青いユニフォームの背中たちが、蜃気楼の向こうへと消えていく。
私は立ち上がり、冷蔵庫から二本目のビールを取り出そうとして、やめた。
代わりに、引き出しの奥で埃をかぶっていた、かつて諦めた古いプロジェクトのファイルを開いた。空き缶をゴミ箱へ放り込み、デスクの椅子を引く。
激しく脈打つ自分の胸の音が、静まり返った部屋に小さく、しかし確かに響いていた。
人生の半分を過ぎた今からでも、まだ喰らい尽くせるものは、いくらでもあるはずだ。
お題:「半分、過ぎて」
下記の企画に参加させていただきました。
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