短編【パピヨンファイブ】小説
「こんにちは」
玄関先の網戸を横に滑らせて奥の部屋へ声をかける。
「あら、いらっしゃい。ドアを締めて上がってきて。チャコちゃんが逃げるちゃうから」
と奥から大伯母の声。俺は言われた通り玄関のステンレス製の引き戸を閉めて、それから続けけて網戸を閉めた。
大伯母は引き戸の事をいつもドアと言う。
網戸を閉めたタイミングで
「あ、ごめんなさい。ドアじゃなくて網。網戸だけ閉めてちょうだい。ドアは開けておいて」
と言われたので閉めたばかりの網戸を開けてから外側の引き戸を開けた。
すると。
「あ!チャコちゃんがそっち行ったから気をつけて!」
大伯母の叫び声が終わらないうちにロシアンブルーの一歳猫、チャコが玄関めがけて一直線に駆けてくる。間髪、入れず俺は網戸をピシリと閉める。チャコは網戸の寸前で急停止をして恨めしそうに俺を見上げる。
俺は、かがんでチャコの頬を両手で挟みこみ優しく揉みゆする。チャコは嫌がって後ずさりするが逃がしはしない。両手に挟まれたチャコの顔面は後ろに下がった分だけ皮膚と体毛が顔の中央に寄ってブサイクになるが、それも可愛い。
俺はチャコのブサイクな顔を見て満足するとチャコを抱き抱えて廊下の奥へ進む。
大伯母はダイニングキッチンの小窓から差し込む小さな陽だまりの中にいた。椅子に座ったまま微笑んでいる。
その椅子には車輪が左右に二つついている。そのかわり、大伯母には左右二つの足が無かった。
網戸がはめられた小窓から玄関の網戸まで心地よい風が流れている。この風の流れを止めたくないので引戸を開けて網戸だけ閉めてちょうだいと言ったのだろう。
「あ、ごめんなさい。今からお風呂なんですよぉ。午前中に間に合わなくてぇ。何か用事でもありましたぁ?」
風呂場から半袖短パン姿の井上さんがタオルで額の汗を拭いながらやってきた。井上さんは、大伯母の血圧を測る。
「うん。大丈夫。いつもと変わりはないですねぇ」
と言って井上さんは、大伯母が座っている車椅子を押して浴室へ向かった。
井上さんは訪問看護師で今日は大伯母の入浴介助の日だった。昨日が祝日だったので振替で今日がその日になっていたのだ。その事をすっかり忘れていた。
これはまずい事になった。
この日のために準備をすすめてきたのに、まさか訪問看護師がいるとは。
「まずいことになった。って思ってんの?」
突然、足元から声が聞こえた。いつの間にか擦り寄ってきたロシアンブルーのチャコが俺を見上げながら言った。
「おまえ、猫に憑依したのか」
「気付かなかったでしょ。最近、やっと視床下部と扁桃体の二重解析が出来るようになったんだよ。戸が開いたらすぐに外に出ちゃうこの子の癖も、ばっちり再現できたし。あいつも気付いてなかったよ」
「なんでお前が」
「命令だよ。それくらい、あいつがヤバイって事でしょ?さあ、どうするパピヨンファイブ。いや、いまは志島洋か。風呂場にいる井上さんを助けにいけば、あいつは確実に逃走する。かと言って捕縛すれば、間違いなく井上さんはあいつに喰われる。困ったねぇ。ボクがおすすめするのは捕縛だ。だけどキミの考えは違うんだろう?」
もちろん。
スキャニングには時間がかかりすぎる。その間に井上さんは奴の餌食になる。先に井上さんを救出して、それから奴を捕縛する。それが俺の答えだ。
ロシアンブルーのチャコに憑依したモスキートワンは、やれやれと小さく、だけどちょっと嬉しそうに喉を鳴らした。
⇩⇩別の視点の物語⇩⇩
宇宙からの指令
