スマホを置いたら、退屈が帰ってきた
息子がリビングの床に寝転んで、「ひま」と言った。
休日の午後だった。窓の外は明るく、部屋には洗濯物の匂いが少し残っていた。娘は妻の近くで何かを触っていて、僕はソファに座ってスマホを見ていた。
「ひま」
息子はもう一度言った。
その言葉を聞いたとき、僕は少しだけうらやましいと思った。
ひま、と言えることが。
僕は最近、ひまになるのが下手になっていました。
五分空けばスマホを見ます。返信が来ていないか確認します。ニュースを開きます。SNSを開きます。何かを調べます。調べるつもりがなかったことまで調べます。気づけば、最初に何をしようとしていたのか忘れていることもあります。
少しの空白ができると、不安になる。
その不安を埋めるように、僕は画面を開く。
息子は床に寝転んで、ただ天井を見ていました。何か特別なことをしているわけではありません。退屈そうに足を動かし、少しだけ身体をねじり、また「ひま」と言う。
僕はその横で、退屈になる前にスマホへ逃げていました。
そのことに気づいた瞬間、胸の奥が少し静かになりました。痛いというほどではないけれど、見ないふりをしていたものを見てしまったような感覚でした。
僕はデジタルデトックスアドバイザーとして活動しています。
そう言うと、スマホを持たない生活をしている人のように思われることがあります。でも、まったくそんなことはありません。
僕は東京のITスタートアップ企業でフルリモートで働いています。仕事ではパソコンを使います。スマホで連絡もします。地図アプリにも助けられます。家族の写真も撮ります。調べ物もします。オンラインで人と話します。
デジタルにかなり助けられて生きています。
だから、スマホを悪者にしたいわけではありません。
むしろ、スマホはすごい道具です。小さな板の中に、地図も財布もカメラも時計も本も音楽も連絡手段も入っている。昔ならいくつもの道具に分かれていたものが、手のひらに収まっている。
便利です。
本当に便利です。
ただ、便利すぎるものは、ときどき僕たちから「不便であること」を奪っていきます。
待つこと。
迷うこと。
何も思いつかない時間。
すぐに答えが出ない時間。
誰からも反応が返ってこない時間。
退屈。
僕たちは、それらをできるだけ早く消せるようになりました。電車を待つあいだも、料理を待つあいだも、トイレに入っているあいだも、寝る前の数分も、朝起きた直後のぼんやりした時間も、スマホを開けばすぐに何かが始まります。
何もない時間は、すぐに何かで満たせる。
それは便利なことです。
でも、何もない時間が消えたとき、僕たちは何を失っているのでしょうか。
たぶん、僕たちは退屈そのものよりも、退屈の中で自分と向き合ってしまうことを怖がっているのかもしれません。
退屈になると、いろいろなものが浮かんできます。
今日やり残したこと。
返せていない連絡。
なんとなくうまくいっていない仕事。
家族に少し冷たくしてしまったこと。
疲れているのに、疲れていないふりをしている自分。
そういうものは、忙しくしているあいだは見なくて済みます。スマホを見ているあいだも見なくて済みます。画面の中では、次々に別の話題が出てくるからです。
誰かが怒っている。誰かが成功している。誰かが旅行している。誰かが新しいものを買っている。
そうやって他人の人生を眺めているあいだ、自分の生活から少し離れられる。
それは悪いことばかりではありません。しんどいときに少し逃げる場所があるのは、大事なことでもあります。
でも、逃げ場がスマホだけになると、退屈はいつも画面で処理されるようになります。
本当は休みたかっただけなのに、情報を増やしてしまう。
本当は寂しかっただけなのに、誰かの投稿を見てさらに寂しくなる。
本当は自分の生活を整えたかっただけなのに、他人の生活と比べて落ち込む。
退屈を消すために開いたはずのスマホが、別の疲れを連れてくることがあります。
最初にデジタルとの距離を考えるようになったきっかけは、目の疲れでした。
18歳から19歳のころ、僕はカナダに留学していました。英語が得意だったわけではありません。むしろ苦手でした。語学学校の宿題でパソコンを使ってエッセイを書くのですが、ひとつの文章を書くのに時間がかかる。単語を調べ、文法を調べ、また書く。画面を見続ける。
気づくと、目がしょぼしょぼしていました。頭が重く、肩も固い。身体のどこかがずっと緊張しているような感じがありました。
そのときは「デジタルデトックス」という言葉も知りません。ただ、目がつらいからブルーライトカットメガネを使い始めた。それだけです。
今振り返ると、それは僕にとって最初のデジタルデトックスでした。
スマホを捨てたわけでも、パソコンをやめたわけでもない。
ただ、自分の身体が出している小さな声を聞いた。
「疲れている」
その声に、少しだけ反応した。
それだけでした。
でも、大人になってからの僕は、その小さな声を聞くのがどんどん下手になっていきました。
仕事で画面を見る。連絡を返す。ニュースを見る。SNSを見る。動画を見る。疲れたから気分転換のつもりでスマホを見る。目が疲れているのに、さらに画面を見る。
おかしな話です。
身体は「もう画面を見たくない」と言っているはずなのに、頭は「もう少しだけ」と言う。
目は乾いている。
肩はこっている。
眠い。
でも、指は動く。
この指の動きは、僕の意思なのだろうか。そんなふうに思うことがあります。
アテンションエコノミーという言葉があります。人の注意が価値を持ち、奪い合われる社会の仕組みのことです。SNSや動画アプリやニュースアプリは、多くの場合、長く見てもらうほど価値が生まれます。広告が見られ、データが集まり、滞在時間が伸びる。
だから、画面の向こうは僕たちの注意を引くために本気です。
通知。
赤いバッジ。
おすすめ。
ランキング。
次の動画。
未読。
既読。
いいね。
それらは小さな形をしていますが、こちらの注意を動かす力は大きい。
僕たちが弱いから見てしまう、というだけではありません。見たくなるように作られているものを、疲れた身体で、寝不足の頭で、手の届くところに置いている。
相手はとても上手です。
だからこそ、スマホを見てしまう自分を責めすぎなくていいと思っています。
ただ、責めないことと、何もしないことは違います。
僕たちは気づくことができます。
そして、戻ってくることができます。
僕にとって戻ってくる場所のひとつが、家族の時間です。
僕には息子と娘がいます。
子どもは、こちらの予定通りには動きません。仕事が終わって疲れているときに限って、遊んでほしがることがあります。少しだけ休みたい日に、何度も話しかけてくることがあります。静かにしてほしいと思うときに、大きな声を出すこともあります。
きれいごとだけで子育てはできません。
僕も疲れます。
眠い日もあります。
自分の時間がほしい日もあります。
そんなとき、スマホはとても手軽な避難先になります。
少しだけニュースを見る。
少しだけSNSを見る。
少しだけ動画を見る。
何かを見ているあいだ、目の前の疲れや騒がしさから少しだけ離れられる気がする。
でも、子どもはスマホのようには待ってくれません。
「パパ、見て」
そう言われて顔を上げる。
その瞬間、自分が何を見ていたのか思い出せないことがあります。誰かの投稿だったのか、どうでもいいニュースだったのか、仕事とは関係のない情報だったのか。
少なくとも、その瞬間の子どもの声より大切だったとは思えない。
でも、僕は見ていた。
目の前の子どもより、画面の中の何かを優先していた。
その事実は、あとからじわっと効いてきます。
ここで誤解されたくないのですが、親はスマホを見るな、と言いたいわけではありません。仕事の連絡もあります。調べ物もあります。写真を撮ることもあります。疲れていて、少し心を逃がしたい日だってあります。
僕も全然完璧ではありません。
だからこそ、完璧にスマホを見ないことより、気づいたときに戻ってくることが大切だと思っています。
スマホを見ていた。
呼ばれた。
気づいた。
置く。
目を見る。
話を聞く。
それだけでいい。
この「戻る」という動作を、何度も練習するしかないのだと思います。
ある日、息子が「ひま」と言ったあと、僕はスマホを棚の上に置きました。
特別な儀式ではありません。大きな決意もありません。ただ、そのまま見続けたら、また同じ一日になる気がしたんです。
スマホを置くと、最初は落ち着きません。
何か連絡が来ているかもしれない。
仕事のチャットが動いているかもしれない。
誰かから返信が来ているかもしれない。
ニュースが更新されているかもしれない。
「かもしれない」が、いくつも浮かびます。
でも、数分経つと、その「かもしれない」は少しずつ薄くなっていきました。
代わりに、退屈が戻ってきました。
退屈は、最初あまり心地よくありません。
何をしたらいいかわからない。
手持ち無沙汰になる。
部屋の中を見ても、特に面白いものはない。
子どもも、すぐに夢中になれる遊びを見つけるわけではない。
しばらく、ただ時間だけがそこにありました。
でも、その時間の中で、息子がブロックを並べ始めました。何かを作るというより、ただ並べている。僕も隣に座りました。最初はどう遊べばいいかわからない。スマホを見ているときより、ずっと不器用な時間です。
でも、その不器用さの中に、少しずつ会話が生まれました。
「これ、どこに置く?」
「ここ」
「これは?」
「違う」
短い言葉です。
でも、画面を見ながら聞く「うん」より、ずっと濃い。
子どもは、退屈の扱いが上手なのかもしれません。
もちろん、本人はそんなことを考えていないと思います。ただ「ひま」と言い、床に転がり、近くにあるものを触り、何かを並べたり、壊したり、また別の遊びに移ったりする。退屈の中から、少しずつ自分で時間を作っていく。
大人の僕は、それを待つのが苦手です。
すぐに意味を求めてしまう。
何のための時間なのか。
何が得られるのか。
どう役に立つのか。
そんなことを考えてしまう。
でも、子どもと床に座っている時間は、役に立つかどうかで測れません。生産性もありません。効率もよくありません。予定通りにも進みません。
ただ、そこにいる。
その「ただ、そこにいる」が、スマホを持っていると意外と難しい。
僕たちは同じ部屋にいながら、簡単に別の場所へ行けてしまうからです。
画面を開けば、リビングにいながら仕事のチャットへ行ける。ニュースへ行ける。SNSへ行ける。遠くの誰かの生活へ行ける。過去の写真へも、未来の予定へも行ける。
便利です。
でも、その便利さのせいで、今いる場所にとどまる力が弱くなっている気がします。
退屈は、何かが始まる前の土みたいなものなのかもしれません。
スマホを見ていると、退屈になる前に完成されたものが流れてきます。誰かが作った動画。誰かが書いた言葉。誰かが撮った写真。誰かが怒っている話。誰かが成功した話。
それらは刺激的です。
でも、あまりにも完成されている。
こちらが何かを始める前に、次の刺激が来てしまう。
一方で、退屈は何も用意してくれません。
だから、自分で何かを始めるしかない。
ブロックを並べる。
紙に線を引く。
散歩に出る。
お茶を入れる。
ただ座る。
子どもの話を聞く。
そういう小さな行動は、退屈がないとなかなか生まれません。
僕はこれまで、デジタルデトックスを「スマホから距離を置くこと」と説明してきました。もちろん、それは間違っていません。
でも、最近は少し違う言い方をしたくなっています。
デジタルデトックスとは、退屈を取り戻すことなのかもしれない。
退屈というと、悪いもののように聞こえます。
生産性がない。
意味がない。
時間がもったいない。
何かしたほうがいい。
僕たちはそう思いやすい。
でも、退屈の中には、自分の感覚が戻ってくる余地があります。
疲れていることに気づく。
本当は眠いことに気づく。
家族と話したかったことに気づく。
何かを作りたかったことに気づく。
誰かの人生ばかり見て、自分の生活を見ていなかったことに気づく。
スマホは、退屈を消してくれます。
でも、ときどき退屈の中にあったはずの気づきまで消してしまう。
山口県宇部市に、ときわ公園という場所があります。
僕はあの場所を歩く時間が好きです。湖畔の道を歩く。水面が光る。木の影がゆっくり動く。風が肌に触れる。何か特別なことが起こるわけではありません。
スマホを見ながら歩くと、ただの移動になります。
でも、スマホを見ずに歩くと、同じ道が少し違って見えます。
道の端にある葉の色。
水面の揺れ。
遠くにいる人の歩く速さ。
自分の足音。
胸のあたりに残っていた疲れ。
そういうものに、少しずつ気づく。
何か役に立つ情報を得たわけではありません。
でも、自分が自分の生活に戻ってきた感じがします。
その感覚は、派手ではありません。
すごく感動するわけでもない。人生が一気に変わるわけでもない。歩いただけで悩みが消えるわけでもない。
ただ、頭の中のざわざわが少し遠くなる。
呼吸が浅くなっていたことに気づく。
肩に力が入っていたことに気づく。
今日、空を一度もちゃんと見ていなかったことに気づく。
その程度です。
でも、その程度のことが、僕には必要でした。
デジタルの世界は、いつもはっきりしています。
数字が出る。通知が来る。既読がつく。再生回数が見える。いいねが見える。未読件数が見える。
そこでは、自分が反応されたかどうかがすぐにわかります。
一方で、生活の中にある大切なものは、あまり数字になりません。
子どもが安心した顔をしたこと。
妻との会話が少しやわらかくなったこと。
目の奥の重さが少し引いたこと。
散歩のあと、心が少し静かになったこと。
紙に一行書いて、自分の気持ちが少し見えたこと。
そういうものは、通知されません。
記録されないことも多い。
だから、こちらから気づきにいかないと、簡単に見落としてしまいます。
スマホの中で大きな音を立てているものより、生活の中で静かに起きていることのほうが、本当は大切だったりする。
デジタルデトックスは、その静かなものに気づくための時間でもあると思います。
不思議なのは、スマホを見ているときより、何もしていないときのほうが、あとから記憶に残ることがあるということです。
何を見たのか思い出せない一時間があります。
一方で、子どもと床に座ってブロックを並べた十分は、なぜか残っている。
ときわ公園を歩いて、何も考えずに水面を見ていた時間も残っている。
紙のノートに一行だけ書いた夜も残っている。
効率だけで見れば、何も生んでいない時間です。
でも、生きている実感はそういう時間のほうに宿ることがあります。
僕たちは、便利さによって多くのものを得ました。
会いたい人にすぐ連絡できる。
知らない場所へ迷わず行ける。
写真を簡単に残せる。
情報をすぐ調べられる。
離れた場所の人ともつながれる。
それは本当にありがたいことです。
だから、僕はデジタルを否定したくありません。
ただ、便利さの中で失ったものにも目を向けたい。
待つ力。
迷う余地。
何もない時間。
身体の声。
目の前の人を見る力。
退屈に耐える力。
こういうものは、地味です。すぐに成果として見えません。数字にもなりにくい。誰かに褒められるものでもありません。
でも、人間らしく生きるためには、案外こういう地味なものが必要なのだと思います。
スマホを置くと、最初に戻ってくるのは自由ではないかもしれません。
むしろ、不安が戻ってくることがあります。
手持ち無沙汰が戻ってくる。
退屈が戻ってくる。
自分の疲れが戻ってくる。
見ないようにしていた気持ちが戻ってくる。
だから、スマホから離れるのは簡単ではありません。
でも、その戻ってきたものの中に、生活を立て直す手がかりがある気がします。
疲れていたなら休めばいい。
寂しかったなら誰かに会えばいい。
家族と話したかったなら、スマホを伏せて顔を見ればいい。
自分の気持ちがわからないなら、紙に一行だけ書けばいい。
退屈なら、退屈のまま少し待てばいい。
何もしない時間は、空っぽではありません。
何かが生まれる前の時間です。
もちろん、明日からずっとスマホを見ない人になる必要はありません。
僕も見ます。
仕事で使います。連絡します。写真を撮ります。調べ物をします。疲れた日に、つい意味もなく開いてしまうこともあります。
それでも、以前より少しだけ、スマホを開く前に立ち止まれるようになりました。
今、何を埋めようとしているのか。
この五分の退屈を、何で消そうとしているのか。
本当は何に気づきたくないのか。
この問いは、少し面倒です。
でも、僕を自分の生活に戻してくれます。
息子が「ひま」と言ったあの日、僕はスマホを置いて、しばらく一緒に床に座っていました。
何か立派なことをしたわけではありません。素晴らしい遊びを思いついたわけでもありません。途中で少し退屈でした。息子もまた別のことを始め、娘の声がして、妻が何かを言い、僕はそれに返事をしました。
どこにでもある休日の午後です。
でも、あとから思い出すと、その時間には手触りがあります。
床の固さ。
ブロックの音。
子どもの声。
自分が少し落ち着いていく感じ。
スマホの中には、その日の僕より面白いものがたくさんあったと思います。
でも、僕の人生はそこにはありませんでした。
僕の人生は、少し退屈なリビングにありました。
子どもの「ひま」の隣にありました。
何も起きていないように見える午後の中にありました。
デジタルデトックスは、スマホを敵にすることではありません。
スマホを使いながら、スマホに使われないこと。
便利さを受け取りながら、生活の中心を手放さないこと。
遠くの情報につながりながら、近くの声を聞き逃さないこと。
そして、ときどき退屈をそのままにしておくこと。
それは、時代に逆らうことではなく、時代の中で自分の輪郭を失わないための小さな抵抗なのだと思います。
もし次に、何もすることがない数分が訪れたら。
すぐにスマホを開く前に、少しだけ待ってみてください。
何も起きないかもしれません。
でも、その何も起きない時間の中で、自分の呼吸や、身体の疲れや、目の前の人の声が戻ってくるかもしれません。
退屈は、敵ではありません。
退屈は、自分の人生がまだここにあることを知らせてくれる、静かな合図なのだと思います。
おわり。
著者プロフィール
おすすめ記事
