「秘境駅」は都会の論理の押し付けだった… 生徒のつぶやきに、はっとさせられた話
私は現在、長崎の高校教師を休職し、東京に出て大学院で学び直しをしている。
先日、部活動の大会応援のため、久しぶりに長崎に戻った。バスケットボール会場の佐世保から、陸上競技会場の諫早まで、電車「シーサイドライナー」で移動した。その車内で、一人猛省した話。
佐世保駅の改札の中で、私がかつて勤めていた離島の高校の写真部の生徒3人と出会った。長崎にいると、こうやって偶然に知っている人に会えるところがいい。大会の撮影を終えて、宿舎に移動するところだという。せっかくなので、一緒に移動することにした。
車内では、最初は撮った写真を見せてもらいながら会話をして盛り上がっていたのだが、しばらくするとみんなはイヤホンをして目をつぶり、それぞれの時間を過ごす。私はつり革につかまりながら小説を読む。この、高校生同士の絶妙な距離感は難しく、教師の私もどれくらい話しかけていいのかあまりわからず、なんだか少し気恥ずかしい。
都会に住んで海が珍しくなった
それは置いておいて、電車は私が密かに楽しみにしていた「千綿駅」に着いた。ここは全国的にも有名な「秘境駅」。駅舎はレトロな木造で、大村湾が一望できる。線路は単線で、片側が一面海という絶景なのだ。

私は東京に住んで2年。海そのものが珍しくなっていて、興奮気味に、3名の生徒に声を掛けた。
「この駅知ってる?秘境駅なんだよ!」
3人はイヤホンをはずして一瞬興味を持ってくれたが、心なしか、その後の反応は薄めだった。
「ああ、余計なこと言っちゃったかな」と私が思っていると、生徒の1人が「対馬みたい」とつぶやいた。その一言に、私はまるで頭を殴られたように、はっとさせられた。

「秘境駅」という「上から目線」
「秘境駅」というロマンチックなレッテル自体、都会の人が貼った、偏った見方に過ぎなかったのだ。島に住む彼ら彼女らにとって、海は学校からだって見える、当たり前の景色。「観光地」ではなく「日常の風景」そのもの。私が、いかに本土の目線に陥っているのか、気づかされた。
社会学者のピエール・ブルデューは、現地の人の見方に対して、学者の客観的な分析の方に特権を与えることを、「上から見下ろすような視点」だと批判した。
東京で暮らすうちに、私も無意識のうちに「都会の論理」「本土の目線」に染まっている。そしてこのような文章を書いていること自体、田舎や離島を上から目線で「消費」していることになりやしないか。都会や本土にいる私たちが、田舎や離島に対して「自然は素晴らしい」と言うこと自体、本当はおこがましいことなのかもしれない。
「空の青さ」を純粋に見つめる
自分の文化の基準で他者の文化を評価し、自分の文化が他者の文化より優れていると考えることを「自文化中心主義」と言う。一方で、それぞれの文化をそれぞれの文脈で対等に認め合おうと考えることを「文化相対主義」と言う。生徒の「対馬みたい」というつぶやきは、私を「文化相対主義」の視点へと引き戻してくれたのだ。
「井の中の蛙大海を知らず」ということわざには、「されど空の青さを知る」という続きがある。「大海」の論理で「空の青さ」を消費してばかりではいけない。「大海」の基準を無理に当てはめるのではなく、「空の青さ」をそこにあるがままに、純粋に感じることこそ、大切なことなのだろう。
