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世界が壊れたあとで|第4章:嵐の遍路道で見つけた「祈り」――母の死と宿命の導き

【前回のあらすじ】
チベットの聖地・リタンで、過酷な環境下で祈り続ける巡礼者や、他者の幸せを願うある少女との出会い。その無垢な姿に触れ、祈りとは何かを悟った著者は、過去の後悔から解き放たれ、再生への一歩を踏み出す。
本章では舞台を四国遍路に移す。


長い闘病生活の末、母がこの世を去った。

世界から、すべての色が無くなった日。

親友を亡くした時も深い悲しみに沈んだが、それとはまた違う痛みだった。

母の死から二ヶ月後、私は四国遍路の道に立っていた。
四国八十八ヶ所、千数百キロに及ぶ祈りの道。

真夏の炎天下、アスファルトからは陽炎が立ちのぼり、刺すような日差しが情け容赦なく体力を削り取る。
足の裏のまめは潰れ、一歩踏み出すたびに、焼けるような激痛が全身に走った。

「修行の地」土佐へ入ると、まるで出口のないトンネルの中に迷い込んだように状況がさらに悪化した。

第24番札所・最御崎寺を打ち終えた頃から、太平洋は荒々しく牙を剥き、心を折らんとするばかりの暴風雨が、容赦なく叩きつけてきた。

宇佐大橋を渡った先では、台風による高波で道路が冠水し、大蛇が行く手を阻むように大きな口を開けて待ち構えているように見えた。それは、天が荒ぶる自然の猛威を使い、私の迷いを断ち切り、覚悟を試しているかのようだった。この逆巻く大蛇を、不動明王の剣のように断ち切って進むしかない。

私は意を決して、濁流の中へ踏み出した。足を取られそうになる激流を金剛杖で支え、ただ前だけを見据えて進む。一歩、また一歩。
恐怖を振り払うように泥水を蹴立てて渡りきったとき、私の心には、お不動様の忿怒の相にも似た、激しくも静かな覚悟が宿っていた。

やっとの思いで辿り着いた第36番札所・青龍寺。
雨に濡れた長い石段を確かめるように登った。
本堂の薄暗い闇の中に足を踏み入れた。 その瞬間だった。 揺らめく灯明の先に、一体の仏の姿が浮かび上がった。

――不動明王。

「世のため人のため」が口癖だった、元刑事の祖父。晩年、お不動様に「怨親平等(おんしんびょうどう)」の祈りを捧げていたその背中が、目の前の像と重なった。悪を許さぬ厳しさと、万物を等しく慈しむ、広大無辺な温もりが、そこにはあった。
憤怒の相を浮かべ、右手に剣、左手に縄を持つその姿は、見る者が畏怖の念で、思わず平伏してしまうような威厳に満ちていた。しかし、その鋭く厳しい眼光には、迷える者を力ずくで救い上げようとする、底知れぬ慈悲が宿っていた。 

独りではない 。

激しい嵐の音の向こう側で、確かな何かを感じた。 「あなたは決して一人ではない」私はさらに歩き続けることができた。

そしてついに結願の寺、第88番札所・大窪寺の山門が見えた。

境内の奥で、一つの灯火が私の足を止めた。

広島の「平和の灯火」を受け継ぐ火。

核兵器廃絶と世界平和を願い、守り継がれてきた祈りの灯火だった。

私はしばらく、ともに時を過ごした。

ほのかな火。

ふと、2001年9月11日の記憶が蘇った。「自由の象徴そのものだった、ニューヨークの吹き抜けるような青空の下、世界中が目撃した、あの巨大な炎。すべてを焼き尽くし、憎しみを煽るような、暴力的な火。
しかし今、私の目の前で揺れるこの灯火は、それとは対極にある静寂そのものだった。
同じ「火」でありながら、この灯火は、誰かの幸せを願う祈りとして、絶えることなく燃え続けている。

出会いと別れ。

懐かしい人々の面影が浮かんでは消えた。

すると心の奥から一つの声が聞こえてきた。

「だからこそ、生かせ」

怒りのためではなく。

憎しみのためでもなく。

失われた命のために。今、生きている命のために。

私はハッとした。

かつて死の淵を彷徨った、あの交通事故。

九死に一生を得たこと。

9.11。

親友の死。

母との別れ。

それは、それぞれの出来事には意味があるということだ。

そして、私たちの命にも、尊い理由がある。
この世に生まれてきたこと、生かされている命には役割がある、そのことに出合えた瞬間だった。

遍路を終えた後、私は高野山へ向かった。

杉木立の深い静寂の中で手を合わせていると、不思議な感覚に包まれた。
チベットで仰ぎ見た巨大な釈迦如来像、母の故郷・屋久島で数千年の時を刻む屋久杉、同行二人・四国の遍路で出会った一期一会、それらの境界は、すべて重なり合うように、一つの壮大な風景となって心の中に大きく広がった。

命は巡る。 寄せては返す波のように、出会いと別れを繰り返しながら。
私たちは、決して独りぼっちではない。無数の命の連なりの中で共に生かされている「いのち」である。

四国遍路を終え、高野山へ向かう道すがら、私の心はこれまでにない安らぎに包まれていた。 母を亡くした悲しみは消えない。 しかし、その痛みさえも、今は私の一部のように感じられる。 もし今、大切な人との別れに苦しんでいる人がいるなら、どうか知ってほしい。 悲しみは消えない。 けれど、その悲しみはいつか形を変える。
 頬を濡らした涙は、いつか幸せを呼ぶほほ笑みに変わる。
怒りも憎しみも、絶望も、やがて希望へ通じる祈りの道になる。
原爆の劫火が、平和を願う灯火となったように、私たちがそれぞれ背負った心の傷も、やがて誰かを照らすほのかな光へと生まれ変わる日が訪れる。

生かせいのち。

この旅の終わりに待っていた、私が遍路道の果てに受け取ったもの。
それは、今も私の胸の真ん中で、共に確かな明日を照らしている。

※ 最後までお読みいただき有難うございます。
「宿命に導かれた旅は、いよいよ最終章へ――。」


【連載予定】
世界が壊れたあとで
・第1章:あの日、日常は砂の城になった(公開中)
・第2章:二つの「崩壊」の間に立って――親友の自死(公開中)
・第3章:聖地巡礼――天空のチベットで出会った、祈りという光(公開中)
・第4章:嵐の遍路道で見つけた「祈り」――母の死と宿命の導き(本記事)
・第5章:20年を経て辿り着いた「静寂」(公開予定)
※全5回、約1万文字の物語です。

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