『月が綺麗ですね』は本当に愛の告白なのか。 ─アイラブユーが言えない日本人
音と記憶の間に—ひとりごとの記録 21
あなたは、大切な人にストレートに愛を伝えられますか?
夏目漱石が、“I love you” を「月が綺麗ですね」と訳したという話がある。
この話を聞いて、「それは違うだろ!」と本気で怒る日本人には、会ったことがない。
むしろ、どこかで思ってしまう。
——ああ、分かる気がする。
ここに、日本語の正体がある。
日本語は、こうした「直接言わない感情」を受け止めることに長けた言語だ。
また、日本語の「色を表す言葉」は、数万の数があるという。
秘色色(ひそくいろ)、撫子色(なでしこいろ)、常磐色(ときわいろ)など、現代人の私には、その名前を聞いただけではどんな色か想像できないものも多い。
それは日本人の感覚が、特別に鋭いからなのだろうか。
それとも、四季のあるこの国の風土がそうさせたのだろうか。
思えば、私たちが何気なく使っているこの言葉のルーツを辿ると、大陸との気の遠くなるような「コミュニケーションの試行錯誤」の歴史が見えてくる。
日本語は、大陸から漢字を受け入れ、それを元からあった大和言葉に重ね、
訓読みを生み、ひらがなを生み、カタカナを生み出してきた。
一方、漢字の故郷である中国では、毛沢東の時代に拼音(ピンイン)が整備されるまで、同じ文字が地域ごとに違う読み方をされてきた。
標準語では「北京」は「ベイジン」だが、日本人にとっては「ペキン」の方が馴染み深い。これは単なる方言の違い、という説明では成り立たない。
たとえば「東京」。
青森のおじいさんと沖縄のおばあさんでは会話が成り立たないと思うが、「東京」は、どこでも「トウキョウ」と読まれる。
人の名前や地名は、訛らない。
それは長い間、文字だけが存在し、読みが統一されていなかったからだ。
秦の始皇帝が統一したのは「文字」であって、「読み」ではなかった。
異なる言語を話す人々が交易を行うために、一文字が意味を持つ文字を共有し、筆談が可能になった。
つまり歴史の裏にはいつも、言葉の通じない相手と「どうにかして気持ちを分かち合いたい」ともがいた人々の営みがある。
それは、現代の私たちが「大切な人にどう想いを伝えるか」と悩む姿と、地続きのものだ。
日本は、皇紀2686年。
世界で最も長く一つの王朝が続く国としてギネスブックにも載っている。
そう考えれば、日本の文化も、言葉も、とても長い時間を生きてきた。
海で隔たれた島国の共同体が、気の遠くなるような年月を共に重ねる中で、私たちは言葉を「ただ正しく伝える道具」としてだけでなく、お互いの空気を読み、察し合うための「お守り」のようにも育ててきたのかもしれない。
だから日本語は、何かを「正確に伝える」ための言葉というより、「感じ取る余白」を残すための言葉なのかもしれない。
愛している、と言わなくてもいい。
好きだ、と言い切らなくてもいい。
月を見上げて、「綺麗ですね」と言える距離感。
沈黙、空気、そういうものごと含めて、意味になる。
その曖昧さを不便だと思わず、むしろ美しいと感じてきた時間が、この国の言葉を、今のかたちにしてきたのだと思う。
もっとも、それを英語に戻すと、少し困ったことになる。
“愛しています” を「The moon is beautiful tonight.」と訳してしまった瞬間、相手は空を見上げて、天気の話を始めるかもしれない。
そこには、愛はない。
言葉にしなかったぶんは、どこにも届かない。
仕事柄、多くの言葉やコピーに触れてきた。
1から10まで完璧に説明された言葉よりも、少ない言葉で、あえて多くを語らない余白があるほうが、強い言葉として届くことがある。
ビジネスの世界でも、きっと人間関係でも、すべてを「正確に言い切る」ことだけが正解ではないのだ。
それでも、日本語ではそれで通じてしまう。
言わなくてもいい。
言わないままでも、なんとなく伝わる。
いや、正確には——
伝わっている“気になれる”。
日本語は、言葉で伝えきらなかった分を、「察し」で補う言語だ。
あなたは、どっちだろう。
ちゃんと言葉にする人か。
それとも、月を見る人か。
言葉にしないことで伝わるものと、言葉にしないから曖昧になるもの。
そんな日本語の余白について、別の記事でも書いています。
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この文章の背景にある、仕事と記憶の出発点については、
こちらにまとめています。
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