“やさしい人”の正体 | 音と記憶の間に― ひとりごとの記録 42
「やさしい人ですね」
この言葉を、何度も言われた経験がある。
そして、私自身も何度も使ってきた。
その一言で、ずいぶん多くの話を終わらせてきた気がする。
その場は丸く収まったが、何かが残った。
褒められているのか、
軽くみられているのか、判断できない感情。
ある時、ネット番組の中で、
中国語には日本語の「やさしい」を
そのまま一語で表す言葉がない、と聞いた。
在日中国人が、本国にいる中国人と電話で話していた時、ずっと中国語で会話をしていたにもかかわらず、ある瞬間だけ、思わず「やさしい」と日本語が混じってしまったという。
中国語で人を評価するときは、
もっと具体的だ。
親切なのか。
情が深いのか。
甘いのか、弱いのか。
何をどう評価しているのかを、
言葉にしなければ通じない。
「やさしい人だ」という、便利なまとめ方は、
中国語の世界では、どうやらあまり歓迎されてこなかったらしい。
では、英語はどうだろう。
kind は行為としての親切さ。
gentle は態度や性質の穏やかさ。
considerate は相手への配慮。
やはり英語でも、日本語の「やさしい」を一語で済ませるのは難しい。
つまり外国語で「やさしい」に相当することを表そうとすると、言葉が増えてしまう。
ではなぜ、日本にはこの便利な言葉があるのだろう。
日本語の「やさしい」は、
意味を削った言葉なのではない。
意味を確定させないための言葉なのではないだろうか。
「親切だ」と言えば、行為を評価している。
「思いやりがある」と言えば、内面を評価している。
「穏やかだ」と言えば、性質を定義している。
でも「やさしい」は、
それらをどれも断定しないまま、
良い印象だけを、そっと残す。
説明しなくていい。
角が立たない。
誰も否定されない。
日本語の「やさしい」は、
評価の言葉であると同時に、
関係を壊さないための緩衝材として、
実に優秀だ。
「優」という字は、「人」が他者の「憂い」を
自分の内に抱え込む姿から生まれたという。
断定せず、決めきらず、場を保つ。
こうした振る舞いが価値として共有されてきた背景に、日本人の思想の蓄積がある。
それは、日本人の思想の中に、
ずっと前から繰り返し現れてきたものだ。
聖徳太子の十七条憲法、
「和をもって貴しと為す」。
これは、「みんな仲良く」という
牧歌的な話ではない。
意見が違うことを前提に、
それでも関係を壊すな、
という、きわめて現実的な知恵だ。
日本語の「やさしい」も、
同じ場所から生まれてきた言葉なのだと思う。
正しさを競わない。
評価を確定させない。
それでも場を保つ。
それは、ときに美しい。
ときに、日本社会を静かに支えてきた知恵でもある。
けれど同時に、
何も決めないこと、
何も踏み込まないことを、
「やさしさ」という名札で正当化してしまう危うさも、この言葉は抱えている。
やさしいから、何もしなかった。
やさしいから、黙っていた。
その「やさしさ」は、
本当に、相手のためだったのだろうか。
それとも、自分のためだったのだろうか。
やさしさではなく、ただの回避の場合もある。
便利な言葉ほど、
ときどき立ち止まって、
中身を確かめる必要がある。
ただ、もしそれを確かめてしまったら、
私はもう「やさしい」という言葉は、
使えなくなるのかもしれない。
日本語は、感情をはっきり言い切らず、余白のまま相手に渡すことがある。
そんなことは、「月が綺麗ですね」の話でも書いています。
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もし、この感覚に少しでも引っかかるものがあったら。
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この文章の背景にある、仕事と記憶の出発点については、
こちらにまとめています。
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