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世の中おかしい Vol.4 | 義和団事件の真実──“列強 vs 民衆”の不均衡が生んだ絶望

列強の蛮行と、日本軍が示した“もう一つの近代史。


昭和の文豪・菊池寛が書いた『大衆明治史』


最近、Youtubeを通じて一冊の本に出会いました。(巻末に表示)
昭和の文豪・菊池寛が書いた『大衆明治史』。

この本は、戦後GHQによって**「禁書」扱い**となり、
長く歴史の中に埋もれていました。
しかし近年、ようやく復刻版が出版されています。

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下巻では、義和団によって占拠された天津・北京での出来事が
生々しい描写で克明に描かれています。

義和団事件——教科書ではほんの数行で済まされる明治の大事件。

極東の小国と思われていた日本が、
この事件で見せた活躍は、世界に衝撃を与えるものでした。


義和団事件のときに北京公使館に籠城した館員と居留民


以下、『大衆明治史』より引用


「誰一人、ここからて出られないのではないか」
そう感じるほど絶望的な状況だった。


明治33年 中国山東省、
阿片戦争を期に超不平等条約を結ばされ
西洋列強にずたずたに食い荒らされた清国。

そんな中、
キリスト教の排斥と外国人の駆逐をスローガンに立ち上がった
宗教的な秘密結社義和団。
その活動は見る見るうちに中国全土に波及。
ついに彼らは天津の居留地を襲撃。
北京の大使官を包囲するに至った。
日本にとってもこれは他人事ではない。

当時北京の日本大使館にいた軍人は24名のみで他は一般人。
他国の大使館にいた軍人と合わせても
軍人はたったの430人しかいなかった。
対する義和団の匪賊は3万人を超えている。
包囲の外には一歩も出られない。

ある時、
天津からイギリス軍が2000人の兵士を率いて救援に向かうも
匪賊にやられて早々と退散。

北京は孤立無縁に陥った。

壮絶を極めた60日間の北京籠城


何とか救援を呼ぼうとした日本の杉山書記生が支那兵によって殺害され、
続くドイツ公使も支那当局との交渉に赴く途中でやられるなど
事態は完全に悪化。

各国の救援隊がやってくるまで
60日間も籠城をし続けなければならなかった。

籠城で一番困ったのは武器弾薬と食料の不足だった。
弾薬を使い果たした後は、日本刀から仕込み杖、竹槍まで飛び出し、
中には棒の先へナイフを結びつけた即席の武器まで使用した。
最後には死んだ支那兵の武器をはぎ取り
弾薬の代用品として石や瓦をボロで包みこれに石油を浸して
火をつけて投げたこともあった。

また米や麦が真っ先に亡くなってしまった。
そこで初めは食料を半分に制限したが、
やがてかゆになり、
そのかゆも1日2回になった。

最後には青草を食べ、
犬猫やネズミまで見つけて食べる始末である。
馬も流れ弾で倒れたものから食べ、
200頭ほどいた馬もほとんど食い尽くしてしまった。

義和団の支那人たちは、はじめは城壁を乗り越え勇敢に攻めてきた。
しかし鉄砲の弾丸には叶わないと分かってからは、
無茶な突撃はせず、城壁を境いに睨み合いの状態が続いたのであった。
初めは
「馬鹿野郎ッ」とか
「阿呆め」と
悪口の投げ合いをしていたが、
1ヶ月も対峙していると、
そこに一種の情が湧いてきて…、
「お互いにご苦労なことだな」といった応酬がかわされる始末である。


日本軍のスパイ大作戦


何しろ敵は金に目のない支那人であるから
「馬蹄銀」という支那の大きな銀貨をそっとやると、
西瓜や卵などを持ってくる。
しまいには鉄砲を売りにくる者まで現れた。

そこで一計を案じた籠城組は、
彼らに金をやって密偵を募り、
天津にある列国の主力軍と連絡を計ろうということになった。

20数回こうした密偵を派遣したものの、
どれも失敗した。

しかし最後に張徳麟という男が守備よく使命を果たして帰ってきた。
張は銀貨に釣られてうで卵を持ってやって来た支那兵の1人だった。

中佐は彼をこっそり呼び、
「天津の日本軍へ行って福島安正大将の返事をもらってきてくれ、
金は300両やる」と言って彼に暗号の密書を与えた。
どうせこれも駄目だろうと諦めていると、
8月1日に無事に帰って来た。
見ると左手の指を3本も切られている。

天津に着いた時、日本軍に頼まれたことを示すため、
進んで自分で指を斬り、密書を福島少将に渡したのである。
その返事だと云って、
張は着物の縫い目から福島少将の手紙を差し出した。

そこまでして彼はなぜ日本軍の密使を務めたのか?


後にこう答えている。

「自分は義和団の1人として事変に参加したが、
戦争が長引くにつれてだんだん疑問が湧いて来た。
支那がこうして列国の外交団を苦しめているのは、
つまり全世界を相手に喧嘩をしいるようなもので
いずれヒドイ目に会う。
これは早く収まりをつけねばならぬが、
それには1番信頼のおける
日本軍を助けるのが早道だと考えたからです。」

当時、北京・天津間の通信は途絶えて久しく、
北京籠城軍は全滅ではないかと囁かれていた。
しかしこの知らせによって健在と分かり、
日本軍を主体とする
強力な救援軍が北京へ向かうことが決まったのである。


出兵の裏事情 日本軍の大活躍


北京に籠城する者の中には、
各国外交館の妻や子供がたくさんいて、
非常に苦痛を強いられている実情が広まるや否や、
「人道問題」として、
ついに英国などの世論を刺激しはじめた。

しかし
欧州から遠く離れた支那に最大限の兵力を運べる国は、
日本を置いて他に一国もなかった。

人一倍、領土獲得の野心があり、
支那にも近い露西亜(ロシア)でさえ、
その極東兵力を派遣するには限度があって、
たいしたことはできなかった。

彼らは「三国干渉」のことも口をつぐみ、
今度は急に日本に頼り出し、
その出兵を催促して止まなかった。

当時の駐英代理公使松井慶四郎の談話によれば、
松井が、
「何しろ三国干渉という前例があります。出兵した後で、
また何かと文句をつけられてはたまりませんから」と答えると、
当時の英国首相ソールズベリーは、
「それはそうかもしらんが、今度は違う。
人道問題です。」
としきりに得意の人道問題をかつぎ出す。

ロンドン・タイムスも
「人道のため、この際日本にやらせるのが一番いい」
としきりに日本を頼るようになった。

そこで日本は直に第5師団を動員した。
師団長は山口素臣中将であった。

これより先、
太沾砲台攻撃に向かった六か国の陸戦隊の中で、
日本海軍の陸戦体が最も勇敢だった。
砲台に1番乗りしたのはもちろんのこと、
日本の陸戦隊はあまりに早く前へ進みすぎて、
連合軍の弾丸に後ろから当たったものがあったというほどである。

天津城の完全占拠と同時に、
日本軍は直に水師営(支那海軍の兵営)を襲撃、
これを簡単に陥れた。

この水師営は、
前日に独・露・仏の連合軍が攻めて敗け、
日本軍に助けを求めに来たので、
日本軍が返答がわりに占領してやったのである。

天津を出て、
北京に向かう日本軍の士気はいよいよ旺盛で、
各地で敵を撃破していった。

北京が近づくと連合軍は各国がわれ先にと手柄を争い、
はじめから統一を欠いていた。

8月14日にいっせいに北京城外に達し、
各城門を破って入城を果たす。

記録では印度(インド)兵が午後3時頃英国公使館へ達したのが
一番乗りということになっている。

これに対して日本軍は正攻法で北京の表玄関の門を爆破。
敵の主力と肉弾線をやり、
日本の公使館に達している。
いかにも日本軍らしいやり方だった。

救援軍が到着すると、
籠城していた各国人は抱擁しあって泣いた。
外国の婦人などは、
感極まって夢中に城門外に駆け出し、
流れ弾に当たって死んだ者があったというほど。

実に60日ぶりに籠城軍は壕から出て、
天日を仰いだのであった。

北京についた西洋列強の蛮行 日本軍が見たもの


清朝末期の首都北京は、
国威は衰えているもののその富力は凄まじく、
あちこちに宝物、金銀があふれていた。

現地で戦った日本人の話によれば、
通州では道の砂利代わりに5両10両の「馬庭銀」を
敷き詰めてあったという。
北京でも、富豪の井戸の底にはとても数えきれない程の
銀貨が隠されてあったそうだ。

その北京へ入城した各国の兵隊は何をしたか?

それは「略奪」であった。

「西洋の兵隊の分捕りは話にもならぬ位ひどかった。
戦争は日本兵にやらせ、
自分たちは分捕り専門にかかったと言っても
言い過ぎではなかった程でした。」

中でもひどいのは仏蘭西(フランス)の兵隊で、
「分捕隊」という専門の隊をつくり、
現役の少佐がこれを指揮していた。

宮殿やら豪家から宝物を略奪しては、
支那人を雇って白河を下らせ、
そっくり太沾に停泊している
フランスの軍艦に運ばせたというが、
その品数だけでも莫大な量だった。

英国兵も北京や通州で大略奪をやり、
城内ではロシア兵はその本領を発揮して、
財物を盛んに運び出している。

現地にいた日本人は、
「事変後すぐに北京の町へ入ったが、
気のきいたものは何1つ残っていなかった。
持って行けないような大きな骨董類は、
みんな壊してあった」と語っている。

それにつけても日本軍の起立が清廉だったことは
勇敢さより幾倍も誇るべきことだった。

軍当局の処置が良かったことで、
兵隊は常に背嚢(荷物)検査を受けて、
文明国の軍隊としての名誉を失墜しないよう、
最新の注意が払われたのであった。

また下島氏(芥川龍之介の友人であり、
医者として衛生部員に従事していた)の談によれば、
通州におけるフランス兵の暴行は、
言葉を失うものだった。

通州入場後、
フランスの警備区域で
支那の婦人たちが籠城したという
女劇場へ行ってみると、
辺り一面死体の山…、

しかも若い婦人に対してひとり残らず行われた行為は、
人間業とは思えなかったと語っている。
それは1937年に起きた通州事件
(少なくとも300名の日本人が中国人によって虐殺された事件)
を遙かに超えるものだったという。

また戦場を視察した別の日本人によれば、
こんな記録も残っている。

「聞くところによると、
通州ではロシア・フランス兵の暴行を恐れ、
水瓶に身を投じて死んだ婦人が573人もいたそうだ」

「通州の人民はロシア・フランスの占領区において
兵が略奪暴行を始めたので、
人民は驚いて日本軍に訴えた。
日本守備隊はこれを救った。
ゆえに、人民はみな日本の占領区に集まってきて、
その安全を保った。
私は、現に佐本守備隊長の案内を得て、
その守備隊本部の近くに避難する幾多の婦人老人を目撃した。
彼らはみな私たちを見て土下座をした」

日本軍の品位と実力は、
支那の民衆の間に大きな信頼の念を植えつけたという点で、
今回の事件は大きく評価するべきだと思う。

日本軍の駐屯する所は、
各国の守備地域の何倍も繁昌したし、
民衆ばかりか支那の政府も日本を信用して、
北京の警察事務などを日本に委託していた。

また戦後は日本によこす留学生も激増したのであった。


『大衆明治史』からの引用終わり


義和団事件がもたらした歴史的転機


この動乱の最中、
ロシアは「鉄道保護」を名目に満州を占領。
それがのちの日露戦争へとつながっていく。

一方、英国はこの事件で日本軍の力量と節度を見て
「栄光ある孤立」を捨て、日英同盟を結ぶ。

また、清国の知識層は日本に信頼を寄せ、
多くの留学生が渡来。

彼らが日本語から翻訳して持ち帰った語彙が
和製漢語」となり、今も中国語の約7割を占めているという。


『大衆明治史』は、
明治の英雄たちがいかにして日本を「一等国」へ押し上げたかを、
生々しく、そして誇り高く描いている。

GHQが戦後の日本から消し去ろうとした、
“本当の日本の姿”がそこにはある。
戦勝国にとって不都合な事実で満ちた一冊。


現代の報道と教育が矮小化した「歴史」


こうした史実を読むと、あらためて感じる。
私たちは、あまりにも多くのことを「教えられていない」のではないか。

江戸時代末期に西洋列強に押しつけられた不平等条約は
「日本が非文明国」であるという烙印を押されたと言うこと。
明治の日本人達は、それを覆すべく
「文明国」である事を立証しようとした。

義和団事件をはじめ、
明治の日本人がいかに国際社会の中で奮闘し、
尊敬を勝ち取ったか。

その史実を正確に学ぶ機会は、
戦後の日本からほとんど奪われてしまった。

「侵略」「軍国主義」「反省」という
単語だけで一世紀を総括しようとする教育の中で、
日本が近代化を果たし、
世界の一等国として立った努力や矜持は、
意図的に語られなくなった。

GHQ占領下で進められた
「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」
——つまり、日本人に「罪の意識」を植えつける情報政策。

この影響は80年経ったいまも形を変えて続いている。
メディアは歴史を「加害と被害」の単純な物語としてしか伝えず、
教育現場では「日本が誇るべき近代史」を語ることがタブーになった。

少なくとも私が勉強をした昭和の時代には
このような話は全く出てこなかった。
令和のいまも、
教科書の記述は大きく変わっていないだろう。

過去を歪めて忘れる民族に、未来を描く力はない。
戦争の悲惨さを学ぶことと、先人の勇気や倫理を学ぶことは矛盾しない。
むしろ、その両方を知ってこそ、「誇りある自省」が生まれる。


GHQが封じた『大衆明治史』は、
敗戦によって失われた「日本人の自己肯定感」を取り戻す鍵でもある。


私たちは、もう一度自分たちの歴史を読み直す必要がある。
それは懐古ではなく、「国家の記憶」を取り戻すという行為だと思う。


最後まで読んでいただき、ありがとうございます。

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浅川幸三 | クリエイティブプロデューサー 共感でも、違和感でも。 何かが残ったなら、それで本望です。 サポートは次の一行のために。