The Beatles『Get Back』 ── 終わりは、あとから編集される
記憶の針を落とす Vol.26

中学生の頃、映画『Let It Be』を観た。
これはなんて寂しく、救いのない物語なのだろうと思った。
ビートルズは、もう終わっている。
当時の私は、その結末をはじめから知っていた。
映画が映し出すスタジオの空気は、鉛のように重く、会話はどこか噛み合わない。
ポールが必死に曲のアイデアを説明しているとき、ジョージはそっぽを向いてギターを爪弾いたまま、あからさまに退屈そうな表情を浮かべている。
言葉は交わされている。だが、その間にあるべき温度は完全に冷めきっていた。 リンゴはただ静かにドラムの椅子に座り、それ以上彼らの関係に踏み込もうとはしない。
カメラはただ、その冷徹な破綻を冷ややかに記録していた。
音は鳴っている。でも、その音の隙間から、彼らの絆がバラバラにほどけていく気配だけが痛々しく伝わってきた。
それが、私にとってのビートルズの終わりだった。
再編集された『Get Back』

だが、2021年。
あの時の423分に及ぶ未公開フィルムが、ピーター・ジャクソン監督の手によって『Get Back』として鮮やかによみがえった。
そこにいたのは、まったく違うビートルズだった。
同じスタジオ、同じ時間。なのに、画面から伝わる空気はまるで違って見えた。
ポールがベースを狂おしく弾きながら、まだ形にならないフレーズを何度も何度も繰り返す。その執念のようなノイズのなかから、「Get Back」のあのリフが、まるで奇跡のように立ち上がっていく。
それを見ていたジョンが、茶化すように横からおどけたコーラスを入れる。
一瞬にして笑いが起き、冷え切っていたはずのスタジオの温度が、一気に沸点へと跳ね上がる。
→ あの“途中にある音楽”を、そのまま体験できる記録
カメラは、彼らの関係をドラマチックに切り取るのではなく、ただ試行錯誤そのものをだらしなく、しかし生々しく見せ続けている。
そこにあったのは、「終わるための険悪な時間」などではなかった。
お互いへの激しいエゴのぶつかり合い、音楽的な主導権をめぐる嫉妬、そしてそれらを一瞬で凌駕してしまう「この4人でしか鳴らせない音」への純粋な興奮。
美しくパッケージされた『The Last Waltz』の劇的な崩壊とは違い、ここにあるのはもっと泥臭く、もっと混沌とした、終わりの手前にある「人間の執着」そのものだった。
終わると分かっている物語
末路を知っている観客は、どうしても物語のどこを切り取っても「終わりの予兆」として解釈したくなる。
ビートルズは解散する。
その重い事実が、私たちのフィルターになってしまっていたのだ。
だが、彼らは最初から終わりを目指して歩いていたわけではない。
あの冷え切った沈黙も、痛烈なエゴの衝突も、すべては彼らにとって「いつものこと」であり、音楽が生まれるための肥大化したゆりかごに過ぎなかったのではないか。
私たちは、いつでも自分の見たい結末を、過去に押しつけているだけなのかもしれない。
ルーフトップ・コンサート

ルーフトップコンサート、警官隊が屋上に上がる。
中学生の私が、部屋のラジカセの前で彼らの『Let It Be』を聴いていたあの頃、私は彼らの関係に勝手に悲劇の終止符を打っていた。
しかし、1969年1月30日のルーフトップ・コンサートの映像をもう一度見つめ直したとき、その身勝手な色眼鏡は粉々に砕け散る。
彼らは楽器を持って、アップル社の屋上に上がっていく。
スコセッシが用意した豪華なベルベットの舞台とは真逆の、ロンドンの容赦ない寒風が吹き荒れる、灰色に曇った冷たい平らな屋上だ。
4人は首をすくめ、凍える手でギターの弦を押さえ、冷たい風のなかで演奏を始める。 下では通行人が足を止め、警察官がオロオロと様子をうかがう。 その雑多で不格好なざわめきのなかで、音楽が鳴り響いた瞬間、世界のノイズが静まり返る。
「Don’t Let Me Down」
ジョンとポールが、それぞれのマイクに向かって、まるで互いの存在を確かめ合うように咆哮する。 そして、叫びながら、ふと二人の目が合う。
ほんの一瞬、ジョンがはにかむように笑い、ポールがそれに悪戯っぽく応える。 その刹那、彼らの間を支配していたあらゆる確執も、エゴも、すれ違いも、すべてが吹き飛んでいた。
あのとき、二人の関係は、まだ何ひとつ終わってはいなかった。
もう終わっている部分と、まだ泥臭く続いている部分が、同じ場所、同じ瞬間に同時に存在している。
だからこそ、あのルーフトップの演奏は、私たちの胸を激しくかき乱す。
終わりは、あとから編集される
『Get Back』を観て気づくのは、あの時間はまだ終わっていなかったということだ。
ほどけていく気配のすぐ隣に、確かに通じ合っていた美しい時間も同時に存在していた。ただ、私たちは後から振り返るとき、わかりやすい悲劇の結末に合わせて、勝手に過去のすべてを「終わり」で塗りつぶしてしまう。
終わりは、あとから編集される。
それはきっと、ビートルズだけの話ではないのだろう。
私たちが「最悪の幕切れだった」と鍵をかけてしまった過去の記憶や人間関係も、もしかしたら、光の当て方を変えるだけで、いつでも新しく編集し直せるものなのかもしれない。
終わりをつくるか、終わりにされるか
『The Last Waltz』には、緞帳が落ちるその瞬間まで、すべてが整えられた「終わり方の演出」があった。
だが、ここにあるのは、誰も終わりを選ばなかった、選べなかった時間だ。
ビートルズの終わりは、グラデーションのようにゆっくりとほどけていき、どこからが境界線なのか、本人たちにすら見えないまま進んでいった。
だからこそ私たちは、後付けの物語として、どこかに明快な「終わり」を捏造しなければ耐えられなかったのだろう。
あの屋上の下で、ロンドンの冬空の下で風に吹かれながら、ジョンとポールがふと目を合わせて笑う。
──あれは終わりの始まりだったのか、それとも、音楽の前では何も終わらないという最大の証拠だったのか。
あのほんの一瞬の響きが、今も私の耳の奥で、静かに回り続けている。
あなたの中にも、本当はまだ続いていたはずなのに、無理やり「終わり」に編集されてしまった大切な記憶が、ひとつくらいあるはずだ。
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あのルーフトップの続きを、
もう一度、ここで聴くことができる。
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