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中国四千年という不思議 | 世の中おかしい Vol.11

人は、何を「正しい」と信じるのか。

歴史は、いつも数字で語られる。
けれど、その数字は、どこから来たのだろう。


偶然から始まった、「つくる」ということ


人類が最初に手にした道具は、石器だ。

おそらくそれは、最初から「発明」だったわけではない。
偶然割れた石が、思いのほか鋭かった。
誰かがそれに気づき、使えそうだと感じ、やがて「こう割れば、こう使える」という知恵が積み重なっていった。

偶然は、やがて技術になる。

それは、ある日突然、世界が変わるような出来事ではなかったはずだ。
何世代も、何百年も、あるいはそれ以上の時間をかけて、少しずつ「使える形」が洗練されていったのだろう。

技術の始まりは、いつも地味で、遅く、そして記録に残りにくい。


この列島に残っていた、最初の痕跡


打製石器から、磨製石器へ。
偶然に頼らず、自分の手で形をつくる。
そこに、人類が「道具を持つ存在」になった境目がある。

興味深いのは、世界最古とされる磨製石器が、日本で出土していることだ。岩宿遺跡から出土したそれは、約三万八千年前のものとされている。

つまり、人類がかなり早い段階で「つくる」という行為に踏み込んだ痕跡が、この列島に残っている。


それでも、日本は数字を誇らない


しかし、日本人はこれをもって「日本は三万八千年の歴史を持つ国だ」などとは言わない。

そんな主張を聞いたこともない。
その事実は、事実のまま置かれているだけだ。

日本の歴史は、神武天皇から始まる。
それ以前にどんな遺跡が見つかろうと、それは「日本という国の歴史」とは切り分けて考えられている。

吉野ヶ里遺跡も、三内丸山遺跡も、日本史ではあるが、日本国の歴史ではない。国家という枠組みは、後からつくられたものだからだ。

この線引きは、かなり冷静だと思う。


文明と国家は、同じ時間を生きていない


メキシコに残るマヤ文明の遺跡


同じような態度は、他の国にも見られる。
いずれも、「文明」と「国家」を分けて考えている。

ドイツは、神聖ローマ帝国を、そのまま現在のドイツ国家の歴史として数えたりはしない。
メキシコも、マヤ文明やアステカ文明を「メキシコ何千年の歴史」とは言わない。

それらは、現在の国家が成立する以前に、その土地で栄えた文明として、きちんと切り分けられている。


「中国四千年」という、わかりやすい物語


ところが、世の中を見渡すと、どうにも不思議な数え方がある。

中国四千年の歴史。

子供の頃、そのフレーズを最初に聞いたのは、テレビの中のインスタントラーメンのCMだった。

どんぶりから湯気が立ち上り、ナレーターの声が「中国四千年」と告げる。当時の私にとって、それは味の説明というより、ひとつの壮大な物語だった。四千年という響きだけで、なんだか特別なものというイメージを受けていた。

数字は、味覚にすら影響する。
大人になって、その数字の出どころを調べるまで、私はずっとそれを疑ったことがなかった。CMのナレーションが、いつのまにか歴史の教科書と同じ重みを持って、頭の中に居座っていたのだ。
最近は五千年になっているとも聞く。

秦の始皇帝が中原を統一したのは、およそ二千二百年前だ。
これは学校でも教わる、はっきりした事実だ。

はじめての皇帝だから始皇帝と呼ばれている。
初めての前の出来事が、いつのまにか積み上げられている。

はじめてと呼ぶのをやめるべきではないだろうか。


常識の顔をした枠組み


では、四千年とは、どこから数えているのだろう。

調べていくと、ひとつの根拠として、「世界四大文明」というずいぶん都合のいい枠組みに行き着く

これも、かつては常識のように教えられていた。

だが現在では、同時代の文明や遺跡が世界各地で見つかり、その枠組み自体が揺らいでいる。

実際、「世界四大文明」という整理の仕方を教育の中で、今も使っている国は日本や中国など、かなり限られている。

それでも、この言葉は、どこか「常識」の顔をして残り続けている。
教科書、テレビ番組、広告、そして何気ない会話の中で、確認されることもなく、当たり前の前提として使われてきた。

一度そうして刷り込まれた整理の仕方は、その後にどれだけ研究が進んでも、なかなか更新されない。また別の根拠として、夏王朝の存在など、数千年前の遺跡を根拠にする説もある。

だが、それを国家の歴史年数として数えるなら、日本も、メキシコも、いくらでも数字を伸ばせてしまう。それでも、そうはしない国が多い。

どちらが正しいか、という話をしたいのではない。
歴史とは、事実の集積だけでできているのか。
それとも、どう語るかによって形づくられるものなのか。


数字は、考える手間を引き受けてくれる


数字には、説明を省略できる力がある。細かい背景や前提を語らなくても、ひとつの数字を示すだけで、何かを理解したような気分になれる。

だからこそ、数字はしばしば、考える手間の代わりに使われる。
とくに、大きければ大きいほど。けれど、その数字がどこから来たのかを考え始めると、少し足元がぐらつく。

人類最古の道具が何だったのか。
どこで、どのように生まれたのか。

本来なら、それは文明の始まりを考えるための話だったはずだ。ところが、いつの間にか、「何千年の歴史を持つ国か」という話にすり替わっている。

世の中は、こういうすり替えを、ときどき平然とやる。
問題は、その数字を信じるかどうかではない。なぜそれを疑わずに受け取ってしまうのか、という点にある。
私はただ、その数字を見たときに、少し不思議だな、と思っているだけだ。


疑わないことも、ひとつの選択


これは、中国に限った話ではない。歴史を「数字」に変換した瞬間、どの国でも起こりうる話だ。
史書が疑われにくいのと同じように、数字もまた、疑われにくい。
どちらも、「それらしく見える」という理由で、いつの間にか正しさをまとってしまう。
疑わないことそのものが、すでに一つの選択であることを、私たちはあまり意識しない。

世の中には、考え出すと、どうにも腑に落ちないことが、思った以上に多い。

あなたが子供の頃、疑わずに信じていた「数字」は、何だっただろうか。









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浅川幸三 | クリエイティブプロデューサー 共感でも、違和感でも。 何かが残ったなら、それで本望です。 サポートは次の一行のために。