「老害」は、感性の更新を止めた日から始まる。
音と記憶の間に― ひとりごとの記録 52
人は、老いる。
けれど本当に怖いのは、
年齢ではなく「更新をやめた瞬間」なのかもしれない。
私は流行をあまり信用しない。
流行は、たいてい通り過ぎる。
追いかけた頃には、もう次へ移っている。
だから昔から、あまり追わないことにしている。
それは慎重さとも言えるし、
あるいは頑固さかもしれない。
ただ、頑固でいることと、
成長しないことは、同じではない。
先日、打合せの合間、
中途半端な時間を持て余し、
近くのカフェでお茶を飲んでいた。
大通りを行き交う人を眺めていると、
気がつくことがある。
ある年齢で止まっている人がいる。
身体ではない。
思考や感性のほうだ。
かつて似合っていた服を、
今も迷いなく着ている人がいる。
それは自由だ。
ただ、ときどき服のほうが持ち主を懐かしんでいるように見えることがある。
止まるのは、年齢のせいではないらしい。
むしろ、かつての栄光があまりにもよく似合っていたからではないか。
かつて自分は光り輝いていた。
どこへ行っても、
初対面の相手からも
「可愛い」「かっこいい」と
言われていた時代。
その頃に似合っていた
鮮やかなワンピース、
当時流行していた髪型。
それを何十年も経ったいまも、
何の迷いもなく続けている人がいる。
けれど時は、ウソをつかない。
笑い皺は深くなり、顎の輪郭は、
かつてほどの緊張感を保ってはいない。
それでも服と髪型だけは、
あの時代のままだ。
時は進んでいるのに、
装いだけが足踏みをしている。
まるで、
衣装だけが青春のまま
留年しているようだ。
これはどういう心理なのだろう。
鏡を見ないのか。
それとも、
鏡の中にあの頃の自分を見ているのか。
喝采の余韻は、思いのほか長持ちする。
それを手放す理由が、
見つからないのだろう。
だから服も、髪も、
少しだけ時間から取り残される。
そして周囲だけが、
そっと季節を進めていく。
本人だけは、いまも春なのだろうか。
人の話を最後まで聞かなくなる。
理解より先に講評が始まる。
現場より解説席。
実践より総括。
軽やかな成果を見ると、
「昔はもっと苦労した」と整然と述べる。
過去は財産だが、
長く座ればソファにもなる。
柔らかく、立ち上がりにくい。
否定から入る癖がつき、
議論が不利になると論点をずらす。
外では組織を憂い、
中では静かにしている。
それでも本人は、
「本質を見ている」と思っている。
こうした姿を、
人はときに「老害」と呼ぶ。
ずいぶん強い言葉だ。
けれど本質は、年齢ではない。
変わらないことを誇りにした瞬間、
誰の中にも芽生える可能性がある。
止まるのは一瞬だ。
そして、動き続けるのも、
きっと一瞬の選択なのだろう。
無自覚である限り、
それは誰にでも起こる。
だからせめて、
自分だけは例外だと思わないでいたい。
そう思った瞬間が、一番危ない。
ときどき自分を疑うこと。
それだけは、忘れたくない。
だから私は、
「最近の若いものは」と言い始めたら、
少し危険だと思うことにしている。
若さではなく、自分を更新し続けること。
そんなことを、シリーズの最初にも書いていました。
📘シリーズのマガジンはこちら
もし、この感覚に少しでも引っかかるものがあったら。
✒入門編はこちら
この文章の背景にある、仕事と記憶の出発点については、
こちらにまとめています。
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