Netflix映画「パヴァーヌ」の中の名画 | ミジョンの部屋の絵と電信柱のポスターの意味
前回はNetflix映画「パヴァーヌ」に使われていたクラシック音楽をまとめましたが、今回は映画に登場していた絵画や写真について、まとめてみたいと思います。
音楽に関しては劇中登場するラジオ番組で曲名とともに紹介されていましたが、絵はまるで間違い探しのように、映画の至る所にさりげなく登場していたので、私は最初に見た時はほとんど見落としていました(汗)。
しかし今回、映画に登場する絵と、その絵が登場するシーンを改めて見返してみると、これらの絵が明らかに何らかの意図を持って使われていることが端々に感じられ、監督や美術スタッフの細部へのこだわりに改めて驚かされました。
見る人によってその解釈は変わってくると思いますが、今回はできる限り映画に登場した絵と、それらが持つ意味について自分なりに読み解いてみたいと思います。
※物語の結末に関するネタバレあり
ミジョンの部屋の絵その1:ムンク「思春期」
映画の中で最も分かりやすく登場していた絵は、ムンクの「思春期」だったと思います。ミジョンがヨハンの仲介でギョンロクと食事をして家まで送ってもらった夜、深夜にラジオでいつものお気に入りのクラシックチャンネルを聴いていたシーンで、ミジョンの部屋の机の前に貼られていました。
この絵は子どもから大人へと変わる思春期の不安や戸惑いを描いている、とされているそうです。裸でベッドに座る少女の背後には、彼女にのしかかるプレッシャーや恐怖を表すかのように黒い影が描かれています。そんな少女の心情は、今まで経験したことのない初めての感情に戸惑い、未知の世界への恐れを感じるミジョンの心情をそのまま表している気がしました。
ミジョンの部屋の絵その2:ムンク「接吻Ⅳ」
そんなミジョンの部屋の絵は、終盤ではあのクリスマスイブの日の出来事を連想させるムンクの「接吻Ⅳ」に変わっていました。
ミジョンが部屋で体操をするシーンや、ヨハンから届いた小説を机に座って読むシーンで、ダイニングテーブルの左の壁に飾られています。これは最初は全く気付かなかった…!
電信柱のポスターの絵その1:モネ「日傘をさす女」
ヨハンの行きつけの店、ケンタッキーHOPEの入り口の右側にある電信柱には、いつも「美術館の隣のクラシック」というコンサートのポスターが貼ってありました。そんなポスターで使われている絵が、登場するたびに変わっていることにも、二度目に見た時にようやく気付きました。
ヨハンが初めてギョンロクを誘って行きつけのケンタッキーHOPEを訪れるシーンのポスターには、モネの「日傘をさす女」が使われていました。絵に描かれているのは、モネの最初の妻カミーユと幼い息子ジャン。モネはこの絵に貧しいながらも幸せだった家族の時間を描いたとされていますが、カミーユはこの4年後に32歳の若さでこの世を去っています。
ここからは完全に私の深読みなのですが、この母親と息子という題材は、後にヨハンが居酒屋の主人にまるで狂言回しのように語って聞かせた自身の母親の話(「シンデレラの真のラストを知らないんですね」から始まる一人語り)へとつながる伏線なのかなと思いました。
というのも「日傘をさす女」は似たような絵が3枚存在するのですが、そのうち息子のジャンが描かれているのは、最初に書かれたこの1枚だけだからです。監督は幼いジャンにヨハンを重ねたのかなと思ってしまいました。
電信柱のポスターの絵その2:ゴッホ「包帯をしてパイプをくわえた自画像」
中盤以降、孤独を深めたヨハンが一人でケンタッキーHOPEを訪れた日のポスターに使われていたのは、彼のその先の展開を暗示するようなゴッホの「包帯をしてパイプをくわえた自画像」。耳切り事件直後の自身を描いたこの絵から1年半後、ゴッホは自殺を図り、この世を去ります。
家族からも厄介者扱いされ、かつての友達にも忘れ去られ、新生活で忙しいギョンロクも電話に出ない。そんな中、一人訪れたケンタッキーHOPEの前でタバコを吸うヨハンの寂しげな表情が、絵の中でパイプをくわえるゴッホと恐ろしいほど重なって見えました。
電信柱のポスターの絵その3:ムンク「メランコリー」
物語後半でミジョンもヨハンもいないデパートに一人戻ってきたギョンロクが、一人でケンタッキーHOPEを訪れた日のポスターに使われていたのはムンクの「メランコリー」。ムンク自身の失恋や離別の経験を元に描かれ、その孤独や深い悲しみを表現しているというこの絵も、大切な二人と離れ離れになったギョンロクの心情と見事にリンクしている気がします。
電信柱のポスターの絵その4:ジェラール「アモルとプシュケ」
大晦日の日、ギョンロクとの約束通り「いつもの店」の前で寒空の下、待ち続けるミジョンの隣の電信柱に貼ってあったポスターの絵はフランソワ・ジェラールの「アモルとプシュケ」。この絵は、いくら待っても現れないギョンロクを待ち続けるミジョンを隣からそっと見守っているようにも見えました。
ジェラールは皇帝時代のナポレオンの肖像画を描いたことで知られるフランスの新古典主義の画家。この絵はルーブル美術館に所蔵されており、2023年に東京と京都で開催された「ルーブル美術館展 愛を描く」のメインビジュアルにも使用され、来日していました。
モチーフになっているのは、ルネサンス期から西洋絵画の主題として描かれてきたギリシャ・ローマ神話の愛の神アモルと人間の王女プシュケの恋物語。その内容は「愛の神アモル(別名キューピット)と恋に落ちた美しい人間の姫プシュケが、美の女神ヴィーナス(=アモルの母親)の嫉妬により与えられた試練を乗り越えて一途な愛を証明し、神々の王ゼウスに不老不死の蜜を与えられ、アモルと永遠に結ばれる」というものです。
アモルはラテン語で「愛」、プシュケは古代ギリシャ語で「魂」を意味し、この神話は「魂が受難を乗り越え、愛によって成長する物語」として古くから愛されてきたそうです。過酷な試練を乗り越えて最愛の人アモルと結ばれるプシュケの物語は、映画のラストで明らかになる過酷な現実をも乗り越え、いつかまた彼と会うことを夢見るミジョンの物語とも重なる気がしました。
電信柱のポスターの絵その5:ベラスケス「ラス・メニーナス」
電信柱のポスターで最後に登場したのは、ベラスケスの「ラス・メニーナス(女官たち)」。ヨハンの小説の中で、ケンタッキーHOPEの前を通り掛かったギョンロクは、偶然このポスターを見掛けてコンサートへと足を運びます。
前回の投稿にも書いていますが、原作小説および映画のモチーフになったラヴェルの「亡き王女のためのパヴァーヌ」は、この絵に登場するマルガリータ王女の肖像画にインスピレーションを受けて作られた曲だといわれているそうです。
ちなみに、映画で登場したケンタッキーHOPEの外観は、ソウルの東大門の裏路地にある「두릅(トゥルプ)」という居酒屋が使われていました(内部はセット)。
韓国版「愛してると言ってくれ」にもよく登場していたお店で、最初に見た時に「あそこかな?」と思ったら、やっぱりそうでした。ソウルの都心のど真ん中にあるとは思えない、雰囲気のある店構えが印象的でしたよね。
ケンタッキーHOPEの店内に飾られた写真
数は多くありませんが、映画に登場した写真についても一緒にまとめておきたいと思います。
ケンタッキーHOPEの初登場シーンで、カメラの動きに沿って映し出される店内の壁には、なぜか人物写真がズラリと飾られていました。
一番左の伝統的なフェイスペイントをした先住民族らしき人物は特定できませんでしたが、左から2番目は元黒人奴隷で、アメリカの奴隷解放・女性解放運動家のハリエット・タブマン。そこから順に、日本でもよく知られたメキシコの女性画家フリーダ・カーロ、この居酒屋の主人役で特別出演していた俳優シン・ジョングン、そして朝鮮時代末期に「緑豆将軍」と呼ばれた甲午農民戦争(東学農民運動)の指導者、全琫準(チョン・ボンジュン)の写真が並んでいます。
ギョンロクの大学の授業で紹介されていた写真
ギョンロクの前から姿を消したミジョン。その「終わりの始まり」を告げるシーンで登場したのが、アメリカの写真家デュアン・マイケルズの「This photograph is My Proof」。デュアン・マイケルズは人物を被写体とした物語性のある写真に、手書きで文章を添える手法でも知られ、劇中でもこの写真に添えられた文章が読み上げられていました。
This photograph is my proof. There was that afternoon, when things were still good between us, and she embraced me, and we were so happy. It did happen, she did love me. Look see for yourself!(この写真が証拠だ。あの午後、まだ二人の仲が良かった頃、彼女が僕を抱きしめてくれて、僕たちは本当に幸せだった。あれは確かにあったことだし、彼女は僕を愛していたんだ。ほら、自分の目で確かめてみて!)
「あの時一緒にいた写真の中の彼女は今どこにいるんだろう? 僕らは本当に愛し合っていたのだろうか?」という教授の解説は言うまでもなく、ミジョンを失ったギョンロクの心境を代弁していたと思います。そしてギョンロクにとっての「証拠写真」は、彼が雪の中、バスに乗ってミジョンに会いに行く時にスマホの画面で見ていた、ヨハンの誕生日会の時に3人で撮ったあの写真だったのかなと思いました。
すっかり長くなってしまいました。ミジョン役のコ・アソンによると、本作の脚本には音楽や絵などの参考文献が最初からすべて書き込まれていたそうです。たった2時間の映画に、これだけの芸術作品をそっと忍ばせた監督のこだわりには改めて驚かされます。
その絵にどんな意味が込められていたのか。ここに書いたのはあくまでも一個人の解釈ですし、読み解き方に正解はないと思います。それでも、この投稿が少しでもお読みになった方の参考になれば幸いです。最後までお読みいただき、ありがとうございました!
