5年後は?
同志社大学名誉教授 太田肇氏の新刊『なぜ「賢い人」が集まってしょうもない意志決定がなされるのか』を読んでいます。
日本の会社員は「忠実なイヌのような会社人間」を演じているが、実は自立自尊のネコであるというユニークな視点が「目からウロコ」で、私自身の会社生活と研修を通して垣間見た受講者の方々の会社生活に照らして納得の分析に富んだ、実に面白い本です。
そして、ある一節を読んだ瞬間に、私のメーカー勤務時代のある場面があざやかに私の脳裏によみがえってきたのです。
まず、その一節を引用します。
例えば、新卒採用の現場を覗いてみよう。
第一次面接を担当するのは、入社二、三年目の若手社員であることが多い。彼らは人事部から「あなたが現場で一緒に働きたいと思う人を選んでいい」という指示を受けることがある。一見、現場の感覚を重視する民主的な手法に見えるが、ここには大きな落とし穴がある。
「一緒に働きたい」という言葉は、裏を返せば「自分を脅かさない人」や「自分と価値観が似ている人」という極めて個人的な好みの肯定にほかならない。
『なぜ「賢い人」が集まって
しょうもない意志決定がなされるのか』
日本経済新聞出版P166
その日、人事部で採用担当だった私は、人事部の先輩と2人で、1人の学生さん(男性)と相対していました。採用面接の第3ステージ、次の第4ステージで内定が出る可能性がありました。
その学生さんは、優秀でした。
子ども時代に父親の仕事の関係で海外生活を体験していたためなのか、ちょっと日本人離れしてハッキリ自己主張できるところがありました。それでいて、嫌味なところや思い上がった感じが一切なく、のびのびと爽やかだから、話は大いに弾みました。
発想はロジカルだし、交換留学でアメリカの大学でも学んでいたので、英語力もあるとみてよさそう。バスケットボールを続けていて、チームプレイができて体力もありそうです。
この青年は、良いと思いました。私が自分で会社を経営しているのなら、絶対に入社して欲しいと思いました。
しかし、人事部員としての私は、この青年を落としました。正確に言うと、次の段階の面接に招きしませんでした。私と一緒にこの青年を面接していた人事部の先輩も同じ判断でした。
なぜか?
私が働く会社で、5年後の彼が活躍している姿を想像できなかったからです。そして、この理由も、私と先輩で同じでした。
青年に「残念電話」をかけたのは、私です。彼の優秀さは認めているニュアンスをできるだけ伝えようとしましたが、どこまで伝ったでしょう?

先輩と私は、
〇個として優秀であるからといって、我が社で活躍できるとは限らない。
〇せっかくの優秀な人材を、我々が採用することで、あたら埋もれさせてしまうことがあり得る。
という感覚を共有していました。
先輩は入社15年目、私は12年目(ただし、2年間は企業派遣留学で社を離れていました)で、「我が社で活躍できそうな学生さん」のイメージが頭の中でかなりハッキリ描けていたと思います。
この話を読まれて、驚かれる方とうなずかれる方と、今では、どちらが多いでしょう?
今風の言葉で言うと、先輩と私は、「メンバーシップ型」雇用で、「働く人間の共同体」的性格の濃厚な企業に適した採用の仕方をしていたのだと思います。
今から振り返ると、あの採用方法が過去から連綿と続けられてきたことで「金太郎飴」的な社員を多数産みだし、企業の革新性を損なった可能性は否定できないと思います。
その企業は、やがて業績不振に陥り、同業他社と経営統合しました。経営統合したときには私は研修業界に転職していましたが、風の噂で表向きは対等合併だったが、実質的には吸収合併に近かったと聞きました。
あの面接の場面とともに、研修業界へ移ってから考え続けてきた問いも、よみがえってきました。
※採用とは、「優秀な人」を探すことなのか?
※それとも、「その会社で力を発揮できる人」を探すことなのか?
※そもそも、環境を問わず「優秀な人」がいるのだろうか?
いま、日本企業の雇用慣行は大きな変化の真っただ中にあると思います。その着地の仕方によって、私の問いへの答えも変わっていくのかもしれません。
雇用慣行がどのような形で着地するにしても、採用された側、採用した側が、どちらも笑顔で5年後を迎えることのできるような採用が定着することを願ってやみません。
ここまでお付き合いくださり、ありがとうございました。
