リゲイアの蒼白き湖面 第11話 チョコレートブラウニー
Titanが来る前、ママは休日になると、よくチョコレートブラウニーを一緒に作ってくれた。
小鍋にバターを落とし、弱火にかける。
「ユウちゃん、焦がさないようにね」
背中越しに聞こえてきたママの声は、いつでも温かかった。バターが溶けきったところに、刻んだチョコレートを落とす。
黒く深い色がじわっと広がっていくのを見つめながら、私は小さく笑った。
ママはいつも、最初のひとかけらをつまみ食いしていた。少し苦い顔をして、でも嬉しそうな顔だった。
別のボウルで砂糖と卵を合わせながら、そっとつぶやく。
「ママ、これでよかったよね……」
ふるいで落とした粉。
黒いチョコレートに吸い込まれて消える。
木べらの動きで、ゆっくり、もったりと波を描く生地の感触。

——そして、180℃で20分。
待ち切れなくて、オーブンの前にしゃがみ込んでいると、ママは決まってこう言った。
「ブラウニーはね、冷やしたほうが美味しいのよ。焼き立てはまだ赤ちゃんだから」
私はその言葉を思い出して、少しだけ胸が痛くなった。
ママはいつだって、待つことを「楽しみ」に変えてくれる人だった。
焼きあがるまでの間、必ず余ったチョコレートでホットチョコレートを作ってくれた。
「だって、これを飲んでるあいだに焼きあがるでしょ?」

そう笑って、鍋のチョコを温めた牛乳にそっと溶かしていた。
ミルクの湯気に濃いチョコの香りが混ざり、きらきら光る泡が表面に浮かぶ。
それを両手で包むと、心まで温かくなる気がした。
「焦らず待つ子はね、おいしい時間までちゃんと辿り着けるのよ」
※※※
私、日下部ミキがユウリちゃんと暮らす事になったのは、もう10年も前の話。
大きな震災があって孤児が溢れていた。私は養育者として彼女に出会う事になった。
私と夫との間には子供がいなかった、と言うよりできなかったのだ。
こんなに医学が進歩したのに、人工授精も体外受精も、今度こそはと思う度に襲ってくるのは、失意と絶望に近い感覚ばかり。
診察室の椅子に座りながら、医師から、もう年齢的に難しいと告げられると、頭が真っ白になった。
どうして私達ばかり?
と思わずにはいられなかった。

病院から出ると、いつもと変わらない日常の風景が広がっていた。
私だけ取り残されているような感覚。
ぼんやりと公園を眺めると、どうしても子供に目が行ってしまう。
ブランコで遊ぶ子供とそれを楽しそうに見つめる母親の姿。
なんてこと無い事が羨ましくて、
周りの人達が子供の話をしているのでさえ、恨めしく思えてしまった。
どうしようもない、空虚な感覚。心にすっぽり穴が空いているようだった。
大事なPUZZLEのPieceが足りなくて、探しても見つからない。
他のもので埋めようとしても、中々上手く行かなかった。
そんな時、知人から里親になる事を勧められた。
最初は抵抗があった。でも、夫と共に児童相談所に行き、話を聞いている内に考えが変わった。
夫は生物学者。
だから、私より血筋と言うか遺伝子の繋がりを重んじると思っていた。
だけど、むしろ逆だった。
「アロペアレンティング(他者養育)と言うのは人間だけではなくて、チンパンジーやイヌ科の動物にも見られる行動なんだ。私も興味深いと思っているよ」
と難しい話をしたけれど、施設の子供を見つめる顔が何だか嬉しそうで、内心はやっぱり子供が欲しかったんだと気付いた。たとえ、それがどんな形であっても。
研修を受けて、里親としての認可を受けた頃に、ちょうど日本海側を中心とした大きな地震が発生した。東南海沖を震源とした大地震で私達が住む場所は内陸だったから、津波の被害こそなかったけれど、地震の被害は甚大だった。そして、程なくして私達に養育の話が舞い込んできた。
最初の印象は、暗く不幸のどん底にいるような雰囲気をまとった子だと思った。
「ユウリちゃん、何か好きな遊びあるかな?
トランプとかお姉さんと一緒にやってみない?」
「………」
返事は無かった。私も経験が少ないから、こんな時どうしたらいいんだろう…
ただ、傍らにいる仔猫が気になる。
「ね、ねぇ、この猫ちゃん可愛いね!名前何ていうのかな?」
「……名前は…わからない」
「え?」
「私の猫じゃないけど、ずっと、一緒にいてくれたの」
「そう…じゃあ大切なお友達だね、ユウリちゃんが名前を付けてやったらどうかな?」
「…でも、どんな名前がいいかわからないから…」
「じゃあ、ユウリちゃんが好きなものとか、イイなって思うものを名前にしてみたら?」
「………」
ユウリちゃんは難しそうな顔をして考えてるようだった。
「いいのよ、そんなに直ぐに決めなくても、ゆっくり決めましょう」
私がそう言うと少し安心したようだった。

面会を済ませた後に、夫がこんな事を言った。
「あの猫を見てるとアタッチメント、つまり"愛着"をあの子と形成しているのが分かるよ。仔猫だからね、親と認識してるのかも知れない。あの子は、きっと優しい子なんだろうね」
そうなんだ…何だかあの子のことが少し理解できたようで嬉しかった。
こうして、私達は何度か面会を重ね、一緒に暮らす道を歩む事になった。
家にユウリちゃんを迎え入れてから、数日経った頃、事件が起きた……突然猫が居なくなったのだ。
「ミキさん、大変なの!猫ちゃんがいないの!」
いつになくユウリちゃんが取り乱していた。
住む場所が変わったから、元の場所に戻ってるのかも知れない。
「施設にも連絡してみるから、一緒に探しましょう」
雨が降り始めていた。
そんなに遠くまで行けるとは思えないけど、どこにいったの?
雨は次第に本降りになり、私達は雨に濡れながら必死で探す。
何処からか猫の鳴き声が聞こえた。
声の方に行くと、深い用水路の中に猫がいて、雨で水かさが増してきている。
高いフェンスがあり、下の方に網がほつれた箇所があり、恐らくそこから用水路に落ちたのだろう。
私はフェンスをよじ登り、飛び越えて、用水路に飛び降りた。
猫をすくい上げると酷く震えていた。
猫を抱っこして、ユウリちゃんの元に戻ると2人で猫を抱き合った。
「良かった…ありがとう…ミキさん」
泣きながらユウリちゃんは、猫を抱きしめた。
家に帰り、着替えをして、お風呂の用意を始めた。
身体が冷えているから、待ってる間に温かい飲み物を用意することに。
「ユウリちゃん、これ飲んで温まろうね」
「…これ… 」
「あぁ、ココアって言うの、美味しいでしょ?」
「似てる」
「え?」
「昔、ママがよく作ってくれたの…」
そう言うと目に涙を溜めて堪えている。
私は小さな身体で必死に堪えている彼女を見て、居たたまれなくなり、気づくと抱きしめていた。

「ごめんね、ママの事、思い出させちゃったね、辛かったね」
ユウリちゃんは、一頻り泣いたあと、まだ腫れぼったい目をしながら小さな声で、震えるようにそっと私に言ってくれた。
「違うの、嬉しかったの…優しい気持ちを思い出して」
「え?」
「ママの事、忘れたくなかったし、もうあの時みたいな気持ちになれないんだって思ってた」
そう言うと、ユウリちゃんは、少しもじもじしながら、続けた。
「ミキさんの事、お母さんって…言っていいのかな」
「もちろんよ!」
私は胸の奥から込み上げてくる熱いものを抑えるのに必死だった。
「…お母さん、あのね……
この子の名前、決めたの、
ココアにする」
私には、どんなに探しても見つからなかったPieceがあった。
でも、もう見つけた。
思えば、甘くて少しほろ苦いビターの効いた、でも美味しくてとろけるような、
まるでチョコレートブラウニーのようだ。
夫の仕事の関係で私達は、震災から3年後にこの土地に移り住むことになった。
ユウリ、私が愛すべき家族。
そして愛すべきユウリが、かつて住んでいたこの土地。
ここから、私達家族の物語は始まるのだ。
新居に着くと、車からユウリとココアが駆け出して行った。
「ユウリ、そんなに急がなくていいのよ」
焦らなくていいんだ、ゆっくりと育んで行ければ。
「え…うん、そうだね…お母さん!」

第11話 チョコレートブラウニー
終
