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リゲイアの蒼白き湖面 第13話 ビュリダンのロバ

「選択権は、いつだって君にあるんだ。どちらを選ぶか、それは君次第だよ」
白衣をまとったエルダー(年配の男性)は落ち着いた雰囲気だったが、どこか鼻にかけた話し方で、
"自分は優位に居る"とでも言っているような嘲笑を滲ませていた。

ほんの1時間前のことだった。
ユウリはココアのことが気になりながらも、心ここにあらずで学校を終え、自宅前まで来ていた。
「あっ…!!」
黒い高級車が玄関に横付けされ、ユウリを待ち構えているかのようだった。研究所の車だろうことは、すぐに察しがついた。
「ユウリ…」
心配そうに、ユウリを見つめるミキの姿を見つけると、ユウリは覚悟を決めるしかなかった。
ミキに余計な心配をかけさせたくないと言う思いと、ココアの事は…まだ話したくなかった。
「大丈夫ですよ…すぐに帰ってこれますから、少しだけお預かりします」
丁寧な対応で、研究所のスタッフが説明するとユウリを乗せた車はバベルの塔に向かった。

※※※

研究所の最上階に案内され、扉を開ける。
大きな窓の前に深々と椅子に腰掛ける年配の男性。
「はじめましてかな?
所長のLucius Kurosawa(ルシウス・クロサワ)、
と言うべきか…実は君のお父さんとは、よく知った仲でね…まぁ、伯父さんみたいに思ってくれたら嬉しいね」
そう言うと、手前にある応接スペースのソファに座り、話し始めた。
「少し、話をしよう。
我々の仕事は、少し誤解を受けている部分が多くてね。君のお父さんもこの研究所では実に貴重な成果を残している…
我々の理念は"人を救い、人の進化を支える"なんだ。
悪戯に動物実験をして、兵器にしてるわけじゃない。我々が生きていく為には"病"を克服しなければならない。その為の研究なんだよ」

ユウリは眉をひそめた。救いだなんて言葉、ココアを兵器のように扱う研究所の口から聞きたくはなかった。

「私も医師の端くれでね、救いたい命を見逃してきたことは、これまで何度とある。もっと医療が進歩すれば、救えた命は沢山あったんだよ」

ルシウスは、目を落としてひと呼吸した。
少し声のト―ンを下げて話を続けた。

「私の妻は乳癌で亡くなったんだ。
もう30年も前の話だ。
今でこそ、癌と言うのはほぼ完治できる病だが、あの当時は違った。私も色々と手は尽くしたよ。
救ってやりたかった。
苦しんで、最後には衰弱し切って、細々とした生命力の糸が、ちぎれるように途絶えた」

ユウリは思わず息を呑んだ。冷酷な研究者の顔しか知らなかったルシウスが、こんな痛みを抱えていたとは――その事実に戸惑いを覚えた。

ルシウスは視線をユウリに向けると、少し優しそうな顔を見せる。
「ユウリ君、私達には娘がいてね。
ちょうど彼女が、君くらいの年齢の時だった。
子宮頸がんになってね。
遺伝というのは残酷だ。
できるものなら、代わってあげたいと思ったよ。
娘には明るい未来が待っていただろうし、
もっと、人生を謳歌する権利があった。
なのに私は、またしても……
妻が亡くなって、3年後だったよ、私は大切な人を2人も失った」

ユウリの胸が締め付けられる。父を失った自分の痛みと重なり、ルシウスの言葉が妙に心に刺さった。

「だから、私は決めたんだよ。
私は人を救いたい。
どんな手段を取ろうとも、
希望ある若者や、何の罪もない、心優しい彼女達が死ぬ必要なんてなかったんだ。
たとえ修羅の道であろうと、私はやり遂げると誓ったんだ。
これが私の選択であり、決意であり、残りの私の人生そのものなのだと」

ルシウスの決意にユウリは息を飲んだ。彼の顔は、どこか狂気を帯びているように見えた。ユウリの手にじわりと汗が滲む。

「ネオビオータと言う存在を知ったのは、私にとっては、まさに運命だったのだ。
彼らの組織の一部に、驚くべき働きをするものが見つかった。あらゆる病を無効化し、傷口でさえ無かったかのように蘇生する。
更に驚くべきは、"生命力"なのだ。その組織を移植した個体は間違いなく命が伸びる。
これは、人類が長年追い求めた不老不死に近づく研究だと思った。
実に奇妙なことに、強い個体は生命力が強い。最初は偽相関かと思ったよ。
でも違った。
強ければ強いほど、彼らは強い生命力を持っている。
そのエネルギーこそが我々の未来に必要なんだよ」

ユウリの胸がざわついた。ココアの笑顔が脳裏に浮かぶ。彼女は兵器でも研究材料でもない、“家族”なのに。

「君に見てもらいたいものがあってね」
ディスプレイに映し出されたものは、ユウリには見覚えのあるものだった。
パパがよく書斎で書いていた数式。
パパに会いたくて書斎に行くといつもこの公式が、目に入った。
私の"能力"が分かるとあまり見せてくれなくなったけど、Titan、震災のあの日も、私は確かに見ていた。

ユウリの心臓が跳ねた。父の残したものを思い出し、懐かしさと共に、ここで利用されている――その事実に怒りと恐怖が入り混じるごちゃ混ぜの感情が込み上げてくる。

「その顔は、見覚えがあるって感じだね?」

「ひとつ、取引をしようじゃないか?
君が、K02の場所を教えてくれれば、我々が保護しよう。安全に命の保証はするよ。
そして、もし、君が知っているこの公式のことを教えてくれるなら、君にギフトをあげよう」
男はポケットから、小さなケースを取り出すと、中から赤と青のカプセル状の薬を出し、机の上に置いた。
「ここに2つのカプセルがある。
赤いカプセルを飲めば、君を長年苦しめてきた、その病…失礼。カメラアイ――サヴァン症候群に見られる能力だが、それを手放すことができる。
そして、ここからが重要だが、K02…我々はネオビオータと呼んでいるが、君は確かココアと言っていたかな?あの子の記憶を消去できる」

ユウリの手が震えた。ココアを忘れる?そんなこと、考えたくもない。

「ココアのことを忘れるって事?!」

「まぁ、そう言うだろうと思ってね、もう1つ用意したんだよ。
もう1つのカプセル、青い方だが、こちらは即効性がなくてね。君の能力は徐々に弱まることになる。そして、君が辛く苦しいと思う出来事を少しずつ消去してくれる。ココアのことも消去されない。
まぁ、この研究所に来れば、会うことだってできるんだ、悪い話じゃないんじゃないかな?」

「これまで通りと言う訳にはいかないことは、ユウリ君、賢い君なら分かるだろ。
どちらかを選ぶべきだ」
ユウリは赤と青のカプセルを見つめた。どちらを選んでも、自分の一部を失うような気がした。喉が乾き、呼吸が浅くなる。

「すぐにとは言わないよ。良く考えた方がいい。
それから、仔猫がいたね。
遺伝と言うのは、残酷だ。
手に負えなくなるといけないからね。
我々の研究結果からすると、発芽するとは思えないが、万が一ということもあるからね。
私達で引き取った方がいいかも知れないね」

ユウリは少し血の気が引くのを感じた。
アールグレイとミルクまで彼らに差し出してはならないと本能的に感じた。

「まぁ、お家に帰って良く考えるといい」

ユウリが立ち上がり、帰ろうとすると廊下で、入れ違いに黒い衣装の女性が入って行くのを見つけた。すれ違い際にユウリが、その背中を見た瞬間、死神にでも会ったような錯覚に襲われ、背筋が冷たくなった。

「リリス、後は頼むよ。
少し揺さぶりをかけておいたから、すぐに動くだろう。
いつもの通り頼む」

ルシウスの言葉に淡々と女性が応じる。
「解放して〔殺して〕もいいんだな」

「あぁ、公式を聞き出すには仔猫でも十分だろう。
K02は要らない」
ルシウスは続けた。
「彼女は迷うだろうね。
干草の前で立ち尽くすロバのように。
選べない者ほど、結末は残酷になるものだよ」

リリスが静かに顔を上げる。
その無機質な瞳を見て、ルシウスは満足げにニヤリと笑った。

13話 ビュリダンのロバ


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