リゲイアの蒼白き湖面 ー第1話 変わらない景色ー
空は青く、海は凪いでいた。
潮の香り。
初夏の朝、この雰囲気は時間がゆっくり進む感じがする。
防波堤の上に座り、高く青い空を仰ぎ見る。
この景色は、変わらない。10年前のあの時と同じ青い空。
この景色は、……忘れない。
―※※※―
その日は突然、やってきた。
日曜日の夜、私がベッドに入った頃に下から突き上げる様な激しい揺れに襲われた。跳ねるように倒れた家具が、買ったばかりのランドセルを踏み潰していた。経験した事のない恐怖と不安に動悸が荒くなった。
「ユウちゃん、大丈夫?!……怪我はないわね?」
ママが少し取り乱しながら、私の手を引いて避難する準備を慌しく始める。
「パパ……」
書斎を覗くと乱雑に広がった書類が目に入った。
見慣れない数式と図形。らせん状の2本の線やパズルの様な模様。
私に気付くと、パパがびっくりした顔をして、その後すぐに優しく話しかける。
「ユウリ、いいかい、今見たものは…だ…撮って……しま………」
なにか言ったけど、外から激しく崩れるような音がして、よく聴き取れなかった。
「私は、研究所に行かなければならない。……頼むよ」
パパがママに言うと、私たちは津波に備えて避難を始める。
でも、正確には、もう避難する場所なんて、この時には存在しなかったんだ。
避難タワーに登ったけど、想定を超える津波が来るなんて、誰も知らなかった。サイレンの音が聞こえる。夜の暗闇の中、倒壊した家屋や瓦礫が造作もなく流され始める。その光景は私を余計に不安にさせた。
その後は、恐怖と絶望。
最後にママの手が、私から離れる瞬間、どうしようもなく悲しい顔をしていたのを憶えている。
―※※※―
じっとりとした空気と、潮の香り。どのくらい時間が経っただろう……明るい。
重たいまぶたを開けると、青い空が広がっていた。
ゆっくりと雲が流れている。高い。風が海に向かって吹いている。

どこか遠くから、サイレンの音が聞こえる。
そうだ………私、波に飲まれて。
ゆっくりと身体を動かそうと、力を入れる。
身体中が痛く、ぐちゃぐちゃに濡れた服はドロに塗れてた。
なんとか身体を起こして周りを窺う。
高台に位置していたこの場所に、私は流されたんだ。
街は跡形もなく、私の知っている景色はそこにはなかった。
遠くに見える海は黒く暗く、ゴォォォという海鳴りと共に、荒々しく怒っている様に見えた。
とぼとぼと、歩き始めると、鳴き声が聞こえる。
(上から!?)
樹の上を見上げると、白い小さな生き物が不格好に動いている。
「………ネコ?」
(木の上に登って降りられなくなったのかな…)
白い仔猫はひどく怯えていて、私はネコを木から降ろしてやると、優しく背中を撫でてあげた。
その瞳はひどく弱々しく、だけど真っ直ぐに私をとらえる。まるで、誰かに見つめられている様な感覚。
「もう大丈夫だよ……ひとりじゃないから、大丈夫、大丈夫だから……うぅッ…うッ」
途端に堰を切ったように涙が溢れ、熱いものが胸の奥から込み上げてくる。もう、止まらなかった。抑える事はできなかった。

―※※※―
この日、日本を襲ったのは南海トラフ巨大地震。後に"Titan's Wrath(巨神の怒り)"と呼ばれる災禍は、想定を遥かに超える津波となって押し寄せ、海辺の街も、人々の暮らしも、そしてかけがえのない誰かとの時間さえも奪っていった。
潮の香り。
どこまでも続く青い空。変わらない景色。忘れない景色。
あの日、私は全てを失い、そして、この白い仔猫と出会った。
「リゲイアの蒼白き湖面」
第1話 変わらない景色
――終――
