なぜか赤ちゃんに「のけぞりガン見」される私
私はなぜか見知らぬ人によく話しかけられるのですが、実は私の行く手を阻む(?笑)のは、大人だけではありません。
むしろ、言葉を話す前の小さな子どもたちからの熱視線やアプローチの方が、数え上げたらキリがないほどなのです。
たとえば、まだ1歳に満たないような赤ちゃん。
抱っこ紐の中から、私の顔をじーっと見つめて目を離しません。
もう少し大きくなって首が座った子になると、すれ違いざまに体をよじらせ、限界まで首をのけぞらせてまで私を「ガン見」してきます。
ベビーカーに乗っている子に至っては、もはや身を乗り出す勢いです。
視線を感じるのは、歩いている時だけではありません。
レストランで「ん?」と思って顔を上げると、少し離れた席の子どもがこちらを凝視している。
エレベーターを待っている時、背後にツンとした気配を感じて振り返ると、小さな子が立ってじっと私を見つめている。
目が合うと、バツが悪そうにタタタッと逃げていく姿がなんとも微笑ましいのですが、心の中では「いや、君から見ていたんだよね?」と突っ込みたくなります。
さらに子どもが成長すると、視線だけでは収まらなくなります。
公園の横を通れば「おじちゃんあそぼ!」と初対面で誘われ、気づけば子どもたちのグループに強制加入。
独自のルールを丁寧に教え込まれ、一緒になって遊ばされることもしばしばです。
ある時は、海辺の砂浜で奥さんと並んでのんびり座っていたら、見知らぬ男の子がトコトコとやってきて、私たちにバシャバシャと水をかけ始めました。
遠くからそれを見たお父さんが、「こら!そっち違うで!」と慌てて怒鳴っている声が聞こえ、私の奥さんと思わず顔を見合わせてしまいました。
声を出しているわけでも、こちらから意識して見つめているわけでもない。
ただそこにいるだけなのに、なぜこれほどまでに、子どもたちは私を放っておいてくれないのでしょうか。
今回は、この「なぜか赤ちゃんや子どもに『のけぞりガン見』され、巻き込まれてしまう私」の日常について、大真面目に考察してみたいと思います。
よく声をかけられることも前回記事にしていますので、併せてご覧ください。
<第1章> なぜ私なのか?―大真面目に考える3つの仮説
それにしても、なぜこれほどまでに私は子どもたちに捕捉されてしまうのでしょうか。
怪しい不審者として警戒されているなら、子どもは泣き出すか目をそらすはずです。
しかし彼らの目は、好奇心と、どこか確信に満ちた光を宿しています。
ただ街を歩き、ただそこに座っているだけの私に、一体何が起きているのか。
自分なりにいくつかの角度から、大真面目にその理由を考察してみました。
(仮説①:生存本能が察知する「圧倒的無害オーラ」)
生き物としてまだ新米の赤ちゃんや小さな子どもは、大人が思っている以上に「安全な人間かどうか」を五感(あるいは第六感)で敏感に察知していると言われます。
野生動物が天敵の気配に敏感なのと同じです。
私のなかにある、社会的なトゲやピリピリとした緊張感のなさ――いわば「圧倒的な無害さ」や「にじみ出る包容力」のようなものを、彼らの野生のレーダーが瞬時にキャッチしているのではないでしょうか。
「このおじちゃんは、絶対に僕(私)を攻撃しない安全な存在だ」と本能が太鼓判を押しているからこそ、安心して限界まで首をのけぞらせたり、背後からじっと観察したりできるのかもしれません。
(仮説②:赤ちゃんの視覚を刺激する「何か」がある?)
心理学や小児科学の世界では、赤ちゃんはコントラストがはっきりしたものや、優しく丸みのある造形、あるいは適度な大きさのパーツ(眼鏡や眉、目元など)に強く興味を示すとされています。
もしかすると、私の顔立ちや体型、あるいは醸し出す全体のフォルムが、子どもたちの視覚世界において「非常に収まりが良い」か、もしくは「なんだか気になる魅力的なデザイン」に映っている可能性があります。
彼らにとって私は、街角に突如現れた「すごく気になるキャラクター」のような状態なのかもしれません。
(仮説③:まさかの「前世の知り合い」説)
これは少しエッセイ的なロマン(あるいは妄想)ですが、ベビーカーから身を乗り出してまで私を見てくるあの必死な表情を見ていると、「お、久しぶり!」とでも言いたげな懐かしさを感じることがあります。
もしかしたら彼らは、つい最近までいた『あの世』のような場所で私と何らかの約束をしていたか、あるいは前世で深い親交のあった古い友人なのではないか。
言葉をまだ持たないからこそ、「あーーっ!あの時の!」という魂の叫びが、あの「のけぞりガン見」という全身を使ったポーズになって表れているのではないか……そんな風に考えると、ただのすれ違いが一気に壮大なドラマのように思えてくるのです。
<第2章> ガン見された私の、静かなる脳内葛藤
こうして日々、子どもたちの熱烈な視線を浴びているわけですが、当の私はというと、そのたびに心の中でなかなかに激しい葛藤をくり広げています。
何しろ相手は、一切の計算も邪気もない、純度100%の瞳です。
そんなピュアな光線が真っ正面から(あるいはベビーカーから身を乗り出すような角度から)飛んでくるのですから、大人の私としてはどう振る舞うべきか、一瞬で脳内シミュレーションを回すことになります。
まず直面するのが、「見つめ返すべきか、目をそらすべきか」という問題です。
以前の私は、あまりに嬉しそうに、あるいは不思議そうに見つめられるものだから、つい嬉しくなって目線が合うとフワッと微笑み返していました。
ところが、これが「作戦成功!」とばかりに火に油を注ぐ結果になるのです。
私の微笑みをキャッチした赤ちゃんは、「あ!あの大人、ボク(私)に気づいてくれた!」とばかりに目を輝かせ、さらに嬉しそうに、そして確信に満ちた表情で余計にじーーっと見つめてくるようになります。
のけぞる角度はさらに深まり、視線の熱量は倍増。
お互いにロックオン状態のまま、すれ違うまでの数秒間、濃厚なサイレント・コミュニケーションが発生してしまいます。
ただ、ここで大人の男が赤ちゃんにずっと微笑みかけていると、傍らにいる親御さんに「あら、知り合いかしら?」と余計な気を遣わせたり、最悪の場合「急に知らないおじさんがうちの子をロックオンしている」と警戒されたりする恐れがあります。
現代社会を生きる大人として、不審者認定されるリスクはできれば避けたいところ。
心の中では(うん、今日もよくのけぞってるね。首、痛くならないかい?)と愛おしく思いつつも、親御さんの視線も網膜の端で計算しなければならないため、私の脳内はいつも大忙しです。
さらに、このコンタクトが通用しないのが、レストランやエレベーターでの「不意打ちパターン」です。
レストランで背後にツンとした気配を感じ、つい無防備に振り返って目が合ってしまった瞬間。
あるいはエレベーターを待っている時、後ろの小さな影とバッチリ視線が衝突してしまった時。
微笑み返す間もなく、相手の子どもが「ハッ!」とした顔をして、バツが悪そうにタタタッと親の後ろへ逃げていくのを見ると、私の脳内はさらに別の葛藤を始めます。
(いやいや、逃げるってことは『見ていた自覚』があったんだよね? なんで見つかって気まずそうな顔をしてるの? 悪いのは私じゃないよね?)
逃げていく小さな背中に向かって、声にならない突っ込みを入れつつ、なんだかこちらまで「見てはいけないものを見てしまった」かのような、妙な気まずさを覚えるのです。
言葉を持たない赤ちゃんや子どもたちとの、わずか数秒のコンタクト。
一度目を合わせれば、笑顔のアンコール(余計にガン見される)が待っている。
彼らはただ本能のままに動いているだけなのに、私はそのたびに、大人の分別と、彼らの純粋さに応えたい気持ちの間で、激しく揺さぶられているのでした。
<第3章> 「よく話しかけられる」こととの、意外な共通点
さて、ここまで子どもたちからの熱烈な視線や、時には強烈なアプローチ(主に水鉄砲などによる物理的な洗礼)についてお話ししてきましたが、実はこれ、私にとっては「またか」と思う節もあります。
というのも、私は昔から、道ゆく見知らぬ大人から「よく話しかけられる」タイプの人間に分類されるからです。
道案内を頼まれるのは日常茶飯事。
スーパーのレジ待ちで前の見知らぬ高齢の方から世間話を振られたり、店員さんと間違われて声をかけられたり、電車の座席で隣になった人から人生相談が始まったり……。
どうやら私の顔には、おでこのあたりに「受付中」という見えないネオンサインでも光っているようです。
そして、この「大人からよく話しかけられる」という性質と、今回の「赤ちゃんや子どもにガン見・巻き込みされる」現象には、根底にまったく同じ共通点があるのではないかと気づきました。
それは、自分自身が持つ「心の門構えの広さ」、つまり圧倒的な「ウェルカム感」です。
大人も子どもも、本質的に「拒絶される恐怖」を持っています。
人に話しかける時、あるいは誰かをじっと見つめる時、相手の目が据わっていたり、バリアを張っていたりすれば、防衛本能が働いて近づきません。
しかし私の場合は、自分でも気づかないうちに「どうぞ、いつでも話しかけてください」、「見ていただいて構いませんよ」という、オープンな心の門扉を全開放している状態になっているようなのです。
大人たちはその門構えを見て「この人なら、突然話しかけても邪険にしないだろう」と安心して声をかけてくる。
言葉や社会的なフィルターを持たない子どもたちは、より純粋にその「門の広さ」を感じ取り、「お、ここは入って遊んでいい場所だ!」と言わんばかりに、躊躇なく自分のグループのルールを教え込んできたり、水混じりの親愛の情をぶつけてきたりするわけです。
年齢、性別、果ては言語の壁すらも超えて、なぜか「この人なら、今の自分をそのまま受け止めてくれそう」と思わせてしまう。
昔は「なんで自分ばかり……」と不思議に思ったこともありましたが、大人から子どもまでが引き寄せられてしまうこの私の性質は、どうやら一種の「心のバリアフリー構造」のようなものなのかもしれません。
よく声をかけられることも前回記事にしていますので、併せてご覧ください。
<結び> のけぞる赤ちゃんに、心の中でエールを

最初は「なぜ私だけがこんなにガン見されるのだろう」と不思議で仕方がなかったこの現象も、今では私の日常に欠かせない、ささやかで愛おしいアクセントになっています。
言葉を持たない赤ちゃんが、首を痛めそうなほど一生懸命にのけぞりながら世界を学ぼうとしている。
その瑞々しい好奇心の視界に、たまたま私が入り、彼らの小さな記憶の1ページに刻まれる。
さらに少し大きくなった子どもたちが、私を仲間に引き入れ、一生懸命にルールを教えてくれる。
そうやって全力で世界と関わろうとしている彼らのエネルギーに触れるたび、私はなんだか少し誇らしい気持ちになるのです。
大人から子どもまで、多くの人が無警戒に近づいてきてくれるこの性質は、年齢を重ねた今の私にとって、神様からいただいた最高のギフトなのかもしれません。
もし皆さんも街を歩いている時、ベビーカーの上で限界まで首をのけぞらせて、じっと何かを見つめている赤ちゃんを見かけたら、どうか温かい目で見守ってあげてください。
その赤ちゃんの視線の先には、きっと私のような、見えない「受付中」のネオンサインを光らせた、無害な大人が立っているはずですから。
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