わが家の悲劇は、たった6文字から始まった
残業中、手首のスマートウォッチがブーンブブッ!と震えた。妻からのメールだ。こんな時間に珍しいな。嫌な予感がする。
手首に目をやると、そこには短い一文だけが表示されていた。
「いよいよかも…」
ボクはまだ知らない。
このたった6文字が、約1ヶ月に及ぶ悲劇の始まりだということを。
***
日本中が倦怠感に包まれていた、GW明け初日の5月7日。時計はとっくに定時を過ぎていた。心だけが一足先に帰宅してしまったボクは、黙々と作業を続けるマシーンと化していた。
つい一昨日には娘の結婚式という、人生でも指折りの幸せな日だったというのに……この落差はなんだろう。父として大きな役目をひとつ終えたボクは、燃え尽き症候群に陥っていた。
ように見せかけて、ただただ仕事にやる気がなく、1秒でも早く帰りたかった。そんなときに来たのが冒頭の「いよいよかも」メールだ。
意味がわからない。誰かと間違えているのだろうか。とりあえず放置しとこうと思った矢先、「無視しないで!」とばかりにブーンブブッ!と再び手首が震えた。妻からこんな動画とメッセージが送られてきた。

動画には、見慣れないエラー表示が映っていた。
どうやら、エコキュートが壊れたようだ。
あわわわっ、ど、ど、どうしよう!?などと、あたふたするようなボクではない。ドンと構え、眉ひとつ動かさない。なぜならボクは今マシーンだから。ではなく、実はここ1年で、今日のようにお湯が出なくなったことが2度あった。(じゃあ直せよ)そのたびに少し時間を置けば何事もなかったかのようにお湯が出ていたから、今回もきっと同じだろうと楽観視していた。
ただ、このエラー表示は初めて見た。嫌な予感が膨らんでいく。あぁ、早く帰りたい。妻も困っている。
結局、ボクが帰宅できたのは22時30分だった。
***
「ただいま〜」
「おかえりぃ!!」
ダダダッと駆け寄り、ボクの胸に飛び込んできた。よっぽど待ちわびていたのだろう。顔中を舐め回される。その熱烈な愛情表現に思わず笑い、その小さな体をギュッと抱きしめた。わが家の愛犬モンちゃんを。
そして、それを見つめる妻にまずは確認してみる。
「出た?」
「出ん」
最初のメールが来てから、すでに3時間が経っていた。なのに、まだお湯が出てこない。どうやら過去2回とは違うようだ。まぁ、このエコキュートは15年前に家を建ててからの物なので、いつ壊れてもおかしくはないのだけれど。
今日の風呂どうしようか。今から銭湯に行くのも面倒くさい。そう思いながら「エラーP01」を調べてみると、「給湯用電動混合弁の異常」と書かれていた。要は、お湯と水を混ぜて適温にする部品が壊れたらしい。
エコキュートの再起動、リモコンの電源ON/OFF、ブレーカーの入れ直し。色々試したが、すべて玉砕。
万事休すかと思われたその時、ネットに気になる一文を発見した。
お風呂は通常通り使えるケースが多いです。多いです。多いです。(エコー)
最後の望みをかけ、「お湯はり」ボタンを押してみる。
ピッ!
「39℃、180リットルでお湯はりをします。お風呂の栓はしましたか?」
毎日聞いてきたエコキュートのお姉さんの声が、なんだか今日は違って聞こえる。
ジャ!ジャァァアーーー!
果たして、出てきたのはお湯か?水か?
恐る恐る手を伸ばしてみると…
お湯ーーーーーー!!!!
「お湯やわ!」
まるで石油でも掘り当てたかのようなテンションで、妻と顔を見合わせる。とりあえず、銭湯通いは免れた。
でも、このままという訳にはいかない。もうこんな時間なので、業者にメールで問い合わせを入れておこう。
先の見えないモヤモヤを抱えたまま、その日は眠りについた。
このときのボクは、まさかこの悲劇が約1ヶ月も続くなんて、思ってもいなかった。
***
朝起きて、もしかしたら昨日のことはすべて夢だったのかもしれないと思い、お湯を出してみた。が、やっぱり夢ではなかった。その水の冷たさで、一気に目が覚めたボクは、重い足取りで出社した。
ボクはひとつ気になることがあると、それが解決するまで落ち着かない性分だ。だから業者からの連絡をソワソワしながら待っていた。
すると朝礼後の朝イチに、業者から電話がかかってきた。その内容は大まかにこうだ。
15年前の製品ということもあり、供給が無くなった部品が多く修理対応が難しい。仮に修理できたとしても他の箇所も壊れてくる可能性が高い。なら、買い換えた方が良くね?
……ですよね。
ボクはその場で新しいエコキュートの見積りをお願いし、電話を切った。そして、その日のうちに送られてきた見積りを検討し、何度かのラリーの後、翌日には新しいエコキュートと工事日を決めた。
工事日は最短で15日後だという。まじか。15日って2週間だぞ?半月だぞ?
こうして、ボクたち夫婦はお湯無し生活に突入した。
***
ふぅ〜〜ーー・・・・・・
目を閉じ、精神統一をする。
ていっ!
心の中で気合を入れ、一気にシャワーを頭に浴びせかける。
シャワァァァ〜〜〜
ぐぉぉぉー!冷てえーー!!!
シャンプー後の泡を洗い流すため、ボクは毎日、水しか出ないシャワーに挑んでいた。それはもはや滝行だった。
最初は湯船のお湯で流そうとしたのだが、スッキリさせるには大量のお湯が必要だった。短髪のボクでさえそうなのだから、妻はもっと必要だろう。だから、妻の使うお湯が足りなくならないよう、最後に洗い流すときだけ滝行をしていた。
あとで聞いたら、どうやら妻も同じことをしていたらしい。お互いを思いやれる素敵な夫婦だ。
幸い、5月とは思えないほどの暑さが連日続いていた。それでも、やはり水は厳しい。
巷には、コールド(冷水)シャワーなる健康法があるらしいが、健康になるどころか、寿命が縮んでいる気しかしない。かといって、風呂をキャンセルする界隈にはいないので、やるしかない。
お湯が使えないって、なんだか……とっても、みじめだ。わが家が急に貧乏になったかのような気がした。
そんな生活にあまり慣れることもなく、長い長い15日間がゆっくりと過ぎていった。
***
ピンポ〜ン♪
ついに「15日間お湯無し生活」の終了を告げるチャイムが鳴った。
昼食後すぐに始まった工事は数時間で終わり、そこからさらに数時間かけて、ようやくタンク内にお湯がたまった。
さあ、ひとっ風呂浴びてみよう。
ピッ!
「お湯はりをします。お風呂の栓はしましたか?」
そこには知らないお姉さんがいた。前のお姉さんの方が優しい感じがしてボクは好きだったな。まぁいい、説明書でも読んで待っていよう。
♪~♪〜♪〜〜♪
「お風呂が沸きました」
メロディーもガラリと変わってしまった。全てが新しく生まれ変わったエコキュート。そんなお風呂に入るため、ボクも生まれたままの姿になって、浴室へ向かった。
ガラッ!
見慣れたはずの浴室が、今日はやけに明るく見える。湯船に浸かる前に、まずは体を流そうとシャワーに手をかける。もう気合を入れる必要はない。
シャ〜〜
なかなかお湯にならない。
シャ〜〜シャ〜〜
ここ最近、水しか出なかったシャワーに少しずつ命が宿る。その温もりを確かめるように、まずは足にかけてみた。あったかい……ボクはいつもより念入りに体を流してから湯船に浸かった。
シャンプーの後も、泡のヌルヌルがなくなるまで流せる。そんな当たり前のことが幸せだった。
ボクの後に入った妻も、「久しぶりにさっぱりしたぁー!」と、憑き物が落ちたような顔で出てきた。
そんな喜ぶボクと妻を尻目に、お風呂が大嫌いなモンちゃんだけが、不満そうな顔をしているように見えたのは気のせいだろうか。
こうして、突然の悲劇に見舞われたわが家に、やっと平穏が戻ってきた。
お湯!バンザイ!LOVE!
めでたしめでたし。
それから10日後 ──
ブーンブブッ!
残業中、手首が震えた。
妻からの動画とメッセージだ。
デジャビュ……?
すでに嫌な予感しかしない。
恐る恐る見てみると……

悲劇は、まだ終わっていなかった。
ウソ…だろ……
あんな大金払って?
どういうことだ??
ふざけんな!
プリプリしながら業者に連絡すると、翌日メーカーが対応するとのこと。
結局その日は、タンクに残った少ないお湯で一夜を過ごすはめになった。
そして翌日 ──
結論からいうと、その日の夕方には無事直った。
エラーの原因は、施工業者のごくごく初歩的な施工ミス。直しに来たメーカー曰く、今回のようなミスはしばしばあるらしい。
「これ、結構間違えやすいんですよねぇ」
じゃねーよ。それなら余計慎重にチェックしろよ!それから、メーカーも間違いが起こらないように改善しろ!
「一概に施工業者さんが悪いとも言えないんですけどね」
なんだよそれ。なんの忖度だよ。もういい。疲れた。
その日の夜、ボクはこのイライラを、たっぷりのお湯で洗い流した。
***
こうして、約1ヶ月に及ぶ悲劇は幕を閉じた。
この家を建てて15年。最近、毎年のように何かしら故障している。
そして30代だったボクも来年50になる。毎日どこかしら体が痛い。
家も人も、もう若くはない。早め早めのメンテナンスが必要だ。
さあ、夕飯の前にひとっ風呂浴びよう。
風呂上がりのビールが楽しみだ。
♪~♪〜♪〜〜♪
「お風呂が沸きました」
今回の話は、この娘の結婚式から2日後に起こった出来事です。
この日との対比をお楽しみください。
