声(7)
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食事や仕事が手につかない。明らかに覇気のない恵美子を見かけて、伊豆は責めることもなくただ肩を叩いた。
「あんたはよくやったよ。お母さまの心とあなたの心のスピード感がたまたま合わなかっただけでしょ。そういうことはよくある話だよ」
椎木は恵美子に有休を取るように言った。こういう時こそ休みが大事だからゆっくりしてほしい、との心配り。深く考えることにもただ疲れていたので、恵美子は甘えることにした。
よるべなさと溶け合いたくて。
一人、夜の道を無心で走った。どれくらい走ったのか。おそらく海が近い。深い漆黒の向こう側の地平線にうっすらと街明かりが見える。気づけば辺りは知らない風景だった。ガソリンが少ないので、道沿いのさびれたセルフスタンドに寄る。給油口のキャップを外して、ノズルを握り込む。ふと、フロントガラスに汚れがついている事に気づく。
ドライブスルー式の洗車機に向かう。
電光掲示板が「停止」を告げた。門のような洗車機は前方から後方へ移動した。勢いよく水しぶきが車体にかけられていく。ガラスをぼんやりと見つめた。
水は生き物のように踊りながらこちらへ向かってくる。不規則に打ち付ける水流を見て、恵美子は洗い流してほしいと願った。母の悲しみ、私の悲しみ。世界のどこかの誰かが抱く悲しみ。大事なものはなぜ奪われるのだろう。幸せはなぜ続かないのだろう。人はなぜすれ違ってしまうのだろう。こびりついた悲しみや苦しみ全てを洗い流してほしい、と祈る。
青と灰色のブラシがくるくると回転しながら眼前に迫る。ドドドドと振動と音にまみれて車体を包む。
そこで、携帯電話がなった。
こんな深夜に誰だろう。
あわてて助手席のスマホをタップする。
母から、だ。
どうしよう、どうしよう。
あわてて出たが、違和感があった。
これは「メッセージ」じゃない?
通話だ。母は話せないので通話でかけてくることはないはずだ。
目を疑った。
「あの、あの、ちょっと待って……今聞こえないの!」
ブラシが終わって、センサー式の細い鉄の棒から乾燥の風が吹きつけられる。スマホの音が聞こえない。恵美子は心臓がはねた。こちらの声は聞こえているのかもわからない。絶えず話しかける。
洗車がやっと終わった。無音になって、はっきりと聞こえた。
「恵美子、ありがとう」
母の声。母の人工音声が、電話越しにはっきりと聴こえた。
恵美子はその声に胸があふれそうになって、ハンドルを握って泣き崩れた。
車体の水気を雑巾で拭きとりながら、恵美子はハンカチで涙をぬぐった。スマホの画面にはこう記されていた。
“恵美子も奈津も椎木さんも、それから関わってくれた人たち。この前のことは申し訳なく思っています。
ラジオのこと。生きているうちに話すつもりはありませんでした。話すことが私は好きで、忙しい中でも何か自分の好きなことにチャレンジしたい。そう思ってラジオのパーソナリティに応募しました。あなたたちのお父さんは全て知っています。最初はお父さんに向けて、私は話していた。造船の工場でお父さんは懸命に働いた。工場で流れるラジオを、お父さんはいつも聞いてくれていた。一人に届けることから始まったラジオは、思った以上に広がってとても楽しかった。番組は事故後、降板させてもらいました。こうたろうさんだけ残って他の新メンバーを迎える案も出ていましたが、こうたろうさんは「僕はノンノさんだからよかったんです。だから僕も辞めます」と言って番組は終了しました。
私、本当にショックだった。自分の声が出ないこと。自分の一部を失ったようだった。自分の弱い部分を、家族が心配するから見せられなかった。いつまでもそこに執着しても仕方ない。ラジオのことは忘れたかった。
でもね、お父さんに言われたの。
「一人になるな」って。「お前はすぐ一人で抱え込む」って。それで思い直しました。
私はみんなといたい。
みんなと一緒に生きていたい。
すでにありのままの私でこんなに思ってくれている人たちがいる。もうそれだけで私は幸せじゃないかって。”
*
数ヶ月後。
パルス社のガラスの壁の向こう側で、本日もラジオの収録が行われていた。
雲の隙間から、差し込む月の光
光は波間に反射して
きらきらと
宝石のように散りばめられた
どこかで汽笛の音が
ぼおーっと響いて 空気をふるわした
ここはどこなのだろう
これからどこにゆくのだろう
誰も何も答えない
海中のつやつやとした貝殻も
ぽかりと浮かぶ海月も
ちいさなちいさな魚たちも
しぶきをあげた波のひとひらも
いつか地平線にあがってくる
あの大きなきらめく太陽も
忘れ去ったあの日の想いも
イルカだけが鳴いている
祈るように ささやくように
誰にも聞こえぬ周波数で
ひそやかな歌となって
青の濃淡の世界に広がって
小さな羽を得て
どこかのひとりぼっちの誰かに
きっと届くと信じて
すぅっと息を吐いた。
恵美子は朗読を終えて、一呼吸したのちに
「では、パルス社の今日のニュースをお伝えします」
と声を切り替えてはきはきと話し始めた。
「やっぱりラジオのパーソナリティをやってみてもいいですか」
恵美子からの突然の申し出に椎木は飛び上がるくらい驚いたが、すぐに落ち着いて喜んで彼女を受け入れた。最初はなかなか慣れずに、声が小さい場面も多かった。何テイクも録り直したが、今ではミスもなく、堂々と音声を収録できるようになった。特に評判なのは「詩の朗読コーナー」で、恵美子が考えた詩や、リスナーから寄せられた詩などを、恵美子が情感たっぷりに読み上げると、たちまち場の空気が変わった。
「パルス社はただの合成音声を提供する場ではありません。あなたとあなたの場になりたいのです。私とあなたを繋ぐのは『声』。声なき声がまだたくさん存在しています。あなたの声を聞かせてください。誰かの声を聞いてください。それでは、本日の担当は乙顔でした」
椎木はガラスの向こうの乙顔にオッケーサインを掲げた。
恵美子もはにかんでピースで返す。
恵美子は母の声や気持ちを取り戻すと同時に自身の声も取り戻した。彼女は声を発することに対して、以前のようにフラッシュバックすることもなく、いつのまにか次第に相手と安心して話せるようになった。
彼女はたまに携帯をいじり、自分を励ましたい時にこの歌を聴く。
〝これくらいの おべんとばこに おにぎり おにぎり ちょっとつめて〝
そっか……今日はまたあのコロッケ定食でも食べに行こうかな、と、ふと恵美子は思い出す。
あのじゃがいもと
ひき肉と
玉ねぎだけの
シンプルなコロッケと
母の歌声
恵美子はずっとこの先も忘れることはない。
声なき声は
形をあらわし
今日も 恵美子の心の中で響きつづけていた。
おわり
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