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Dive(10)【創作】

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【最終話 再来と愛のことば】

 七月に入って、畑にはトマトやきゅうりの花が咲き、青々とした実がつき始めた。水田は青田波がさざめくように揺れ、背を伸ばした稲がさわさわとなびいて気持ち良く並んでいる。海はこの時期、筒で育てた脂がのった穴子、通称「はかりめ」が良く獲れる。地元では「はかりめ丼」と呼ばれるどんぶりご飯が観光客に人気だ。漁師たちも本腰を入れて仕事に精を出す。

 街中は、電柱などに笹が紐でくくりつけられ、色とりどりの提灯もあちこちにぶら下がっている。いよいよ、夏季の祭礼の時期が近づいた。梅雨が明けるか明けないかの頃に、雨風の日を避けながら、若い人たちを中心に準備を進めていく。

 私は変わらぬ毎日を過ごしていた。朝起きて、窓を開け、ストレッチをする。仏壇に手を合わせ、湯を沸かす。
 今日は梅干しと昆布のおにぎりを作った。六月に梅仕事をしてたくさんの梅干しを作った。正次さんのお家の梅がたくさん実をつけて余ったようなので、トランプババ抜き勝負で再び和代さんと華さんと対決し、私が勝利を収めた。「ばばぁがババ抜き!」と華さんが高齢者お得意のブラックジョークを度々言い放って、場に大笑いが起き、和んだ。作った梅はまだ熟していなかったので、昨年つけた梅を使用した。

 おにぎりは、茂さんが焼きおにぎりが美味しいと言ってくれたので、次回作ろうと思っている。良明は、味噌のおにぎりが好みだと伝えてくれた。彼は今は茂さんの家にいて、釣り宿の仕事も父親を邪魔しない程度に少しずつ教えてもらっているようだった。

 陽子の施設にも、何度か茂さんと顔を出した。陽子は相変わらず日内変動のような波があったが、特に大きな体の不調もなく施設生活を過ごせているようだった。私は彼女と二人になった時に、日記を見たことを深々と頭を下げて謝罪した。
 いつもの通り彼女は無反応だった。けれども、お互いにつかんでいた手をぐっと握り返してくれたような気がした。私もやわらかく彼女の小さな手を握り返した。あたたかい熱を感じた。

 祭礼の日は曇天だった。雨天でもカンカン照りでもない、祭り人にとってはちょうど良い塩梅だった。
 咲も、亜子ちゃん家族も帰省してくれた。亜子ちゃん夫婦は、鈴ちゃんにいつの間にか子ども用の法被を用意したようだ。鈴ちゃんは普段とは違う格好にはしゃぎ、楽しそうに参加していた。夏の暑さにも負けずに、休憩時間に配るスイカにかぶりついたり、寄付されたあんぱんやからあげをほおばりながら、最後まで小さな体で頑張っていた。健気な姿がとても微笑ましかった。
 例年の事だが、町内会から参加賞として、子供たちに花火やお菓子のセットが配られる。数少ない地元の子供や、よそから参加してくれた子たちも、皆、にこにことしながら持ち帰った。

 良明は濃口シャツと股引をびしっと身に纏い、その上に紺色の法被を羽織って帯を締めた。足元は足袋。これが、この地区のスタンダードなお祭りの格好だ。どんな男子でもこの格好をすれば粋な男になれる。良明は男前がより一層際立っていた。立ち姿が眩しく感じた。
 彼は、青年会の連中と一緒に子供たちの世話を焼いたり、奏者の人数が足りない時は今まで練習してきた横笛を吹いたり、重い荷物を運んだり、面目躍如たる活躍を見せた。

 神楽の踊りも、見事だった。

 演者はそれぞれお面をつけている。誰が躍っているかは見物人には内緒のままで披露される。けれども、舞台に出てきた瞬間に「あれは良明だ」と思った。体格や姿勢や振る舞いからも感じ取れたが、彼がまとっている独特な気品のようなものが、場にひんやりと冷たく滲み出ていた。
 狐の面をつけた良明は、足先や手先の微細な動きさえもしなやかであった。ステップは重力を感じさせない程に軽やかで、激しくゆるやかな動きの緩急が心地よく、静止する場面は空気さえもピタッと止まってしまったかのようだった。彼は妖しくも美しい狐を演じ切ることができた。
 舞台裏に戻ってきた良明はお面を外して、額の汗をタオルで拭いた。さわやかな笑顔を振りまきながら「よっちゃん良かったよ」とまわりの男衆に褒められている。茂さんもにこにこしながら既にビールの缶を開けて、上機嫌に良明をねぎらう。その様子を見て私は、彼が地元に溶け込んでいくのも、それほど時間がかからない予感がして安堵した。

 夏の一区切りがついた。




 蝉が鳴くようになって、本格的な夏が訪れた。
 大木の幹に空蝉を見かけ、灼くるような高温となったアスファルトで、カラカラにしなびているみみずを目にする。日中は日傘を差さないと過ごせない。市の放送が「熱中症に注意してください」と、毎日決まりきった文句をスピーカーから流す。

 私はまた夫の船に乗っていた。

 春と違って波が高く、ゆらゆらと揺れが激しい。

 けれども春の時と違って気分は悪くならなかった。海に対する恐れも……少し軽くなったような気もする。船には茂さんと良明がいて、顔を見合わせている。

「どっちだっけなぁ……俺も数回しか行ったことがないんだよ。辰之助さん、秘密主義だからさ。地図上だとこっちだと思うんだ」
「親父しか頼りにならないんだよ、何とか思いだしてほしい。京子さんは、当然覚えてないよね」

 私は首を横にぶんぶんと振る。なにせ船舶の免許も持っていない。海上の方向や地図や地形がわかるはずもない。頼りなく船は進む。

 少し進むと島が見えてきた。約五十年前に辰之助さんと訪れた小島だ。形が特徴的だったからあれに違いないと、私は二人に告げた。

「できるだけ、船を寄せられるかしら」

 茂さんは船を操縦し、ぴたっと小島に近づけた。そのまま船から良明は小島に降りて、私に手を差し伸ばして体を引っ張ってくれた。

 船に乗っている茂さんを後にして、岩場を登る。左膝が言うことを聞かない。転倒しそうな恐怖を感じて身をすくめる。あの時、私はまだ若かったのだ。登るのをあきらめかけた私の様子を見て、良明が「乗って」としゃがんだ。

「重いわよ、よっちゃん」

「ここまで来て、行かないわけにはいかないでしょ。ほら、早く!」

 彼の好意に甘えて、私は背中におぶさる。良明は慎重に一歩ずつ岩場を上がっていった。

 高台についた。凹みは変わっていなくて、景色も意外とそのままだ。下方には海が広がる。青々とした海は、心なしかやさしい表情をしているように感じた。

 しんと静まり返る。

 ぴちゃんと水滴の音がどこかでした。

 私は凹みの奥を見つめる。

 良明がすぅと息を吸って

「辰之助さん、出てきてください」

 と力強く発声した。

 声は凹みの中で反響している。

 私は自然と引き寄せられるように凹みの奥へと歩みを進めた。あの日、辰之助さんと浜を眺めたことを思い出しながら、足を振り出すとつま先に何かぶつかる感触がした。

 拾い上げてみると、それはカシパンだった。

 涙が流れた。とめどなく、今までの想いと共に、こぼれ落ちていくようだった。

「さみしい」

 良明が近寄って私の肩をさわる。
 そうだ、私はさみしかった。
 亡くなってから、やっと口に出せた。

 なぜ、今までずっと言えなかったのだろう。

 カシパンを両手でぎゅっと握りしめて、小島を後にした。

 水平線はどこまでも続いていた。
 空を見上げると、雲がひとすじ、龍のように長く長く伸びていた。もう二度と来ることのないであろう小島を背に、私は最後のもう一つのチャレンジダイブをしようと強く決意していた。



 三ヶ月後、咲と青森旅行に出かけた。
 青森県下北半島にある恐山。もう一つの最後のチャレンジ。それは、町内旅行で叶わなかったイタコのリベンジだった。

「すごい、何ここ!殺風景ね」
「また来られると思わなかった。ここに来る前に私があの世に逝っちゃう可能性もあったからね。どっちが先かなぁって、ある意味楽しみにしてた」

 私は自分で言いながら、ゲラゲラと大きな声で笑った。咲もつられて笑う。

「それはそれでお父さんに早く会えるから、お母さんとしてはいいんじゃないの」
「咲は最近ますます、ことばのキレが出てきたわね。良明が『本当に勘弁してくれ』ってこの前こっそり嘆いていたわよ」
「あれはよっちゃんが大体悪いのよ」

 今頃、良明は大きなくしゃみをしているに違いない。

 賽の河原に辿り着く。くるくるとまわる風車や、積み上げられた石があたりを囲う。売店で購入したお供え用の風車をそっと石の山に添えた。そして、私はカバンから睡眠薬の小瓶を取り出して、隣に置く。会ったことのない烏田さんのことを思い、手を合わせて祈る。咲も同じように私の後ろで静かに祈りを捧げた。

 その後、長い行列に並び、とうとうイタコと対面した。テントの中に入ると、同年代くらいの女性がそこに正座して待っていた。手には大きな数珠が握りしめられている。


「どなたですか?」


「夫です」


「亡くなった日は?」


「六月十日です」


 彼女は数珠をもみながら、何やら念仏を唱えていた。

 そして、急に黙る。


 黙ると同時に人差し指を、私の前にそっと掲げた。


 そして......死者が伝えたいことは「これだけであるようだ」と、彼女は私に告げた。

「え?これだけ?」

 咲はあきれたように声を出したが、私は彼女をなだめて、テントを後にした。


 メッセージは紛れもなく、辰之助さんだと思うと、私は咲に伝える。


 今日の一番、だ。


 うん。わかったよ。


「そう?お母さんがそう思うならそれでいいけど」

 最後まで夫は愛しているとことばにして言ってはくれなかった。

 けれども、私は夫の愛に確かに包まれた。


 それは、今日も明日も
 いつまでも
 時を超え
 空を超え
 海を渡って
 私を生かすものであった。



おしまい

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