俺んちの盆カレーと犬の話
クーラーの効かない古い台所で、還暦過ぎたおっさんが煮込むのは、娘の大好物のカレーと、ちょっと遅れてきた家族の話
俺はクーラーの風もなかなか届かない古い台所で、娘の千夏の大好物のカレーを作っている。
俺も妻の智恵子も小学校の教師だった。千夏が子供だった頃は、夕飯といえば米だけ炊いてレトルトカレーをかけるのが定番だった。
一応、千夏に「夕飯は何がいい」と聞くのだが、
「カレーでいい」
カレーがいいんじゃなくて、カレー“で”いいって言わせてたんだろうな。
子供心に気を遣ってたのかもしれない。
玉ねぎを飴色に炒めながら、そんなことをぼんやり考えていた。
数日前、珍しく千夏からLINEが来た。
「お盆休みにはそっちに行きます」
短い一文だけだが、もちろん大歓迎だ。
俺はうれしくて、すぐ智恵子に電話した。
「もしかしたら結婚報告かもしれんぞ!」
「なんかあの子、仕事辞めたみたい。暇なんじゃない?」
智恵子よ、なんとドライなんだ……。
俺は去年、定年退職した。
一人暮らしのお袋の認知症が心配で、智恵子とは別居して実家に戻ってきている。
智恵子はあと一年で定年だ。また一緒に暮らすのはそれからでもかまわないと思ってたんだが。
智恵子の石神井の実家の両親も80を過ぎた。
ある日、智恵子は石神井の実家終いをすると宣言した。
両親は売った土地の資金で、サ高住というマンションに引っ越すらしい。
ちょっと待てよ、これは事後報告か?
少しは悩めよ。
いや、悩んだフリくらいしてもいいだろ・・・
一応悩んで相談してくるとかさ。なんてな。
――こんな感じで、ある日離婚届をさっと出されるんだろうか。
そういえば昔、名前の話になったことがある。
智恵子、まるで教師になるのが運命られたような名前じゃないか。
正一――俺も正しいのが一番だから教師だよな。
「だったら裁判官のほうがよかったんじゃないの?」
智恵子のその一言に、俺はちょっとだけ、本当にちょっとだけ傷ついた。
俺は実家の近所界隈では神童と呼ばれた学力の持ち主だった。
教師になったのだって、その辺じゃちょっとした評判になって、親父もお袋も鼻が高かったはずだ。
千夏が言っていたっけ。
「私は教師夫婦の子供だから、転勤に合わせて数年ごとに住まいを変えて、時にはお互いの両親の実家を行き来して、まるで“ノマド”のような幼少期だったんだよ」と。
ノマド?カタカナではよくわからなかったが、遊牧民みたいだったと言いたかったのか。
千夏は高校卒業後、大学進学よりアパレルの仕事がしたいと言って服飾専門学校に進んだ。
教師の子が教師になるとは限らない。俺は千夏の意思を尊重した。智恵子は反対だったみたいだけど。
「こんにちは」
少し疲れたような小さな声とともに、玄関の引戸が音を立てて開いた。
鍵などかかっていないのが当然という感じで、立て付けの悪い戸が久しぶりに鳴る。
二年ぶりか? 三年ぶりか? 顔を合わせるのは本当に久しぶりだ。
千夏のアパレルの仕事は、盆も正月も関係ないのだ。
俺は薄くなりかけた――いや、もともと毛量はあまりない頭をタオルで拭きながら千夏を出迎えた。
お袋は足の伸ばせる藤の椅子にちょこんと座ったままだ。
千夏のことをデイサービスのお迎えと勘違いして、
「こんにちは、今日もよろしくお願いします」と頭を下げた。
「おばあちゃん! 久しぶり! 千夏だよ!」
――ちーちゃん? ちーちゃんなの? 今何年生になったの?
お袋、千夏はもう大人になっちまったんだよ。嫁にいってもおかしくない年なんだ。
重要な話があるわけでもなく、麦茶を飲みながらテレビの音だけが流れていく。
千夏がふいに「おばあちゃんと散歩でもしてくるかな~。この辺すごい久しぶりだし」。
俺は玄関の車いすを素早くセッティングした。
家の中では手すりか杖で移動できるが、外に出るには車いすだ。
夕方の風はだいぶ涼しくなってきているし、大丈夫だろう。
「お父さん!!お父さん!!ただいま!!ちょっと来てー!!」
数時間前、「こんにちは」と小さく疲れた声であいさつした千夏とは明らかに声量が違う。
やばい、お袋が粗相したか、近所の散歩でも具合が悪くなったか。
俺はカレーの仕上げをしていた台所の火を止め、エアコンが効かない中で真っ赤になっていた顔の汗が一瞬で引っ込んだ。
慌てて玄関に向かうと、お袋の膝の上には小さくて白くて丸っこいものがちょこんと座っていた。
「シロ……」
お袋はつぶやきながら撫でている。
たまごでも拾ったのか? でも鶏の卵より大きく、ダチョウの卵より小さい。
お袋の「シロ」という声で俺は一瞬で理解した。
神童と呼ばれた俺だ。
これは卵じゃなく犬だ。それも生後一か月たつかどうかの子犬だ。
俺の頭の中でいろんな方程式が浮かんだ。
犬の寿命は14、5年。俺の平均寿命を考えると、健康に気をつければ大丈夫だ。
俺はクラスで飼っていたウーパールーパーを引き取り7年自宅で育てた実績がある。
もちろん智恵子は一切関わらないどころか、智恵子のクラスで育てていた文鳥まで俺は育てた。
答えは0.3秒で出た。この小さくて白くて丸っこいものは、もう家族だ。
「おい、たかが近所の散歩で家族増やしてきたのか!」
千夏が説明する前に、俺は解いた方程式の答えをぶつけた。
丸っこいものをお袋から受け取り、洗面所からタオルを持ってきて段ボールを整えた。
お袋を寝室へ横にさせると、疲れたのか一瞬で目を閉じた。
千夏に「ぬるいお湯で丸っこいものをきれいにしておけ」と言い残し、
俺はホームセンターへ軽自動車を走らせた。もちろん法定速度でだ。
閉店15分前のアナウンスが流れる中、俺は当然デカいカートを選んで突き進んだ。
ペット用品は入口入ってすぐ右。まずは寝床、ミルク、カリカリ、コミュニケーションと情操教育のためのおもちゃも必要だ。
犬用の服――千夏が小さい頃、智恵子の石神井の実家で買ってもらった服に似ている。
ピンクのフリル付きで4800円。俺のTシャツ2枚分より高い。
一応女の子みたいだから、可愛いのにしておいた。
手早く会計を済ませ、家路を法定速度内で急ぐ。俺は元教師だ、法令順守。
玄関で千夏が荷物を受け取る。「お風呂に入れてお水も飲ませたけど大丈夫かな」
大丈夫だ!俺はウーパールーパーと文鳥を育てた男だ、任せろ。
この「任せろ」、一度でいいから智恵子に言ってみたかった。
段ボールの中で、真っ白になった丸っこいものがすやすや寝ている。
目を覚ましたらミルクをあげよう……名前はどうする。
「シロミ」。
え、千夏今なんて言った?お袋の名前がキミで、丸っこいものがシロミ。
たまごかよ!
どうやらシロミであっさり決定らしい。
こういうところは、智恵子に似ていると思う。
「お父さん、私しばらくここにいてもいいかな?いつ帰るかも決めてない感じなんだけどさ」
仕事を辞めたことは智恵子から聞いていた。
「千夏の好きにしていいぞ」、俺は一言だけで済ませた。
やっと千夏と、こうして向き合える時間が持てる気がした。
明日は朝一で動物病院か。お袋がデイサービスに行ってるあいだに済ませないとな。
千夏がいつまでいるかなんて、誰にも分からん。
でもまあ、なんとかなるだろ。
俺と千夏とシロミで。
