OKADENIC Syndrome◇03
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オカデミック シンドローム 03
「賢いおじさま」シリーズの最後になります。
ようやくたどり着いた本題ですが、執筆者本人がそろそろ飽きてきています。もし読者がいるとするなら、わたしの倍は飽きていることでしょう。試練だとでも思って、ぜひ最後までお読みください。今回は、注釈もなしでいきます。
わたしは、岡田斗司夫によるアニメ作品などの講評を楽しく視聴しています。作り手はいろいろなことを考えているんだなぁ、と感心させられますし、構造的な分析についてはわたしと相性がいいので、そうした意味では非常に信頼しています。
ただ、気になる点がまったくないのかというと、そんなわけもありません。たいていの場合、それは彼の専門分野外における批評や分析に見られます。
たとえば、ホリエモンや中田敦彦の批評などは、経営やコミュニティ運営という、まだ彼の土壌にある話なので、的確だと思えることも多いのですが、人物批評になると、途端にずれが目立つようになります。
特に、行動科学や行動心理学の文脈で言及する際は、そのへんに転がっている評論家くらいまで落ち込むこともあり、推論と断定、事実と仮説の境界が極端に曖昧になるのです。
留意しておくと、必ずしもすべてがそうであるとは言えません。わたし自身、文章を書いていて迷子になるので、ましてやリアルタイムでこの切り分けを考えながら話すのは、かなり難しいことだと理解しています。
ただ、注目すべきは、そんなことではありません。
なぜ、彼ほど構造的に考え、政治的思想を表に出さずにいられる人物が、コメンテーター崩れ並みにまで解像度を低下させるのか、ということなのです。
彼の提唱する代表的な概念である「ホワイト社会」の論考が、これを顕著に示しています。
ホワイト社会を要約すると、「所作・容姿・道徳性・清潔感が生存条件になる社会」のことを指していて、潔癖こそ正義、という概念だと解釈しています。
わたしが初めてこの概念を聞いたとき、ものすごい違和感に駆られました。
独自の概念であるかのように提唱しているのですが、これは学術的な理論や議論を集めた集合語ではないか、という疑問です。いわゆる「まとめサイト的」と言えば、イメージしやすいかもしれません。
言ってしまえば、総称的な概念です。
たとえば、ホワイト社会論における「見られているかもしれない、という前提で、自分の行動を修正する」という考え方は、ミシェル・フーコーが論じた、監視の視線を内面化する規律社会に近い。
「危険そうに見られる行動をするな」は、アーヴィング・ゴフマンの印象管理に近い。
SNSで「過去の行動を掘り返され、生存可能性が変化する」という話は、アンソニー・ギデンズの再帰的自己像をSNS時代へ延長した議論に見えます。
ほかにも、キャンセルカルチャー周辺の議論など、さまざまな学術的知見が下地になっているのではないかと、わたしは考えています。
もう少し正確に言うなら、複数の学術的理論や議論を要約し、ひとつにまとめた解釈と言えるのかもしれません。
だとするなら、圧縮しすぎです。解釈は自由だけど、結果ありきの結論に引っ張られているように思えてなりません。
これが、わたしの違和感の正体です。
ただし、彼の動画をすべて視聴したわけでもなければ、まして、本人が既存理論との関係について言及しているかどうかも知らないので、真偽は不明です。
もしかしたら、どこかで言及しているのかもしれないし、たまたま既存の論文などによって検証可能な概念なのかもしれません。そのときは、わたしを優しく慰めてください。
ただ、人に厳しく自分に甘いわたしの印象としては、ホワイト社会を提唱しているわりに、けっこうコスい権威の着飾り方をするなぁ、といったところです。にやり。
もちろん、複数の理論を再構成し、独自の解釈を進めること自体に問題があるのではありません。
解釈と仮説の境界を示す道標がないことで、ずれてしまうのではないか、と見ているのです。
勘違いされたくないので、重複しているけど、もう一度置いておきます。
わたしは、「どこまでが観察された現象で、どこからが岡田斗司夫の解釈で、どこからが未来仮説なのか。その境界線が見えにくい語り口になっている場合がある」と言っています。
そして、「ホワイト社会論を構成している主要な柱が、それぞれ既存理論によって、かなり説明できてしまう」ということです。
重要なのは、それらの理論を知っているかどうかではありません。解釈がずれていると、かなりクリティカルな反論が可能になってしまう、ということです。
それと、もうひとつ。
ホワイト社会論を支える重要なポイントとして、社会の乖離があります。
わたしは、すでに社会がひとつの共同空間ではなくなっていて、実社会とネット社会に分かれていると考えています。もっと正確に言えば、非対称な二つの空間です。
ところが、ホワイト社会論では、「社会は今後、潔癖さを生存条件とする方向へ不可逆的に進む」とされています。
これは、実態をまるでつかめていない観測に思えてしまいます。端的に言い換えると、視点が偏りすぎです、ということなのです。
たとえば、不倫ひとつをとってみてもわかりやすいでしょう。
ネットでは社会悪であるかのように捉えられているし、メディアもそれに同調する形で、不倫を厳しく罰しています。
現実でも悪いものとして捉えられてはいるけど、そこには明確な温度差があります。司法は不倫を個人の非行として見ているし、社会は家庭観や恋愛観のずれとして受け取っていて、必ずしも社会悪として断罪しているわけではありません。
不利益はあるけど、少なくとも、ネットほど苛烈な社会的制裁を受けるわけではないのです。友人は明日も友人だし、会社にはいつもどおり出勤できるのです。
斗司ちゃんの語るネットほど、現実の社会は潔癖ではないのが現状です。
社会がホワイト社会化するには、人が人である以上、遺伝子組み換えでもしないかぎり、十数年でそこまで変化するというのは無理筋な気がしています。
わたしは、もっと楽観的です。
ネットは、実社会を過大解釈する装置だと考えています。
そう。過大解釈社会論なのです(笑)。
つまらないわたしの概念はさておき、岡田斗司夫は、少しネットやSNS文化に偏った見方が強いのではないか、と思っています。
それに、既存学術の集合語という文脈で言うなら、十数年先の未来では、構成要素のどれかは一致するだろうし、一致したようにも見えるでしょう。
これは、岡田斗司夫が人をだましているとか、頭が悪いからだ、ということではありません。
むしろ逆です。
「賢いからずれる」のだと思います。
専門知識と構造化の相性がいいとするなら、専門知識の外側にある対象と構造化は、あまり相性がよくないということなのかもしれません。
構造化する能力に長けているため、解像度を上げようとして、逆に抽象化しすぎてしまう。その結果、局所的な穴や粗を見過ごしてしまう。
だから、ずれてしまうし、ずれているように感じられるのかもしれません。
人の心理や社会のような、巨大で多面的なデータには、そもそも構造化できない部分があります。
そう考えると、「なぜ賢いのにずれるのか」の答えは、「賢いからずれる」ということなのでしょう。
それがおじさまに限定されるのかについては、明確な答えが出ていません。
もしかしたら、論理的・構造的思考を語る論客に、たまたま男性が多いから、というだけのつまらない話なのかもしれません。
なお、ホワイト社会論をわたしなりに再定義すると、「社会全体の未来ではなく、公開圏・評判圏・広告圏における支配的な作法である」となります。
社会概念というよりも、生存作法といったところではないでしょうか。
ただ、現在の注目経済的な話を前提とした環境において、この三つを本当にひとくくりにできるのか、という疑問はどうしても残ります。この結論は、まだ少し先の話になりそうです。
そして、「賢いおじさまのずれた言論が、なぜおもしろいのか」。
その答えは、賢い方でさえ、話を進めていくうちに徐々にずれていくからです。その思考の途中経過をのぞき見しているようで、そこに色気を感じるのです。
そうでない方は、もともとずれているから、見ていて退屈なのかもしれません。
ずれは、賢さによってその質が変わる。
だから、見ていておもしろいのだと思いました。
