見出し画像

Someone Else's Rice Ball

▷ Previous Post……

サムワン エルセズ ライス ボール

前回の批判風批評エッセイで、岡田斗司夫のホワイト社会を取り上げたときに、長くなるのであえて書かなかったお話があるのです。今日は、その彼のずれた言論についてお話しすると見せかけて、わたしのお話をしていこうと思います。
 
岡田斗司夫が運営するYouTubeチャンネルの過去動画内で、「有吉が言っていた」として、あるメディアでの発言を引用していました。他人が握ったおにぎりは食べられない、という趣旨でした。引用元がいつ、どのメディアでの発言だったのかは知りませんが、「ホワイト社会(潔癖化)は着実に社会に浸透している」という文脈で引用されていたんです。
 
もちろん、前回のエッセイと同様に、これにも強い違和感を抱くわけです。

有吉弘行がいつの時点から他人の握ったおにぎりを受け付けなくなったのかはわからないのですが、わたしも似たところがあり、「他人の手料理を受け付けない」のです。一見、岡田斗司夫の提唱が正しいようにも思えるのですが、それを根拠に「潔癖化が浸透している」と言うのは、かなりずれているなぁ、と思いました。
 
わたしが「他人の手料理を受け付けない」ことに気づいたのは、お友達のお家に遊びに行った際、彼女の母親がお昼に炒飯を用意してくれたときでした。これが、物心ついて以降、初めて家族以外が作る食事を出された瞬間でした。
 
たぶん、見た目にはなんの変哲もない炒飯だったはずなのですが、わたしの目には「気持ちの悪い物」として映っていたような気がします。炒飯にかまぼこが入っていたり、みじん切りにされた玉ねぎが使われていたり、とにかく自分の母が作るそれとは違っていたことに、まずはショックを受けました。お米も柔らかく、水気を含んでいたような気もします。気持ちが悪くて全部は食べられなかったことだけは、鮮明に記憶しています。
 
それから、自分が他人の手料理に抵抗があることを知りました。からあげであっても、おにぎりであっても、パスタであっても、その料理がなんであれ、明確に「汚い」と感じてしまう時期がけっこう続きました。今でもなんとなく「いやだなぁ」くらいには思います。なので、わたしも他人に料理を作るときは、その前に必ず「汚くない? 大丈夫? 無理してない?」と確認します。必ず、です。
 
このエピソードの何が、岡田斗司夫の言論のずれと関係するのか。話を巻き戻します。
 
これまでのわたしの論考やエッセイの中でもうっすら開示しているとおり、わたしはぴっちぴちではないけど、年寄りでもないのです。

そのわたしが、他人の手料理に抵抗があると気づいたのは、小学生の頃です。岡田斗司夫の言っていたとおりだとすると、十数年も前からホワイト社会化が始まっていた、という理屈になってきます。さらにわたしは、この感覚が精神的な疾患なのかと思い、母に尋ねたことがあるのですが、母は「わかるううう! 手作り弁当とかきもくない?」と、わたしと同じ感覚を昔から持つ人物でした(笑)。
 
つまり、十数年どころか、もっと昔からホワイト社会が浸透しはじめていたということです。いつホワイト社会になるのよ。時間かかりすぎていませんか?
 
岡田斗司夫の理論では、ホワイト革命が2022年にSNSとコロナをトリガーとして発動。徐々に潔癖化が進み、2030年から40年頃にホワイト社会へ到達。理論の完成宣言が2022年。
 
有吉弘行の話がいつのものかは知らないけど、2022年より前だとしたら、トリガーより前に浸透が始まっていたことになるし、さらに、わたしのエピソードは十数年前にさかのぼり、同じ感覚を持っている母のエピソードはさらに二、三十年前(もっとかも)にさかのぼります。当然、わたしと母だけが特別なわけもなく、似たようなエピソードはおそらくごまんとあるでしょうから、有吉弘行の発言を証言として採用すると、オタキングこと岡田斗司夫の理論は破綻していることになっちゃいます。しかも、自滅的に。
 
ただ、慎重にならないといけないのは、動画での発言をわたしが取り違えていた場合です。岡田斗司夫の発言の趣旨が「個人の性質としての潔癖さは昔からあったけれど、それが社会的に許容され、標準化されるようになったのが2022年以降なのだ」、もしくは「有吉弘行の発言以降なのだ」というものだったと仮定します。つまり、「発生」ではなく、「普及と正当化」を指しているのだとするなら、話が変わってくるかもしれません。
 
と言いたいんだけど、そんなことはないのです。

そもそも、有吉弘行の発言でそこまで断定できるのかという疑問は残っているけど、それを棚上げしても、彼の理論は補強されません。

というのも、有吉弘行のそれを「普及と正当化」の証拠だとするなら、わたしが母に話をして、その感覚が許容され、承認されたのだから、社会では2010年頃にはすでに「普及し正当化」されていたことになります。

つまり、有吉弘行の発言は2010年より前でなければならないし、それ以前だとすると、先述したとおり、なげぇな問題が発生して、ホワイト革命のトリガーが腐ってしまいます。あとは、岡田斗司夫が「家族は社会と見なさない」という反論をするくらいしか残っていないと思いますが、だとすると、「意識・感覚が積み重なって社会全体の潔癖化に至る」という彼が提唱するボトムアップの物語が、その最小単位である家庭というプロセスを否定することになってしまうのです。したがって、自己矛盾を生んでしまいます。
 
なので、岡田斗司夫はやっぱり、かわいすぎるのです。
 
勘違いされがちだけど、馬鹿にしているんじゃないですよ。できあがった理論を眺めて、あとから指摘することは、だれにでもできることです。ゼロから理論を作ることに比べれば、ずっと簡単です。そのことは、わたしも理解しています。
 
だから、彼ほど理屈を組み立てるのがうまい人が、こういう隙を残してしまうことを、素直にかわいいなぁ、と思うんです。
 
想像するにたぶん、理論を構築する際にあまり検証せず、思いつきで語ったのではないかと感じています。そして、それが思いのほか理屈として通りがよくて、気持ちよくなってしまったんじゃないかなぁ、と推測します。

すると、岡田斗司夫はやっぱり賢い人だ、と思うんですよ。なぜなら、ホワイト社会論には、前回も書きましたが、理論として一定の筋は通っています。ただ、その射程と解釈を広げすぎたのが問題なので、それを思いつきでそこまで構築できたとすると、やっぱかしこいんですよね。
 
ということで、
毎回、馬鹿にしていると誤解を招きかねないのは、わたしの性格が悪いから、というお話でした。

それでは次回、「ラーメン好きの人が好き」というお話をしたいと思います。


▷ next:The authority of affection

いいなと思ったら応援しよう!