見出し画像

ひとりのソフトウェアエンジニアが起業せずに経営者になるまで【前編】

はじめに

私は、株式会社トラストハブで取締役をしています。
トラストハブは創業から約7年がたち、正社員数は30名を超えました。契約社員・アルバイトを含めた組織全体では100名規模となっています。2024年には融資にて17億円の資金調達もしています。スタートアップ企業としてこれまで急角度で成長し、そしてこれからも成長し続けていくフェーズにいます。

ただ、私は創業メンバーではありません。共同創業者でもなければ、創業時に従業員だったわけでもありません。トラストハブが創業してから3年が過ぎた2022年8月に業務委託として関わりはじめ、その後2023年1月に正社員として入社しました。そして、2025年7月に取締役に就任しました。

私が学生だったころ、「経営者になる = 起業」だと思っていました。
人生の中で、起業が身近に感じられた最初の瞬間が、大学4年時に IPA 未踏 IT 人材発掘・育成事業(以下、未踏)に採択されたときです。2015年でした。当時は、数年前に未踏に採択されたグノシーが上場したタイミングでした。そういった流れもあり、未踏内部では「未踏に採択されたあとは起業」という機運が高まっていました。
また、大学卒業後に東京大学大学院の修士課程に入学しました。2016年でした。当時は、日本におけるスタートアップブームの勃興期でした。そして、東京大学はその中心地のひとつでした。大学の周辺にはスタートアップがいくつもあり、スタートアップでインターンをする同級生もいました。また、本郷キャンパスのすぐ横にある「本郷テックガレージ」ができたのも2016年です。私自身、修士学生のころ本郷テックガレージに入り浸っていました。この場所ではスタートアップの起業家との交流もありましたし、この場所で知り合った方がのちに起業したりということもありました。
こうした経験を経て、自分の中では「経営者になる = 起業」という構図ができあがっていました。

「未踏」のキックオフ合宿の様子(マイクを持って発表しているのが自分)

しかし、世の中を見渡すと、起業することが経営者になる唯一の方法ではありません。私のように正社員として入社し、その後、取締役になるという道もあります(ちなみにこのブログでは、取締役のことを経営者と呼んでいます)。
ただ、起業以外で経営者になる場合、どのような過程を経て経営者になるのか、私自身数年前までイメージがつかなかったです。正社員から取締役になる場合、「新卒で大企業に就職して、出世争いで勝って、30年くらい在籍して運がよければなれるのかな」くらいのイメージでした。

また、私は大学と大学院ではコンピュータサイエンスを専攻し、新卒ではソフトウェアエンジニアとして LINE 株式会社(現 LINE ヤフー)に入社しました。現職のトラストハブにもソフトウェアエンジニアとして入社しました。
ソフトウェアエンジニアが起業せずに経営者になる道も珍しいと思います。さらに珍しいことは、私は CTO ではありません。現在もプロダクト開発に関わっていますが、人事の統括をやっています。

このブログでは、ひとりのソフトウェアエンジニアが経営者になるまでの過程を記します。なにか "How to" のようなものを書くつもりはありません。自分自身の軌跡を時間順に述べていきます。
私自身、人の軌跡やストーリーを読むのが好きです。将来、漠然と経営者になりたいと考えている人の参考になればといいなと思います。

生まれから小学1年まで(1992年 - 1999年)

生まれから書く必要がない気もしますが、幼少期が今に影響している可能性は否定できません。書きます。
1992年、北海道の網走で生まれました。小学校1年生まで住んでいました。通学路から見える川の向こうに現役の刑務所があり、「脱獄囚が現れたら怖いな」と思っていました。通学路が片道2kmあったのですが、小学1年生の体力で冬の時期に歩いてよく通っていたなと感心します。
また、「鍵っ子」だったのですが、鍵を家に忘れてきたことを冬の下校中に気づいたときの絶望はいまでも覚えています(なお、兄が帰ってくるまで近所の友達の家に入れてもらえました。感謝)。

小学校1年生のときの学芸会(中央左が自分)

小学2年から中学まで(1999年 - 2008年)

親の転勤で北海道士別市に転校します。内地(本州)にきてからこの街の名前を知っている人にひとりしか会ったことがありません。そのくらい田舎です。
そのまま地元の中学校に上がると、突然同級生が荒れ出しました。中学デビューです。
同級生の荒れもあり、地元を出たいという想いが強くなりました。中学1年生のころから、道北で一番の進学校である「旭川東高校」に進学することを決めます。士別市から進学する場合、「学区外」枠になります。入学280名のうち28名分の枠しかありません。ただ、両親もこの高校出身でしたし、自分の学力も尻上がりによくなっていったので、合格できるだろうという自信がありました。結果、合格できました。
ちなみに、中学3年生のころの内申点がオール5(5が最も良い)だったのですが、正直音楽とか5が付くか微妙な手応えでした。担当の先生は私の頑張りなど考慮して5にしてくれたような気がしています。感謝。

中学3年生のころ(一番手前が自分)

高校時代(2008年 - 2011年)

こうして学区外から旭川東高校に入学した私は、高校の近くに下宿することにしました。実家から通うとドア to ドアで片道2時間弱かかるためです。また、野球部に入ったので、夜は練習で遅くなるという理由もありました(小学5年の冬から野球を始めていました)。

下宿生活を思い出すと、いまでも意味がわからなすぎてノスタルジックな気持ちになります。
まず、その下宿は野球部専門の下宿ではないため、複数の高校から学生が集まっていました。そして、総勢16名いたのですが、洗濯機とシャワー室が1つしかありません。そのため、洗濯待ち・シャワー待ちが毎日起きます。私は野球部であったため練習着の洗い物がたまり、洗濯待ちによって睡眠時間が削られるのが大変だった思い出があります。
また、驚くべきことに16名のうち女子が3, 4名いたはずですが、シャワー室は男女分かれていません。令和の時代だとありえないと思います。そして、当時のその女子たちのたくましさに驚かされます。
下宿では、トイレ・洗面所はフロアごとに共同でしたが、寝室は個室でした。その分プライベート空間は確保できるのですが、朝はだれも起こしてくれません。進学校といえど野球部は夜9時まで練習します。そのため、1年時はクラスで2番目に寝坊回数が多かったです(でも今でも1限の授業より睡眠のほうが大事だと思っています)。

高校1年生のとき(中央の坊主が自分)

野球部は、自分たちの代は弱かったですが、「夏の地方大会で過去11度決勝に行き(= あと1勝で甲子園)、11度負けている」という珍記録を持っています。
進学校といえど、授業が終わった後すぐにグラウンドに向かい、夜9時まで練習していました。練習がハードだったおかげで高校3年間で筋肉と体力がついたのは、30代になった今考えると幸運でした。高校3年間で体重が 62kg から 76kg まで増え、スクワット160kg まで上がりました。野球部以外の運動部を選択していたら、こんなにフィジカルが強くなっていません。

高校3年生の夏

高校2年生の冬ごろから、校内では大学受験の意識が高まってきます。自分もそのころに志望校を決めました。筑波大学の情報学群 情報メディア創成学類です。
志望理由は複数ありました。
まず大学を決める前に学部を決めました。その際、漠然と理系の学部にしようというのはありました。ただ、物理や数学といった理論系には興味がなく、工学部も将来のイメージとして「工場」しか出てきません。
そんなとき、情報系・IT系がなんとなく新しくていいなと思いました。思い返せば、中学生のとき、ホリエモンが時代の寵児としてメディアに取り上げられていました。田舎に住んでいた自分であっても、テレビ・新聞を通じてその存在を知れるほどでした。そのときの記憶があり、IT系ってなんか新しくてこれからぽいなと感じました。
他の理由として、「東京に近い国立大学」というのもありました。高校卒業後はなるべく東京の近くに行きたいという気持ちがありました。また、研究施設の充実度や学費の安さから国立大という条件もありました。
その他の理由として、自分の学力の課題もありました。当時は、学部受験で東京大学や東京工業大学に入れるなど露にも思っていませんでした。

よって、これらの理由から選ばれたのが、「筑波大学 情報学群 情報メディア創成学類」です。筑波大学は当時から情報系の学科(学類)が3つもあり、情報系の環境が充実していました。また、情報メディア創成学類は創設されてから数年しかたっていない新しい学類であったり、国立大なのに学科名にカタカナが入っていたりするのも自分の興味を惹きました。

また、高校3年生の夏休みに北海道からひとりで筑波大学のオープンキャンパスに行きました。そのときに、情報メディア創成学類の説明会も聞いたのですが、徳永先生のセールストークが上手すぎて、この学類に入ろうという気持ちが高まりました。なお、そのとき宿泊していた浅草のビジネスホテルの近くで、ビートたけしを見かけたのは衝撃でした。東京の道端で初めてみかけた芸能人がビートたけしでした。

なお、高校3年間はまったく勉強をしてこなかっため、現役時は筑波大学に受からず、しっかり1年浪人することになります。

浪人時(2011年 - 2012年)

「北海道を出る前に一度くらい札幌で遊んどかないと」などとうそぶき、受験浪人をすることになった私は駿台札幌校に通うことにします。実家から札幌に通うのは距離的に現実的でないため、駿台が提携する学生寮に下宿します。
高校から下宿をしていた私は、札幌の下宿生活にすぐに慣れます。むしろ、高校時代と比較して、食事やお風呂などの環境が抜群に良くなったため、勉強に集中できました。
「浪人生って世の中で何の肩書きもない身分だよな〜」と落ち込みつつ、アリオ札幌で開催された「モベキマス」の新曲発売イベントに行ったりとなんだかんだ浪人生活をそれなりに楽しみました(みなさん知ってますか、モベキマス)。
1年の浪人生活を経て、筑波大学 情報学群 情報メディア創成学類に合格しました。

浪人時代に住んでいた学生寮

筑波大学時代(2012年 - 2016年)

第一志望の筑波大学に受かり、茨城県つくば市に引っ越しました。
情報メディア創成学類の6期生として入学します。情報メディア創成学類では、ソフトウェアを中心としたコンピュータサイエンスについて学びます。
しかし、私は大学に入るまで、ブラインドタッチもプログラミングもできませんでした。小中高までは、授業を通してパワーポイントでスライドを作成したりエクセルを触ったりする程度でした。
そこで、大学1年次の夏休みは、学類の計算機室(パソコンが置いてある部屋)にたびたび入り浸り、タイピングの練習をしていました。夏休み明けからプログラミングの授業が本格的に始まるため、せめてブランドタッチができるようにと練習をしました。

また、1年次の3学期(当時の筑波大学は3学期制)にある「プログラミング実習II」の課題が鬼厳しかったです。C言語を使ったプログラミングの授業で、毎週課題が出ます。回を追うごとに課題の難易度と量が増えていき、4回目あたりで「ポインタ」が出てきてから格段に難しくなった記憶があります。
毎週火曜日が課題の提出日なのですが、前日の月曜日はほぼ徹夜で計算機室にこもらないと終わりませんでした。月曜日の夜8時くらいから翌日の明け方まで計算機室で課題をこなすのが毎週のルーティーンになりました。午前4時くらいになると、計算機室の椅子を3つ並べて、仰向けで仮眠を取ります。3時間くらい寝ると腰が痛くなり、自動的に目がさめるという具合でした。
噂によると、自分たちの2つ上の代が「プログラミングの課題が簡単すぎる」と言ったため、担当だった金森先生の魂に火がつき課題が鬼厳しくなったようです。実力はつくのでありがたいのですが、毎週ほぼ徹夜は大変すぎました。「大学生ってひまだよね」と言う大人がたまにいますが、自分の大学時代と比較するとまるで嘘です。

大学時代の転機は学部4年生のときに、IPA未踏事業(以下、未踏)に採択されたことです。
IPA未踏事業は、突出したIT人材を発掘・育成するためのプログラムです。
詳細は、以前自分が書いたブログも参考にしてくださいませ。

https://medium.com/@kunihiko.k.r.r/コンピュータサイエンスを学ぶ25歳以下のすべて人が-未踏事業-に応募すべき3つの理由-675c596a8a93

大学4年生になる前に、もともと未踏の存在は知っていました。筑波大学からはほぼ毎年採択者が出ていましたし、自分が応募する前年には高校の同級生が採択されていました。あと、情報メディア創成学類のパンフレットには1期生の落合陽一さんが載っていたのですが、落合さんも未踏OBなので落合さんのプロフィール経由で未踏のことを知っていました。
そんなわけで、未踏の採択者が数多くいる環境にいたため、なんとなく自分も受かるかもしれないという自信がありました。ただ、応募時点で自分には目立った実績はありません。それまで、ITに関連することは授業でやってきたことのみで、IT企業でのアルバイト経験もありません(唯一、大学3年のときに Lenovo で3週間のサマーインターンをしました)。アルバイト経験といえば、居酒屋のキッチンと、回らないお寿司屋さんでの接客のみでした。

応募時は、とにかく熱量と勢いにまかせて提案書類を書き上げました。野球のピッチングフォームを自動解析できるアプリケーションの提案をしました。書類選考通過後の面談でも、とにかく熱量こめてプレゼンをしました。
結果、採択されました。

未踏の同期一同(後列右から3人目が自分)

未踏で得た経験は言わずもがなです。
自分自身でプロダクトを考え実装すること。IT業界で活躍している未踏OBOGからフィードバックをもらうこと。自分でユーザーを探してきてプロダクトを触ってもらうこと。これらは私が未踏を通して経験したものであり、普通の大学生活では経験しない貴重なものでした。また、私はひとりでプロジェクトを進めていたため、その孤独さは強烈なものでした。結果として、未踏期間中はうまくいかないことが多かったですが、そこで得た経験はいまも地続きでつながっています。

未踏で作ったプロダクトのデモの様子(一番右が自分)

そして、この未踏を通して起業というものが身近に感じられるようになりました。自分が採択された年は、数年前に未踏に採択されたグノシーが上場したタイミングでした。また、グノシー以外にも起業した未踏OBOGは数多くいます。さらに、2010年代半ばは、日本のスタートアップブームの勃興を感じさせる時期でもありました。そういった流れもあり、未踏内部でも「未踏でうまくいったら起業!」という機運がもっとも高かった年だったと思います。未踏期間中も、プロダクトをビジネス的にどう発展させるか、どのように売るかといったことを未踏OBOGやPMの方から質問されることがありました。
その反面、未踏期間後の出口として起業が強調されるのは、未踏事業の多様性から考えると、少し違和感のあるものでした。結果として、私が採択された数年後は当時ほど起業の風潮が強いわけではないと聞きました。

未踏の修了式(マイクを持っているのが自分)

未踏と並行して、大学4年次には大学院入試の準備を進めます。
大学3年生までは授業を中心としたインプットばかりで、なにか物足りなさを感じていました。大学3年生の終わり頃に進路を考えたとき、「このまま学部で卒業して就職すると、大学という学術の世界を十分に堪能できていないかもしれない。研究などでもっとアウトプットも出してみたい」と思い、大学院に進学することを決めます。しかも、筑波大学の大学院ではなく、東京大学大学院にある暦本研究室を志望します。

暦本研を最初に知ったきっかけは、学類のOBである落合さんがそこに進学していたからだと記憶しています。そして、改めて大学院進学を考えたとき、暦本研のことが頭に浮かびました。そのときもう一度、暦本研について調べると「Human Augmentation」「Augmented Sports」などなにやら面白そうなことが書いてあります。その素人目にもわかりやすい未来感とわくわく感が暦本研を選ぶ理由になったと思います。

よって、筑波大学の大学院は受験せず、暦本研一本にしぼって大学院受験の準備を進めます。しかし、並行して未踏も進めていた私は、精神的にもまいってしまい、どっちつかずの状態になります。結果として、4年次の8月に受けた大学院受験は落ちてしまいます。
未踏の進捗も悪いうえに、受験に落ち、完全に底まで落ちると逆にふっきれてくるようになります。また、幸運なことに、暦本研が所属している情報学環・学際情報学府という専攻科には「冬入試」があります。大学4年次の2月に入試を受け、合格すればその2ヶ月後の4月に入学できるというものです。
結果、最終的に冬入試で合格し、大学を卒業してすぐに暦本研に入ることができました。暦本先生、取ってくれてありがとうございます!

前編おわり

書き始めてみたら、結構長くなってきたので、大学院以降は後編に書きます!


いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集