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傘を手放せないあなたと

僕には、密かな自負がある。いわゆる「晴れ男」というやつだ。
いや、正確に言うなら「雨避け男(あまよけおとこ)」だと思う。

とにかく雨が嫌いだ。生乾きの傘の匂いも、濡れた靴下が足裏に張りつく感触も、どうしても許せない。傘を差していても、肩から先はどうせ濡れる。あの「どうせ濡れる」という諦めの感覚が、何より苦手なのだ。

幸い僕はITエンジニアで、働き方は比較的自由に選べた。だから雨を避けるためだけに、完全リモートワークにした。通勤がなければ、雨に降られる確率はぐっと下がる。僕の世界は、僕の望むとおりに乾いて、穏やかで、予測可能だった。

妻に出会うまでは。

うちの妻は、一言でいえば「卑弥呼」である。それも、雨乞い特化型だ。

オカルトの話ではない。雨は、彼女の周りにだけ降る。彼女が一人で出かけるときは、決まってその頭上に雲が湧き、用を済ませて帰る頃には、いつのまにか止んでいる。まるで、一人ぶんの雨雲をいつも連れて歩いているみたいに。

最初は偶然だと思った。次は思い込みだと思った。何度か繰り返されて、今はもう、事実として扱っている。

特に、彼女が楽しみにしている外出ほど、よく降る。前の日まで週間予報がずっと晴れマークでも、当日の朝になると、なぜか彼女の予定の時間にだけ、傘マークが滑り込んでくる。

雨は彼女が好きで、たぶん僕のことは嫌いなのだ。

そして今日、土曜日。
彼女はこれから仕事なのだが、そのタイムラインがまた、完璧だった。

朝、出かける時間帯は雨。
お昼、オフィスに籠もっているあいだだけ、ピンポイントで晴れ。
そして退勤に合わせて、また雨。

天気予報アプリが、彼女の出勤時間だけ裏切る。雨避け男の僕がどれだけアンテナを張ろうと、この魔力の前では無力だ。こうなると、できることは一つしかない。

「雨だから、駅まで送っていくよ」

愛車スペーシアギアのキーを取る。「ワイルドだけど、かわいいやつ」という、妻のこだわりカラーの相棒だ。普段なら雨の日に車を出すのは少し億劫だけれど、このタフな佇まいなら、不思議とドアが濡れるのも気にならない。

もし今日が抜けるような青空だったら、僕たちはそれぞれ「自分の土曜日」を淡々と始めていただろう。彼女は一人で駅まで歩き、僕は子どもたちを連れて公園に行く。お互いの一日が、交わらないまま静かに流れていく。

けれど彼女が雨を連れてきてくれたおかげで、突然「2人きりの車内」という空間が立ち上がる。

助手席に彼女が乗り込むと、車内の空気が少しだけ湿る。シートベルトを締める音。デフロッカーがフロントガラスの曇りを取っていく音。ワイパーが雨粒を弾くのをBGMに、僕は信号待ちで、バカバカしい持論をぶつけてみた。

「まるで卑弥呼だよね。昔なら神様扱いされてたよ」

彼女はあくび混じりに前を見たまま、平然と言った。

「生まれる時代間違えたわ」

もし本当に古代の邪馬台国に生まれていたら、彼女は一国の女王として歴史に名を残していたかもしれない。けれどそうなったら、僕と彼女が出会う世界線はどこにもない。雨が嫌いで引きこもったエンジニアと、雨を連れて歩く現代の卑弥呼。

駅のロータリーに愛車を滑り込ませる。

「じゃあ、行ってくるね」

ドアがバタンと閉まり、彼女は雨の中へ消えていく。傘をさして、人混みに紛れて、改札の方へ。

帰り道、助手席は空っぽだ。それでも車内には、彼女が置いていった少し冷たい雨の匂いが、まだ残っている。ワイパーだけが、変わらないリズムで動き続けている。

家に着く頃には、雨はもう上がっていた。僕がずっと望んでいた、乾いた空だ。
扉を開けると、子どもたちが待っていた。

「おかえり! お母さん送れた?」

少し遅い朝ごはんを作る。野菜が苦手なのに、トマトだけは食べる。食べ終えた子どもたちは、布団を引っぱり出してリビングの真ん中に「家」を作りはじめ、雨を避けて静かだったはずの僕の部屋は、あっという間に占拠された。

玄関の長靴は、君を迎えに行く頃には乾いているだろうか。


#創作大賞2026 #エッセイ部門

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